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私たちの物語 - 家族過去ログ No.14
メッセージ数:280件

<280> ゆき ■2004年05月23日 日曜日 16時19分25秒
もう疲れた。
母の苦しみ、父の苦しみ、全部私が受け止めて
私だって苦しいのに
お前がしっかりしていてよかったって言われたら
話を聞けるのはお前だけと言われたら
話を受け止める娘を期待されたら
ほったらかせない
私の気持ちは誰に預けたらいいんだろう
お父さんとお母さんと、私の悲しみ
全部私の中であふれて
行き場がなくて
幼いころ私にあんな扱いをしたくせに
虫がいいよ
私だって苦しいのに
私だって話を聞いてほしいのに
私はあなた方の親じゃないよ
<279> とら ■2004年05月20日 木曜日 18時20分42秒
母とけんかした。母が非常につまらないことで文句をつけたからだ。はっきりしていなかった自分も悪い。経済的な援助はもういらないとはっきり母に言えば良かったのだ。遠まわしに母の考えを操ろうとしていた。それはコントロールだ。昔の癖なのだ。固定客が2件、開拓中が1件ある。お金の管理も日ごとに学んでいる。自分がいかに無知だったか痛感している。しかし、勉強すれば
無限とも言うべき情報が入ってくる。それを考え、使い、知恵に変えていく。
知恵を使えば、身になる。つまり体にインプットされ、無意識でやれるようになる。このことは普段は意識しない部分で、あえて書いてみた。

 話が横道にそれた。母はいつまでも俺が子供だと思っている。年齢差で考えればそうだ。しかし、自分の生活を守れるようになれれば、大人なのだ。僕が
意見すると母は怒る。いつも実質が伴わないといっていじめる。伴ってないわけがない。自営は伴わない限りできないし、日々勉強して鍛えているのだ。そしてすぐに収入額でまだまだだという。小さな仕事が入ってくれば、やがて大きな仕事へと自然の流れで入ってくることを母は理解できない。何年自営業の
旦那の奥さんをやっているんだ。腹がたってしょうがない。母はいつもサラリーマンの家庭が羨ましいと愚痴っていた。自営業は自営業でおいしいのに。サラリーマンの良さもあるのだろう。僕は理解できないが。(すいません)
父の喜んだ顔が浮かぶ。約11年間、父の会社の手伝いをやり、時には小さな現場ではあったが現場監督兼親方兼職人だった。それに営業という職種もついかできると思う。そんな父を見て育ち、手伝っていたので、父の気持ちが理解できた。母はそんな姿の父を褒めることをあまりしない。どうしてなんだろう。僕は父とともに汗を流し、働き、稼いだ。父が悪く言われると悲しくなるのだ。父は頭がいい人だ。建築図面を見ると一回見ただけで頭に入ってしまう。あとは思いを巡らすだけで、仕事の段取りができるようだ。僕もそんな感じだ。建築関係の仕事は特殊な頭の使い方をする。主要な技術は覚えることだ
。材料の品数が多い。それを印象付けて頭に入れておかねばならないし、数も
おおざっぱであれ、記憶しておく必要がある。それプラス、こくこくと変化する現場の状況の対処、突発的に起きる対人関係のトラブル。こんなことをもがきながら父は逃げずにやっていた。パチンコにもめったにいかない。すごい人だと思う。それだけ父は変わったのだ。

 僕は母に似ていると思っていた。慎重な点は母に似ているが、自由な発想で行動する点は父譲りだと思っている。動けば何とかなる。父を見て学んだことだ。取り留めなくなった。
<278> なち ■2004年05月18日 火曜日 10時51分37秒
家の母と父は理解のある親だ。
私のACや体調の悪いのを、本当によく理解してくれて
協力してくれ、反省もし、改善すべきは改善してくれ、
昔のことを私が言って、十分に傷付いた。


私はここで、これ以上を親に望むのは酷ではないかという考えにいたる。

でも、今の親がどんなに私にしてくれても、

昔私が傷付いた事実は消えるわけではない!

それを、自分でもう一度確認したかった。

今の親の行動で、昔の痛みは消えないの。

昔のことと今を切り離さないと。

確かに今は十分にやってくれているよ?
でもそれに後ろめたさや借りを感じることはないんだ.

親だから子供を思うことは当たり前のことだ。

昔私にしたことを考えると足りないくらいだ。

それにやはり、父だって情けないところが多い。
直せよ。

昔私にしたことを考えればこのくらいの痛みには耐えてもらわないと。

私だけが重荷を背負うのは割に合わない。

親のせいでこうなったんだから、
今私の問題で親がもし死ぬほど辛かろうが、
それは子供をこういう風に育てた母自身のしっぺ返しなのだから
私が責任を感じることはない。

それは母の 母とその母の子供に関する問題であって
私の問題ではない。

私のすべきは自分に嘘をつかない。
他人の問題を背負い込ませない。その判断をきちんとすること。
過去の自分を癒してやること。

何より自分を一番に考えて、少しでも幸せにしてやることだ。
人生の主人公を自分に戻してやること。

そしてやはりやらなくてはいけないことは

心の中で

母や父を責めることだ。

人格を侵されたこと、
尊重されなかったことを

キチンと父と母のせいにしなくてはならない。

それが今難しいが

逃げてはダメだ。
<277> 樺山かなり ■2004年05月11日 火曜日 06時01分44秒
なんでこんな家庭に育っちゃったんだろう、私。
父は定職についてないし、母から置き去りにされて。
小さい頃、母親がいなくなったことを何も感じない私が不思議。
新しいお母さんが本当のお母さんだと長い間信じ込まされて、
そのようにうそをついてて。
大人になって「あのときはこうだった」って私に伝えてて。
淋しい。淋しいのは子供のときからあって、今までずっと感じないできただけなんだ。
私を産んだ母はもう死んでしまった。育ててくれた母は父の暴力に耐えかねて、家出した。
淋しい。悲しい。
あたしって、愛情を知らないまま大人になっちゃったよ。
<276> とら ■2004年05月09日 日曜日 22時17分36秒
いらいらした。もう少しで、実家の猫を蹴飛ばすとことだった。
何に怒りを感じているのだろう。僕の気持ちが家族に受けて止めてもらえないことだ。最近の経験を家族に話すとお前の感じ方でしょといわれる。それぐらい世間はシビアなんだといってもこの馬鹿で感覚のずれている家族には伝わらない。相変わらず、古い考えにしがみついている家族。常に世間に自分をさらし、世間の空気を感じている俺。どっちが現実的だ?俺だ。怒りが家族に沸く
。田舎の感性はこりごりだ。頭が馬鹿になるもの。自分の感性を守りたい。
<275> Yoko ■2004年05月07日 金曜日 13時25分48秒
10歳から15歳までの5年間、伯母と暮らしていた。
私は“暮らしていた”だけど、他人から見れば“預けられていた”だと思う。
暮らし始めた時のことはあまり覚えていないけれど、何となく捨てられたと思っていたような気がする。
父は近くに住んでいたから、仕事が終わればまっすぐうちに来て、時間が合えばいっしょに晩御飯を食べた。
でも、その後、父が帰って行く時がすごく寂しかった。
父の背中がドアの向こうに行って、ドアがバタンって閉まった瞬間の自分が目を閉じるといつもいる。
父にも母にも捨てられて、一人ぼっちだと思っていた。
伯母はとてもよくしてくれたけど、この人は私を守ってくれる人ではないと思ってた。

今は父と伯母と3人で暮らしている。
夜中に目がさめて、父が寝ているのを見るとすごく安心する。
友達みたいにケンカもするし、冗談も言い合っているんだけど、でも、なんだか目の前に溝がある。
どんなに努力しても、埋まらない溝。
話しても話しても、この人は本当の私を理解していない。
親子でも所詮、他人。
父は気づいているかな。
私たぶん、父を信用していない。憎んでいるかもしれない。
<274> 零 ■2004年05月07日 金曜日 08時21分19秒
朝から説教を受けた。むかついた。いつもと同じ口調、すっごくストレスを感じる。だれも俺のことを弁護してくれる人間がいない。それは昔からだからいいけど。家の悩みは人は聞いてくれない。外の悩みは家族は聞いてくれない。どうでもいいや。それにしてもあの母親の声なんとかならないかなぁ。うるさくてしょうがないや。俺が悪いと無条件降伏しているのだから、許してくれや。
<273> なち ■2004年05月06日 木曜日 23時47分07秒
普通さ、子供ってしつけるもんじゃない?
なんで放棄すんの??
あんたに教わったことはひとつもないよ。
してはダメなことをダメだと叱られたことも一度もない。
アタられたことしかないよ。それもアンタの機嫌が悪いときだけ。
理由もなしに。
私はね、ずっと叱ってほしかったよ。
歯止めが効かず、わがままが押えられないようになってる自分を止めてほしかった。
物心ついて、私は隠したよ。こんな自分を。
興味示せよ。もっと心を教えてよ。
私の家族は何事もない普通の家族だったけど、愛もなかった。
父さんも母さんも、外面ばっかりいい顔して。
まわりのみんなが、「優しいお父さんとお母さんね」って言うから
私は非難できなかった。そうやってみんなに言われる度、
「本当の顔をしらないからだ」って怒りが湧いたけど、
それ以上に、悲しい想いでいっぱいで、暗くなっていた。
みんなは「働き者のお母さんとお父さんだ。手伝いしなさいよ。」って。
母は返す「この子らに言ってもしょうがないのよ」
手伝えなんて一度でも言ったことないくせに!
貧乏なのに、何から何まで甘やかせて、
そのくせ「えらそうな子だ!」
「言うことききなさい!」
「何様のつもりだ!」

親戚のおばちゃんが、
「なんで子供の言いなりになるの?私だったらそんな勝手なこと言ってたら許さない」
って言ってくれたことがあった。
あれは小学校三年生だった。
「そうだよ!お母さん気づいて!おばちゃん助けて!」
私は今想うと、裏ではこう叫んでいた。
幸せそうな普通の家族の裏に隠されて、私は何か道を見失っていったんだ。
ただただ、明日が来るのがとてつもなく、恐ろしかった。
私の心は、絶望からまだ、明るい愛に満ちた世界を信じることが出来ない。

私は口をつぐまなくちゃいけなかった。
幸せなふりをしなくちゃいけなかった。
父と母を見習ったんだ。
父と母は、中身のない、からっぽ家族に必死だった。
周りから見て、よく見えることが全てだった。
だから私も素直にそれに習い、そればかりのために生きて
そればかりを追って気にして落ち込み、くるくる回っている。
<272> 埴輪 ■2004年05月06日 木曜日 10時50分51秒
社会性が欠如している。
この家にいては、いつまでも今の自分のままだ。
「何の役にも立たない」と言われたよ。
自分で言うのもなんだけど
私役に立ってるじゃない。
私がいなかったら、とっくに家の中はめちゃくちゃになっていたのに。
私は、友達や、先生や、バイト先のお客さんとか、外の世界の人に触れて
はじめて自分が存在していてよいということを知った。
家族は誰も教えてくれなかったよ。
早く例のやつを申請して
お母さんが安心できるようにして
そしたら本当に家を出て行こうと思います。
お母さんごめんな。
私はお父さんとはうまくいきません。
これ以上ここにいたら、私は自分をいつか殺すでしょう。
背伸びしなくても、がんばらなくても
認めてくれる人が外にいる。
何をしても認めてくれない、興味を持ってくれないのはお父さんだけ。
だから離れたい。
<271> 埴輪 ■2004年05月06日 木曜日 10時36分53秒
わたしをこんなふうにしたのは誰だと
久々にいいたくなった。
だめなもんはぜったいだめだ。
いやだ。
どんな手を使ってでも避けたいことが、私にはある。
それを、あのひとは
「お前は異常だ」という目で見て、いろいろまくしたてる。
あんたのせいでこうなったんだよ。
よくみておけよ。
失敗作を。
「使えるか使えないか」
それだけがあなたにとっての唯一の判断基準。
やっぱりだめなんだ。
私はこう思おうとしてきた…「あの人は愛情の示し方を知らないだけ」
でも違うんじゃないか。
子供を愛せない親は実在するんだろう。
私は、否定したいとずっと思ってた。
「愛せないのではなくて、愛し方がわからないだけ。
だから冷たいのだ。」と。
でも違うんだ。これが現実なんだ。
おとうさんにとって、使えない人間は要らない人間。
<270> M ■2004年05月03日 月曜日 23時50分25秒
わたし欲しかった。。
家族が。。心からあったまる家族なんて存在しないのかもしれない。
でも、せめて笑い合いたかった。
許したかった。許せば楽になれる気がした。
でも、私には許すことはできなかった。。
どうしても憎むことしかできなかった。。
すごく・・長い間・・言葉にならない気持ちが渦巻いているだけで、
ただ帰る所もないから。。
どこにもない愛情を求めていた。
せめて心から挨拶だけでもしたかった。
でも、、、許せなかった。
「家族」・・不思議な呪縛に縛られながらも、
そんな言葉だけで繋がっている私の心の傷。。
それが私の「家族」。。
もう家族ごっこは・・・もうやめよう。。
やすみたいよ。。
<269> およよ ■2004年05月02日 日曜日 21時18分18秒
「年老いた母親について」
最近思う。親、兄弟なんて、離れて暮らしてしまえば、赤の他人みたい。
どうせ押さなかった時と同じように、無視、怒りのゴミ箱、おだて役。
私は今も同じ、いらない子だもの。どうして、こんな関係をまだ改善したいと、夢みたいなこと思っているのだろう?
何度も、何度も、母親の愛情を試してみて、何度も傷つき。
今から、将来も傷つきたいのかな?そんなことないよね。
私はもう、沢山傷ついた。沢山痛めつけられた。
どこかどうなって、そんな憎しみが母親の中に湧いてきているのか、私には、理解でない。彼女は親で、私は子どもだったのだから。
それとも、彼女が親でなくて、まだ、私の前では子どもじゃないかなと思う。
いつも、私のご飯を食べて、私が洗濯した服を着て、私がご機嫌をとって。
そんな子供親が、すごく彼女は心地良いのかもしれない。
誰にも、見せない、彼女の意地悪。誰にも言わない、彼女のいやらしさ。
母でなくて、子供と女の部分で、私に接してくる母親。
彼女こそ、どうにも成らない人だよね。
私は、もう、彼女との付き合いはいやだ。無駄な時間にしか過ぎない。
私の自尊心を壊す事が彼女の自尊心を築く方法かもしれないと思う。
それなら、なおさら、親子の関係をなくしたほうが、私のためにいいと思う。
<268> 衿 ■2004年04月30日 金曜日 22時41分29秒
わたしのうちは幸せなおうち。
母はいつも家にいて、ゴハンを作って待っててくれている。
父は日勤の日はきちんと6時には帰ってくる。飲み方に行くとおみやげにドーナツを買ってきてくれたりした。
姉妹でけんかしたりするけど、とても仲良し。
毛がふさふさとした可愛い猫を飼っていた。おとなしくて良い子だった。
傍からみたらごくごく平凡な暖かい家庭だったろう。

でも何か違った。
いつも息苦しくて泣き出しそうだった。何かがちぐはぐな感じ。
学校は大嫌いだったけど、家も好きじゃなかった。居場所がいつもなくて早く家を出たかった。
私だけがおかしいんだと思っていたけど、後で妹達も同じだったと知った。

わたしたちのうちはさみしい家庭に育った母が夢見た「スゥイートホーム」だったのかもしれない。
猫も死んでしまったし、私達は大人になって、家を出た。
今では誰もよりつかない。
<267> なち ■2004年04月30日 金曜日 18時10分13秒
犬をぶった。苛立ちまかせに、力まかせに。
思い通りにならない犬が腹が立った。
昔の母と、同じことをしている。
喧嘩をするわたし達兄弟に、土下座して一万円を差し出し「お願いだからやめてください。」と泣く幼い日の母が脳裏に浮かぶ。
わたしは抜け出せるのだろうか。
あの時の絶望。世界は一気に黒い世界に変わるのを、はっきり思い出せる。

「ドウスレバイイ?」

わたしの20数年間、それだけだった。
<266> いつき ■2004年04月29日 木曜日 23時46分15秒
何の不自由もなく、ノビノビと育ててもらった。
と、思っていた。

でも、私のこの状況は、ぴったりACに当てはまる。

なにかが、ずれていたんだろうなぁ。
夜中にファミコンに熱中する両親。
日常の生活の場に、堂々とエロ本を置いたままにする両親。
仕事から帰ってきてご飯作ってくれたらソッコーでパチンコに行く両親。
etc.etc

小さいときからテレビの制限も無く、いくらゲームをしても怒られず
エロ本でゆがんだ性知識を得、パチンコのおこぼれを期待して留守番。
ちょっと他と違うかも?という思いはあった。
けど、それをなぜか自慢に思っていた。

でも、今は思う。
もっとあなたたちと、正面から会話をしたかった。
<265> Yoko ■2004年04月28日 水曜日 10時46分10秒
父に嘘をついた。
あの人に母の実家の電話番号を教えた、と。
本当は教えていない。
「ママ、おばあちゃんちにいるよ」って話しただけ。
何で、私、そんな下らない嘘ついたの?
母とその人の関係を聞かされたから、許せなかったの?
それとも、手柄をたてたかったの?
パパ、ようこはずっとパパの味方だよって言いたかったの?
その嘘のお陰で、バレたら父に捨てられると思ってた。
今もそう思ってて、本当のこと言えない。
<264> ねここ ■2004年04月27日 火曜日 01時17分29秒
父だけじゃなかった。だんだん紐が解けてくるにつれて感じ始めた。
呪いのよう。私は母の味方だった、いつでも。
いじめられて一人ぼっちでかわいそうだったから。
反抗期はあったけども、ハタチ過ぎてからはよく一緒に過ごした。
でも気付いた。おかしいんだよ。うまく言えない。
たぶん変わったんだ。今までのようには見れない。
母は被害者だと思い続けてる。自分を見てない。
私どうしたらいいんだろう。求めてくる。応えなければ泣かれる。責められる。
子供みたいに泣いて責める。そんなこと言わんといてって。
悪者になってもいいや。って言い切れない。怖い。
父が死人みたいだった分、私が楽しませてあげないといけなかった。
あの人は父と私を間違いなく同一化している。
私が距離を置いたら。。。
というか答えはわかってる。私は今までのようにはできない。
あなたもきっと途中。父や私に振り回されないで、見つめてください。
私はもう手放したい。怒りが向けられるであろうことを覚悟しとかなければ。
結果は後から付いてくる。今は辛くとも。自分の道を。猫と友がいる。身を任せる。
<263> ayako ■2004年04月26日 月曜日 14時59分28秒
自分のお姉さんの葬式の話を聞いた。その人はお姉さんと仲が良く、ずっと一緒に暮らす気だったみたい。そのお姉さんが突然死したのだからショックは大きかったのだろう。葬式は両親ではなく彼女が全て仕切った。葬儀屋に金額を提示して、手伝いを呼ばずに頑張った。彼女は3人兄弟。兄嫁はいるが手伝いもせずにボーっとしていたという。彼女の母親の妹は香典を200万持って来た。彼女は母親に「こんな大金かえしなさい」と言うが母親は「すぐには返せないだろう」と言った。200万持ってきた母親の妹は手伝いもしないのに口ばかり出す。葬式の最終日に彼女の弟の彼女をお寺の前で返そうとした。彼女は「口出さないで下さい」と言うと「金かえせ!」と怒鳴って1時間位姿を消したそうだ。後日お金はきっちり返した。そしたら彼女宛にブランド物のサイフを送って来たそうだ。彼女は母親に「そんな物返せ」と言ったが母親は返さず使ってるそうだ。母親の妹は許してもらったと思ってる。彼女の兄もお墓の話になった時「俺は自分で買うから」と言った。
頭に来た彼女は「そんな事言うならあんたは家族じゃない。縁切る」と言ったら
彼女の頭を3回叩いたそうだ。それにも彼女は頭に来てた。彼女には言えないけど・・お兄さんもおかしい。正月の挨拶はおろか普段連絡もしない。それで仕事の都合で実家に2ヶ月居座ってる。お金も持って来ない。「金返せ」ババアもおかしいけど、彼女の母親もおかしいと思う。「金返せ」ババアがおかしいと説明しても「だってお前おばさんだろう」しか言わないそうだ。彼女は家族の為に奔走してる。彼女が「おねえさんと仲直りした?」と会う度聞いてくるが「もう縁切ってるから、仲良くする気はない」と返しても「兄弟だからいつか仲直りするわよ」
私は親とも縁切ってるし、家族だからって自分を嫌な気持ちにさせる人と連絡取る
気ないけどと言いたい。彼女が兄となんとかしたいでしょうね・・でも私の事と彼女の事は関係ない。私は家族の事に関しては踏み込まれたくない。今度また言って来たらハッキリ言うしかないわね。「私とあなたは違う」と。
葬式の話は初めて聞いけど、どこでも変なやつは居る。行事は出ない事にしよう。
結婚したくない理由の一つにもある親戚付き合い

<262> ayako ■2004年04月26日 月曜日 14時20分04秒
この
<261> ミー ■2004年04月25日 日曜日 00時46分07秒
ずっと苦しかった。2年間家族から離れて暮らしていた。新しい場所で生活を変えた。去年はとうとうかーちゃんから手紙が来た。心が荒れた。たくさん悲しみと怒りが湧いてきた。小さい私が悲しがっていた。小学校1年の初めての授業参観に父ちゃんが来た。うれしかった。友だちとはしゃいでしまった。家へ帰ると父ちゃんは母ちゃんに言った。「もう二度と行かん。後ろ向いて先生に注意された。恥ずかしい」そう言った。うれしくてわくわくしていたのに、私は否定された。私は悪い子だと自分にレッテルを貼った。父ちゃんは二度と、下のきょうだいの授業参観にさえ行かなかった。悲しかった。そんな記憶が湧き出てきた。そうだったのか、あの時、私は自分が悪い子、恥ずかしい子だと思ったんだ。父ちゃんのおつかいはいつもこうだった「子どものおつかいはやるな」。父ちゃんは必要としていることを考え、頼まれたもの以外にも必要と思えば買っていった。深読みを求められ、それが褒められることがうれしかった。それはいいことだとずっと思っていた。でも気がついた。いつも緊張状態でお使いをしていたこと、父ちゃんに褒められることに一心になっていた。私は一体何だったのか?犬か?忠誠心を試されているの?何か気にいらないことがあればこうだった「誰の金で食わせてもらっているんだ、嫌なら出ていけ」歯をくいしばって耐えた。大きくなってから家を出るまでこの言葉は水戸黄門の印籠のように最後に現れた。金を稼ぐようになったら絶対出てやると思った。何でこんな言葉で子どもに威圧的になれるんだ!!言い返せない拒否される悲しみがわからないか!!母ちゃんも世間的にはいい子だった。たくさんの人に尊敬される人。こんなわがままな親父も許す、寛大な人。大好きなばあちゃんが死んで私はバランスを失った。仕事で家から遠く離れ、大好きなばあちゃんの最期の時間に充分関わることが出来なかった。家族の人たちは亡くなった後、充分介護出来たことに満足しあい、そのことを楽しそうに共有しあっていた。私には私を小さい時から無条件に愛情をいっぱい注いでくれた姿しかなかった。家族の中でのけ者になった気がした。あの人たちになんの悪気もない。それがよけいに苦しかった。私は離れていて何もしなかったのだから。ばーちゃん、寂しいよ。私もばーちゃんと同じくして体調を崩し、仕事も休まざるを得なかった。それだけばーちゃんの死に向かっていく姿は私にとって強烈だった。体が思うように動かない私は最期もお世話出来なかった。ばーちゃんが亡くなる前の日、ばーちゃんの誕生日、妹たちと母ちゃんは病室でケーキをおいてお祝いをした。私は翌日亡くなった席で聞いた。お祝いをした妹たちは満足そうだった。私はやっぱりのけ者だった。一言知らせてくれてもいいのに。彼女たちになんの悪気もない。ただ、私は家族に入っていないのだ。悲しみが増した。でも、ばーちゃんがいなくなったことが大きかった。ばーちゃんの棺を家から送り出す時もばーちゃんのいる霊柩車には乗れなかった。私は何もしていないのだという気持ちが妹たちに遠慮した。ばーちゃんの大好きだった散歩コースを周りながらみんなで思い出を語りあったらしい。1年忌こそ体も元気になったし、いっぱいやってあげたかった。でも私はなんの連絡もなかった。今度こそと思ったのに当日しか母ちゃんから連絡はなかった。前日も何度も電話をするもつかまらず、私はお客さん扱いだった。台所は妹たちと親戚の大きな顔をした人が指揮っていた。その娘も来ていた。私まで入るスペースはない。なんで一番ばーちゃんにかわいがってもらった自分が何も出来ずに生きている時には縁遠かった人が大きな顔して親戚デビューとでもいうように娘を連れてきたいるの?それをそのままにしてる母ちゃんって何?何も出来ない絶望感。悲しくて帰りの運転は涙で前が見えないほどだった。みじめだった。やっと自分の心を整理して母ちゃんの手紙に言い返すことが出来た。泣きながらいろんなこと思い出して書いた。こんなに溜まっていたのかと驚いた。そして気持ちに整理をつけたと思ったのにこの前夜人ずてに電話番号を聞きつけてかけてきた。なさけをかけて家に入れた。話しあった。お互い泣いた。母ちゃんの子どもの頃からのつらさも自分たちを必死で育ててきたこともいっぱい聞いた。これ以上責められないと思った。なのに今日ばーちゃんの墓まいりに行ったらそこへ家族が仲良くやってきた。私は一言もこの家族から知らされていなかった。「今からやるんだよ」と妹は言った。私は今日やるとも聞いていない。なんて無神経な人たちだろう。ばーちゃんが引き合わせようとあの世から仕組んだかもしれない。でも裏目だ。私の心はまた家族に閉じてしまった。また棘がささった。無神経な家族は何度話してもだめだ。家族に期待してはいけないとアドバイスされた。でも期待してしまった私はバカだった。心が溶けたと思ったのにこんなことがあればまたすぐに自分を孤独に追いやってしまう。悲しくてまた涙が出る。ばーちゃん、つらいよ。私は何なの?

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This script written by Shintaro Wakayama.