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私たちの物語 - 家族過去ログ No.12
メッセージ数:240件

<240> NAC NAC ■2004年04月05日 月曜日 01時48分17秒
土曜日の夕方、私は栃木県氏家の温泉(入浴料\500、但し「井戸水沸かし」)に入ってきた。
そうした温泉や銭湯で私は必ず人間観察をしているのだが、今回私の滞在時間内の視界内にマナーの悪い人間はおらず、(粗探しが趣味?の)私にとっては真に心地良いひと時であった。
そのリラックスした時間の中で、私は「良き父親」モデルを2件観た。
1件は「それぞれの子供に入浴マナーを教える」22〜26くらいの若いパパ2人。
私がその年のころには何をしていたろう? 
子育てどころか・・・・・ 今「自分育て治し」をしている最中なのに。いやはや御見逸れしました。
2件目は「娘(4,5才?)への行為に対して礼を言う」24〜28くらいの若いパパ。
露天風呂がそこそこいっぱいだったのだが、その女の子が入浴中の私の脇から入ろうとしたので、私が脇にどいたらその父親が「どうもすいません」と言ったのだ。
そんなお礼の言葉なんて私は期待もしていなかったから、驚いたと同時に私は感心させられた。
「親ってのはこうでなくちゃなぁ。子供が礼を言えない、または覚える前の年齢なら『親が代わって礼を言う』くらいのことはできないと親として恥ずかしいよなぁ」
未だに結婚の当てもなく独身で「のほほ〜ん」と過ごしている私からすると、羨ましくもあり、反省もさせられる出来事であった。

人から見て「この親立派だなぁ」と思われるようになるのは、機能不全家族で育った人からすると大変なことである。
適切な愛情で満たされ育った人は虐待行為そのもの、その術を知らない。
なぜなら虐待を受けた経験がないからだ。
逆に肉体的にでも、精神的にでも虐待または極度の抑圧・緊張で育てられた人は無意識にでもそのような行為をしてしまう可能性が非常に大きい。
なぜなら虐待された経験をしているからだ。
愛情も虐待も、親の養育の仕方ひとつでどちらにでも転ぶ。
そして人間の無意識にずっと蓄積されていく。
歪んだものはずっと歪んだままだ。

よかった、私は気が付いて。
「自分は虐待する可能性のある人間だ」ってことに・・・
だから修正しようとできるのだ。

これから大人になろうとする私にとって大事なのは「良いお手本」となる家族である。
そういう家族を探すのも自分の感受性次第だ。
<239> もで ■2004年04月03日 土曜日 07時02分55秒
幼稚園か小学校に入るまでは、私はお父さんっ子だったらしい。しかしその間に毎日、気に入らないことがあると父に捨て台詞を吐く母親を見てきて、いつのまにかそれに洗脳され、父親が嫌いになっていた。
今こうして考えてみると、父が本当はどんな人なのかが全く分からない。
全ては母からの刷り込みでできあがっている、仮のイメージだけの父。
思えば、そこまで嫌な人ではなかったのかもしれない。
父は、よく家族でどこかへ出かけようと誘っていた。
あれは、彼なりに家族の関係を立て直そうとしての事だったのかな。その度に母は「行かんわそんな所」って、話も聞かずに否定していたっけ。
私は内心、行ったことがない場所に興味を持ちつつ、「父親が一緒に行くのは嫌だ」と刷り込まれた考えを『自分の考え』と勘違いして、母と一緒になって父を否定した。

母にとっては万々歳だったろう。自分が産んで、夫より多くの時間をかけて育てた娘が、なぜか自分より夫になついている。それが耐え切れなくて、日常の小さな不満を大きな問題のように誇張させ、私に愚痴り、「父は悪い人なんだ」と思いこませる。そうすれば自分の手を汚すことなく、父が悪者で母はかわいそうな人、だからお母さんについてあげなければ、という夢のような状態のできあがりだ。
そうすれば娘を夫に取られることもない。言うことを聞いてくれる、いい子ちゃんのお人形は、さぞかし可愛かったでしょう?
未だに夫婦間で気に入らないことがあると、真っ先に私に愚痴ってくる母。夫婦での話し合いはゼロだ。そんなんじゃ何が原因で怒っているのか、父にも一生分からない。私に愚痴れば、代わりに私が父を攻撃すると思っているのか?
それは的外れな話。私は気付いてしまったから。

今思えば、私が小さい頃父を好きだったのは、それだけ相手をしてくれていたからだ。楽しい遊びや自然の知識、「こうすればこういう事ができる」という事を教えてくれたからだ。
母から教わったものは「こうしなければみっともない、こうすればこんな悪い事が起きる」というものばかりだった。
どうしてもっと早く気付けなかったんだろう、という気持ちと、今気付いて良かったという気持ちが交錯する。
<238> まろ ■2004年04月02日 金曜日 10時00分57秒
また母からの手紙が届く。

彼女からの手紙が届くたび、私の心はまたバラバラにされる。
塞がりかけていた傷がまた開かれ、血が流れ出す。
母はどういうつもりでいつも、こんな嫌がらせをするのか。
「子育てに失敗した」「金銭的にも精神的にも何不自由無く育てたのに」
「他人の子は立派だ」「親にも相性の合わない子供がいる」
そんな言葉の羅列・…。私は35歳、結婚して10年、子供無し。
仕事だってバリバリしている。
いったい、母の望む娘ってどんな人間なの?
私は愛されていない、おまえはダメな人間だってずっと言われて
育ってきた。
がんばってもがんばっても認められることがない。
私は母に気に入られるように、見捨てられないように
母の希望通り生きてきた。自分の意思なんてもう自分でも
どこにあるのか分からない。
私が何をしたって言うの?
読んでから3日経つけれど、まだ心が立ち直っていないんです。
ドキドキして、涙が出て、部屋に引きこもっています。

私達には子供が出来ないんですが、母は良かったといいます。
私になんてどうせまともな子供を産めないだろうと
障害を持った、あるいはひどいアレルギーを持った子供が
産まれる。
それに私には子育てなんて出来ない、とも。
母はなぜ私の心を傷付けることしか言わないの?
そんなに私が嫌いなの?

主人だけが私の家族です。
子供なんていらない。主人を誰にも取られたくない。子供にさえ。
主人が死んだら、私も死ぬ時だと思います。

<237> ひこうき ■2004年04月02日 金曜日 09時22分16秒
わかったよ。

私は、お父さんから愛してほしかったんだ。
でも私が欲しいだけの愛はもらえなかった。

葛藤があると・・

私はお父さんをを怒ったり憎んだりしたくないばっかりに
まず、お父さんを肯定してしまう。
「お父さんはちゃんとしてる。
 あの人にも事情があるんだから・・しょうがないよね。」
それで許したつもりになる。
(『この時、自分を騙していたんだ!』)

でも葛藤は消えない。

そしてその葛藤の鉾先は自分に向かうんだ。
「私がちゃんとやれてないから・・」
「私の努力が足りないから・・」
「私に魅力がないから・・」
「私は変わっているから・・」
・・・自分のせいにしてしまう。
そうやって自己評価は下がっていくんだ。

それで努力する・・。
結果が出せないと、自己評価はもっと下がる。
例え評価されても・・・それは愛とは違うから
葛藤が残る。私は満たされない。

それでいつも胸のなかに空洞を抱えていたんだ。
自分が嫌いなまんま・・。
そんなことをくり返してきたんだ。

葛藤は怒りだったんだね?
私は必死に蓋をしてきたんだ。

許すのは、ずっと後でいい。
愛がもらえなかったことが悲しかった。
お父さんを憎んでさえいるっていうことを
怒りを感じよう。
<236> とら ■2004年04月01日 木曜日 22時38分39秒
明日は実家の手伝いだったが断った。
自分の仕事をしようと思うから。営業しようと思う。
やっと、家族の呪縛から離れられるかな。
自分の人生は自分で何とかしたいし、なんとかしよう。
父の人生は父の人生、俺の人生は俺の人生。苦しくても
自分で何とかするよ。親に縛られるよりいいもん。
<235> ひこうき ■2004年03月29日 月曜日 01時09分15秒

昨夜、十数年ぶりに父親と大ゲンカをしてしまいました。
父は一見、優しそうに見えるのですが
内面は家族の迷惑を考えない自己中心的な人で、人の話を聞こうとしません。
鈍感で強情です。

父はたまに思いもよらない問題をふらっと引き起こしてきて、
後始末は、いつも母がしています。
そういった問題が起きないよう、母はいつも目を光らせています。
母の愚痴を聞いたり、後始末のサポートを私は子供の頃からしています。
最近私は、できるだけ父を避けるように暮らしています。

ですが、きのうは父の引き起こした出来事のせいで、母のストレスは最高潮で・・
私も胸が締め付けられる思いとなった時に、
父がとても無神経な行動を取ったので、私は切れてしまいました。

父に変わってもらわないと、母が困るので、私は必死に説明しました。
夫婦の問題で、私には何のメリットもない話でした。
父は耳栓をしているみたいに話を聞いてくれないし、興奮してこちらを挑発してくるので、私は父をスリッパで叩きました。
そしたら、身体が倒れるほどに頬をビンタされました。ショックでした。
「お父さんに向かって言う事か!」と言われ
「一度だけは聞いてやろう。」とエラソ−でした。
なので私が気持ちをまとめて話しはじめると、父から途中で話しを切られてしまいました。私は強烈に怒りました。

過去のことも思いあわせて修復は無理だと思ったので、私は父に「出ていって!」と言いました。
父は「ここはお父さんの家だ!」と連呼していました。
私の中のなにかが切れてしまって・・
私は気狂いのように外に向かって「ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」と5分位叫び続けました。父への抵抗と、近所の誰かに助けてもらいたかったから・・・でも誰も来てくれませんでしたけど。
叫びながら私は「お父さんが、ここから出ていってくれたら、静かにするから」と話していました・・
でも父は子供のように抵抗を続けていました。
私と母は外に父をひきずり出そうとしました。
すると、父は立っていた私の両足を上に持ち上げて後ろ向きのままの私を床に倒しました。
(あのとき頭を打っていたら、危なかったと思います。)

そんな事の後、父は観念してやっと話を聞き始めました。
私は父に「夫が妻にすることは何なのか?」聞きました。
父は「お金」以外、いくら待ってもまともな答えを返せませんでした。
それを見て「35年間を返して欲しい。」と母は言いました。
母は「何が原因だったのか?やっとわかった」と・・。
父は「今の生活は地獄だ」って言いました。
そうしたのは父です。

私が一番ショックだったのは、
身をもって私は愛されてはいないんだなって悟ったことです。
昔から「何か変だ?」と思ってきたけど・・・そうなんですね。
それでも父の中では、私を愛しているつもりらしいのですけどね・・・
結局、「父は人を愛せない人なんだな〜」っていうところに私の中では決着がつきました。

私は、幼い頃から「人を憎んじゃダメだ。」って思ってきて、
誰に酷いことをされても、許そう、許そうとしてきました。
でも私は神様じゃないですから。
同じ人を何度も・何度も許した挙げ句、裏切られて・・
もう、嫌いな人は「嫌い」だし。憎んでもいいんだと思います。
私は父を憎んでいる事を認めようと思います。

近所の人の手前、昨日叫んだことが恥ずかしくて・・今日は一歩も外に出られませんでした。
でもいいんです。
他人なんていざとなったら助けてはくれないんだし、関係ないです。
明日は外に出ます。
自分が強くならなきゃって、思います。

母の家がもう一件あります。
あと数年で、母に年金が支給されます。そしたら晴れて両親は離婚できます。
子供の頃は寂しいって思ってたけど・・今はとても嬉しいです。
その時は私も家を出ます。
<234> うめきち ■2004年03月29日 月曜日 00時28分45秒
いつもお山の大将のの父
私が小さい頃から、いつも何かしら自分の気に食わないことがあると怒り出し、周りを巻き込んできた。
部屋のどこに行こようが、毎日のように怒鳴り声が聞こえてくる。声が聞こえなくなるまで、布団を頭からかぶって丸まっていることもしばしばだった。
ただ独りで怒鳴り散らしているならまだいい。その時気に食わなかった相手に物を投げつけ、拳骨で殴る。髪を掴んで引きずられ家の外に投げ出されたこと、飲んでいたコーヒーをかけられたこと・・・色々ありすぎて書ききれない。
父と話しする時は必ず正座。
進路の相談とかも、父の決めた進路以外にしたい場合は「相談」ではなく「お願い」だった。あくまでも「自分はこうしたいのですが、よろしいでしょうか?」と、お伺いをたてて許可を受けなければならなかった。
勿論、必ず父の納得する正当な理由を述べなければならず、機嫌の良い時を選ばなければ、一度却下されると終わりである。
父の「声」は、正しかろうが間違っていようが絶対だった。
今では少しばかり大人しくなってきたが、今でもその日の機嫌で左右されるし、父の言葉に少しでも意見しようものなら、直ぐに手が飛んでくる。

そんな父だが、親戚に対しての外面だけは凄く良かった。
子供には決まった小遣いも与えず、洋服もあまり買ってくれず、外出は必ずジャージだったのに、他人に対してはザル状態で、親戚一同数十人全部招待して泊まりの旅行に連れて行ったり、タクシーの無料チケット(請求はこちらもち)を配ったりしていた。
そして、私たち家族にも、親戚を大事にするようにと強要していた。
普通に大事に、ではなく、つまり「親戚のしもべになるように」である。
そして、それは主に、父の一番近くに居た私の役目だった。

祖父母や親戚が家に来るからと電話がくれば、車でお迎えに行き、家で接待をし、帰りは送り届け、
病気がちで入退院を何十年と繰り返していた祖父が入退院のたびに、送り迎え・看護の手伝い・買出し・見舞いに来てくれた人の接待・・etc
亡くなる数年前は、月に2,3回、毎週のように祖父の家に呼ばれて行っていた。
下らない用事では「テレビが映らない」「電話が調子が悪い」なんてのもあった。
父の兄弟も沢山居るのに、父の面倒は主に父が見るものと暗黙のルールが出来ており、つまりその役目は、父のしもべである私の役割だった。
勿論、それを拒否したり、何もしない父の兄弟を悪く言ったりしたら、怒鳴られ、なじられ、卑怯者扱いである。
父は長男で、父の言う親戚とは、父の兄弟・父の叔母・従姉妹・祖父母・祖父母姉妹などなど非常に多く何十人にもなり、葬式の付き合いだけでも年に数回。
誰か亡くなるたびに、夜に通夜に走ったり、葬式の手伝いをしたり・・。
書き出すとキリがない・・。
頭が痛くなってきた。今日はここまでにしよう・・。
<233> ハル ■2004年03月26日 金曜日 06時59分41秒
なんかいい加減タイムリミットが近づいてきた気がする。子供の頃は大人になったら変わるだろうって信じてたのに結局あれから何年たったのか。まるで私達家族だけ時間に切り離されたように何にも変わらない。いや、少しは変わったのだろう。ダメな意味でだけれど。母は前よりも子供っぽくなり何もしなくなった。昔から遊んでばかりで家事も嫌いな人だったけれど、最近はまったくといっていいほど何もしない。夕飯が出来る頃に遊びから帰ってきて人が作ったご飯を当然のように食べる。私はあんたの母親じゃないって。そして逆らえば近所中に響きわたるようなヒステリックな声をあげて「私がいなければいいんだろう」とお決まりのパターン。逆ぎれですか。そうだよ。あんたさえいなければ私はもっと幸せになれたんだ。子供を育てる能力もないくせに産んであげくその世話は自分の母親にやらせたくせに。そのくせ何かあるたびに親の顔をふりかざす。いい加減うんざりする。動物の虐待や児童虐待のニュースを見てさもこんなことをする人間は信じられないと常識人を気取る女。でもちょっと待て。飼っている犬が怯え声をあげるほど蹴りつけたりするのは虐待じゃないの?私にしてきたことは虐待じゃないって言えるわけ?あんたが常識なら私は非常識でかまわない。たぶん一生わかりあえないって最近やっと諦めがついた。
<232> とら ■2004年03月26日 金曜日 06時17分55秒
自営業のをやっている家庭で生まれただけにその勝手を知っている。急な変更を頼まれることを知っているが、昨日は父に倉庫整理はできるが、調子が悪いので現場の手伝いはできないと伝えた。最近、父は素直に聞いてくれる。だが
、なんかまだもやもやするな。手伝うと当てにされるのはわかるが、じゃっかん昔のパターンに戻るのが辛い。父も歳をとってきたので弱くなっているのもわかるが、自分のことは自分でやるよう言い聞かせている。僕は自分がやるといったこと意外はできないんだ。わかってね。自分の仕事もあるし、プライベートもある。バランスを取る必要があるんだ。気持ちを伝えてバランスを取る。
<231> うめきち ■2004年03月25日 木曜日 23時42分56秒
母は家事が大嫌いだ。
やることといったら、全自動洗濯機を回し、ご飯を作るのみ(しかもメニューは毎回炒め物)。
掃除なんていつやったのか?掃除機・・いつかけたっけ?思い出せない。
あまりに酷すぎて、トイレの掃除や風呂掃除、目に付く所は私がやるしかないのだ。なるべく見ないようにしようと努力しているが、自分が使うのには我慢できなくなって、やってしまう。

食事も、自分で食べたいものがあったら自分でつくらねば、口に入ることは無い。
だから、作ろうと台所に行くと、まず、作る前に、前の食事(下手すると、丸一日分)の片付けをしてからでないと、作ることさえ出来ない。
よく小さなころお腹を壊していたのはそのせいなのだろうか・・。
そのたびに全て片付けて、そして、こうやって料理するんだよと、作り方も教えてきた。
何度、油まみれのコンロや換気扇を掃除してやっただろう。何度、こうやって掃除するもんなんだって教えてやっただろう。何度教えても変わらない。
そのくせ「自分だって食べるんだから、手伝いなさいよ」などと平然として言う。
見たくないのだ。あの惨状を・・。私には理解できない。
私が料理しだすと、当たり前のように台所から居なくなり、庭で花を摘んできて遊んでいる。何様なんだ。あんたは・・。

共働きとか、パートに行ってるなら、少しは許せる。
でも、母は専業主婦だ。
自営業の妻、なのに、まったくもって、家業を手伝うことさえしない。

母は高校を卒業して就職し、「石の上にも三年」と勝手に言い訳して三年で辞め、結婚するまでふらふらと遊んで暮らしていたらしい。
そして、父と母は見合いで結婚した。父がサラリーマンしてた時に。
母は、見合い話が二件あったらしいが、母の父、つまり祖父に、サラリーマンになさいと言われ、見合いして結婚したらしい。
自分はサラリーマンと結婚したはずだから、手伝う由縁は無い、とでも思っているのだろうか・・。

別に仕事を手伝おうが、どうしようが、二人の間のことだからどうでもよい。
でも、自分は手伝わないくせに、私には「ほら、お父さんが困ってるでしょ」といって、私を頼らないで欲しい。
仕事どころか、全てに頼ってくるのは止めて欲しい。
姉がめちゃめちゃやってた時の尻拭いを、私に頼むのを止めて欲しい。
姉の教育を、妹の私にさせるのは止めて欲しい。
祖父の面倒を私に頼り、叔父や叔母との付き合いを私にさせるのを止めて欲しい。

母が妻の役目を果たさないから、私が父の愚痴を聞かされるのだ。
延々と・・。兄の心配事、姉の事、祖父のこと、叔母のこと、仕事のこと・・。
延々と話しを聞かされて、結局私に面倒事がまわってくる。
それは、妻である母のすべきことではないのか?

姉の結婚式の時、母は壇上に立ち花束を貰っていた。
普通に見たらそれはほほえましい風景だろう。
でも、私は言いたかった「あの人は貰う資格は無い」と。
産んだだけ、その後は、ただただ育つのを見ていただけ、困った事があっても何もやっちゃいない。人に責任をなすりつけて、甘えていただけ。
そう、子供と同じ・・。やりたいことだけやって、やりたくないことは人に頼って知らんぷり。子供のまま、大人になったような人だ。

最近は返事さえしなくなってきた。母が話したことに答えて、それに対しての話しでも、まともな返事は返って来ない。自分が言いたい事だけ言って終わり。
私に対してだけでなく、他の人に対しても、だ。みんな、仕方ないので苦笑いして終わりである。
別に何の責任も無く生きてきて、何があっても自分は困らない、そうやって生きてきたから、自分の言葉さえも、責任は無いのだ。
思ったことを口にして、気の向くままなのだ。

そんな人に子供なんて産んで欲しくなかった。いい迷惑だ。子供は親を選べないのだから・・。
<230> NAC NAC ■2004年03月25日 木曜日 21時17分31秒
昨日の夜、遊び仲間のBさんちにお邪魔してきた。
用件はまたもやA絡みだ。
なんでAはお馬鹿なんだろう? ほんと困った奴だ。ぷんぷん。
とっとと書いてしまおう(前半「人間関係」、後半「家族」)。

発端は2週間前の身内の草レース終了後、私とAが揉めたときに、Aが「K(私)さんのスタンド(バイクを持ち上げるジャッキみたいなもの)、あれ元はCさんのだからBさんに返してよね」ときた。
私は「はぁ?(Bさんの前はCさん所有だったのか。でも、だってあれはBさんに自分の壊れたスタンド「修理して」とお願いしたら、Bさんが「修理してもいいけど(面倒臭いし時間も掛かるし)俺暫く自分のスタンド使わねぇからこれやるよ」と、自分が¥2000出してBさんの(俺のより上等なの)と交換してもらったのに、なんでなんだ? だってBさんから言ってきてお互い合意の上だったんだぞ。それともBさんも心変わりしたのか? だったら仕方ねぇけど。それにしても(今この状況は)あくまでAが言っていることで、そのAの言動は「Bさんの私に対して言い辛い要望を代弁する」行為なのか? それともAの独断・あて付けなのか? はっきりしねぇからとりあえずここは黙って聞いといて、あとでBさんに直接聞くしかねぇよな。でも(自分とBさんの4年間の付き合いからして)Bさんはそんなことする人じゃねぇし、所有物に対しても「いる、いらない」はっきりしている人だからなぁ。まっいいか。Aのいる今じゃ話がややこしくなるからあとで確認すればいいことだ。今のところ自分とBさんの間ではトラブルのトの字もいっさいないし、現に今日の朝だって普通に挨拶して、Bさんの自分を見る顔に嫌悪感らしきものは(自分の感覚では)見受けられなかったし。たぶんAの嫌がらせだろうな。やだやだ、ほんとコマイ男だよAは。人間が小さい、小さい)」
とやり過ごして、昨日の夜「事実を確かるため」に私はBさん宅にお邪魔したのだ。Bさんの気持ちを確かめるのにお馬鹿なAは鋏まない方がいい。
馬鹿はどこまでいっても馬鹿だ。
そんなのと一緒にいると「解決するものも解決しなくなる」可能性が非常に高い。
そして恐る恐る私がその旨をBさんに切り出したら、答えは「Aのボケ」だった。
Bさん曰く「あれは自分が好意でやったことだし、Aは頑固者で変わっているから。そうしたつまんねぇところ穿り出してK(私)さんを突っつきたいだけだよ」
その言葉に私も安堵して「いや〜Bさんに直接話して良かったですよ」
と2週間の懸念「Aに引っ張りまわされた」ことに、私は幕を引くことができた。
ほんとAは呆れた男だ。
自分じゃ「いいことをやっているつもり」なのかもしれないが、結果的に自分で自分の評判を落としている。
私からすると「なんでBさんの気持ちも確認しないでAは独り善がりな言動を繰り返すのだろう? 馬鹿なんだから大人しくしてればいいのによぉ。下手に動くから自分の馬鹿を曝け出すんだ。まっだから馬鹿なんだけどね」って感じだ。
ほんと私はAに「馬鹿野郎ー」と怒鳴ってやりたい。
今度あったら(Aの飛べない)大ジャンプで、私はこれ見よ賀詞にAに「お尻ぺんぺん」だ。
間抜けなAへの愚痴はここまでで、以下「家族」

今回3週間ぶりぐらいにBさん宅にお邪魔した私であるが、私はBさん兄弟とも親しくさせてもらっている。
因みに今の自分のバイクはBさんの弟Dさん(私より年上)から「良心お友達価格」で譲り受けたものだ。
前オーナーのDさんはきれい好きでバイクのメンテナンスもマメだったので、当初は私のバイクもきれいだったが、半年もすると私の「乗れりゃいいや」のメンテ不足と練習のし過ぎで、バイクはぼろぼろとなっていった。
そのことはDさんはじめ皆に皮肉られている。
「これ何年式?」(ごもっともです。私は返す言葉もございません)
そんなBさん家族。
私のような「会話のない。あっても伝達事項だけ」の家族で育った者からすると、Bさん家族に対して「暖かみ」を感じる。
そして(私がお邪魔するたびに)感じていた。
「家族ってなぁに?」

Bさん家族は私の感覚からすれば「ちゃんとお互いの感情が熱を持って交流」している。
それに対して我が家は「冷たく刺々しい感情の一方通行」でしかない。
交流するから熱が増幅されるのであって、交流しなければいくらいいものを持っていたとしても温度は下がるだけだ。下手すりゃ凍り付く。
そうして私は幼少時代に己が心を乖離して「情緒喪失のAC」となり、弟はそんな家族の犠牲者となり、引きこもって13年になる。
「家族って何だ?」
「愛情って何だ?」
「人間って何だ?」

そういう基本的なものを経験習得せずに、私の親はSEXだけで親となってしまった。
「基本がなっていない」
それすら気付かない、または認めようとしない親に、どうして子どもに「人間としての基本」が教えられよう?

今さら親は変えられない。
でも変わってほしい。
「他人と過去は変えられない」そう頭でわかっていても、私は親に変わってほしい。

当たり前だ。
「それでも家族」なのだから。
「家族だから」故に変わってほしいと願うのだ。
私のためではなく、弟のために。
そして家族を今一度再構築するために。

兄として弟に何にもできなかった私は、今こうして自分の感情が戻ると、弟に対して「後悔の念」でいっぱいだ。
「私は情緒喪失だったから弟に対して、兄貴として、人間として、何にもできなかった」
でもそれはあくまで今の私の言い分であって、現状の弟、「嫌でも数々の仕打ちを受けてきた」弟からすれば「何を今さら兄貴面して」だろう。
そう言われても仕方のないことを、私は弟に対して「意識的にも、無意識的にもやってきた、またはやってしまった」のは確かだ。
そんな弟の中では私をはじめ、我が家の誰も信用できないのであろう。
だから「家族が怖くて」弟は引きこもっているのだし、そして未だに引きこもりから抜け出るような周りの支援と理解を、弟は実の家族から得られていないのだ。

子どもに対する「無関心」と「無理解」
そうした毎日の積み重ねの「付け」が今こうして出ているのに、相変わらず私の親は「ワーカホリック」で現実逃避だ。
奴らはいい。
「働いていれば自分たちの子育ての無責任さと向き合わなくて済む」と勘違いしているのだから。
でも弟はどうだ?
彼の長年に渡る苦痛と寂しさは、いったい誰が受け止めてやるのだ?
「誰なんだその役目は?」
「その責任は?」

私は何も親に難しいことを言っているわけじゃない。
「黙って弟の話を聴いてやれ」と言っているのだ。
それも耳で「聞く」んじゃない。
心で「聴く」のだ。
その子どもの願いに、どうして時間が必要だろう?
どうして金が掛かろう?

「寂しさがわかってほしい」「自分の心の痛みを感じてほしい」
震えて心を閉ざす子どもの願いはいつも一緒だ。
「無条件で僕を愛してくれ、包んでくれ」

泣けてくる・・・・・
<229> ひかり ■2004年03月25日 木曜日 15時43分40秒
主人が新しい家族が欲しいと言っている‥
そう、三人目の子供を欲しいと言っている‥
私には自信がない、今二人いる子供はかわいい、かわいくて仕方が無い
目に入れても痛くないとはこのことかと思うほどだ、けれど
自分がACと気付くまでどれだけしんどかったか
私がACと気付いたのは上の子を流産したとき
自殺未遂をしたとき、精神状態が自分でもおかしいと気付いたとき
そしてそれは親の会社の倒産で悪化した、自分も
知らないうちに会社の役員に名を連ねている
両親は自分達だけ安全なところに逃げてしまった
両親の会社の後始末をしながらの出産は心がおかしくなりそうだった
そんな時助けてくれたのは主人と主人の両親だ
主人は両親に頭を下げて臨月の私の面倒を見てやってくれと言った
主人の両親は一言の文句も言わずに私の面倒を見てくれた
二人目を妊娠して切迫流産で入院したときも面倒を
見てくれたのは主人の両親だった、話をしたら仕事を休んで
駆けつけてくれた、うれしかったな‥‥

三人目の子供を産んでもいい
でもまたこの優しい人たちに迷惑をかけてしまうのではないかと思うと
胸が痛い、それでも主人の望みを叶えてあげたいとも思う

一つだけいえるのは私には家族は血のつながりを言う
ものではなくなったということ
<228> 貴子 ■2004年03月25日 木曜日 14時10分10秒
家族という言葉は、私にとっては重い足枷、背負わせれる荷物。
理想を言えば、団欒とか、和みとか、暖かくて、懐かしくて、どんな時でも
支えになるようなものであって欲しい。
私の家では、毎年、お正月の初めに乾杯をする。
父親が決まって言う。
「今年も家族皆でがんばろう」
それを聞きながらつい、思う。
「何を頑張るの?」って。
その度に私と姉は母親が全て投げている家事全般を引き受け、
父親の仕事をサポートすることだと考える。
兄はただ働いて、父のお財布が心元ないとき、それに足してあげられるように
黙ってて手渡せるように、準備をしておく。
父と母には別段課せられる義務はない。
親を子が背負うのが我が家では当たり前。
けして文句を言わない。食わせてやってるだけ有難い。
そういう理窟。その食事さえ、毎度毎度、私が作ってるにも関わらず。
私はたまに、ひどく衝動的になって、とんでもないことをこの人達に
背負わせてやりたくなる。
でも、しない。兄や姉に迷惑をかけて、足を引っ張るのは可哀想だから。
本当の意味での家族は、私にとって姉と兄だけ。
いつまで家族ごっこしてるつもりなのかしら。
いい加減飽きてきた。白けているこちらの気持ちを知らない両親は
愚かで、幸せな人達だ。
ま、どうせ、そのうち手ひどいしっぺ返しをくらうでしょう。
もう、それはすぐその内ですよ。
精々、そのときは怒るなり、嘆くなり好きにすればいいんじゃない。
愛情なんて育たない家庭。
自分を振り返らない両親
そんなもの、家族なんて私は絶対認めない。
<227> あき ■2004年03月25日 木曜日 10時31分06秒
久しぶりにこのサイトを見た。4月から短大生になる。前だけを見ようとサイトを見ることを避けてきた。やっぱり無理でした。
母は、迷ったことがあると何でも私に相談する。それが当たり前だと思っていた。私も、真剣に相談に乗ってあげないと見捨てられるような気がして恐かった。いつも一生懸命だから、悪気が無いからACかもしれないとは言えない。だけど悪気が無いことが一番厄介なのかも知れない。私も母に頼っている所があると思う。徐々に自立をして上手く距離をとろうと思う。自分の子供がこんな思いをしない為にも。
<226> 牧人 ■2004年03月24日 水曜日 00時31分26秒
「家を出たい」とか、家や家族への反発が自立への第一歩だと聞く。
ならば我々ACは、その点においては、ある意味大成功なのかもしれない。
後味の悪さを除いては。
<225> くじら ■2004年03月23日 火曜日 19時27分39秒
父親はアルコール中毒。
離婚した母親は自意識過剰。
兄は父親が自分と被る事を過剰に気にしすぎな所が逆効果。
妹は自己中。ある意味母親に似ている。
そんな中で育った私は現在精神科通院中。
私が弱いのだろうか。
最初家族には内緒にしてたが、父親がそのことを知ると、10万円手渡された。『通院費』だと。なんかおかしくない?
父親のアル中はどんどん酷くなってゆく。よく幻覚の世界と会話をしている。そんなの見たくないよ。やめてよ。
早く一人暮らしがしたいよ・・・。
<224> べビル ■2004年03月23日 火曜日 19時20分31秒
五年生で四年ぶりに父親ができました。義父は一緒にお風呂に入りたかったみたいで、よく中学一年でまだ一緒に入るという知り合いの話しを持ち出し、うらやましそうにしてました。私はいやだったので断ってました。それから何年かして、部活から帰ってきてシャワーを浴びようと脱衣所へ行き、服を脱いでいました。かなりゴキゲンに鼻歌なぞ歌いながら、パンツも脱いでブラジャー一丁になってシャワーの温度調節をしようと風呂の戸を開けて、私は思いっきり息を吸い込んで「ヒーーーッ」といったカンジでかなり驚きました。バスタブの中で義父が息を潜めてニタニタ笑っていたので・・・「おい、なんだよ〜」とかいいながら。気持ち悪かったです。入ってるならそういってよ。その後悪びれもせず母に私の毛の生え具合をニタニタ笑いながら報告していました。そのまた数年後、母と義父は離婚することになり、義父は建てた家を手に入れるため裁判を起こし、私達母娘を訴えました。訴状によると、母が怒って口をきいてくれなかったとか、食事のしたくもしなかったとか(いつもではない)ひじょーにくだらない内容でした。私についても書かれていて、私は書面上とはいえ18歳にして「被告」とよばれる体験をしました。私についてはまずここでは詳しく語れないような、せきららな内容でした。義父はこの訴えを裏付けるために、こっそり弁護士に私の日記を持ち出して渡していました。小さな田舎町で顔見知りの弁護士になんか依頼してくれて、まったく地元にいられなくするつもりだったんだろうか。結局家は三分の二お金を出した母のものになり、私が就職して家を出たその年に離婚が成立しました。
さらに数年後、私が子供を連れて当時の主人と実家に帰省していたとき、
なんと驚くべきことに義父がやってきました。手には出産祝いをたずさえて。吐き気というか、鳥肌というか。。。あきれてしまいました。「やあひさしぶり〜元気そうだねえ」
「なにしにきたのかね」
「イやあ、子供できたんだって?おめでとう」
それから私はそのあきれた親父さんに、あらゆる罵詈雑言を浴びせ、帰れと怒鳴りつけました。
「だから悪いと思っているよ。あやまっているじゃない。そんなひどいこといわないでよ。」
「悪いと思うなら今すぐ帰れ。そして二度と現れるな。お金もいらんから帰れ」
そして次の瞬間、私は耳を疑いました。
「そういわずに、ほれもらっときな」
ニタニタと母の言葉でした。離婚当時は鬼畜のような怒り方をしていたくせに。。。
私はこの人と血のつながった親子であることをこのときほど忌まわしく思ったことはありませんでした。とりあえずカネ。。。そういう母だから仕方ないと思えるようになったのは、しばらくあとでした。そのあと元義父は、高校生の娘さんのいる女性と再婚したそうです。
私は親しくなった人に自己紹介するとき、たいてい「母子家庭で育った」とか「はは一人子一人だった」とかいってきたけど、最近なんとなく思い出しました。そんな人と暮らしていた時期もあったなと。
<223> とら ■2004年03月20日 土曜日 21時36分39秒
今日、久しぶりに家族4人で食事に行った。仕事から帰るといきなり、父からの電話。何を言っているのかわからんがとにかく待っていろ言われ???で待った。しばらくして実家のみんなが到着。今から近くのデパートへ行くという
。疲れていたので断れずそのまま付き合ってしまった。前よりは落ち着いたけど相変わらず子供のようにはしゃぐ父。穏やかになった母。冷静な弟。ボーとしている私。なんかこの人たちに慣れてきたみたい。これが元気な家族っていうのだろうか。自分もへんてこなところあるけど(ど〜も精神世界系らしく)
うちのみんなもそれぞれへんてこなんだとわかった。またそれでいいということも。自分も家族も型にはまっていないへんてこな家族なんだ。そしてあやふやなままでいい。自分も家族も他人もなんか感じることができた。
<222> シャローナ ■2004年03月19日 金曜日 21時48分43秒
両親がいつもケンカしているように感じて怖かった
でも話しているの聞いていたら会話が成り立ってなくて
お互いに「なんでわかんないんだよ!!」って怒鳴りながら話してるからだ
昔からそうだったのかなあ。それを私は怖く感じていたのかな
私のせい、私が悪い子だからって
だとしたら両親のコミュニケーション能力がないだけだった
もちろん私にもそうしていたんだろう
残念なことに私も親と同じく能力に欠ける・・・まったく
<221> 涼 ■2004年03月19日 金曜日 15時03分03秒
今まで 生きづらかった... とてもしんどかった
ある日好奇心からAC人の体験談の本を見た。 涙が止まらなかった。
姉に本を見せてみた。「こういう風に思うって自分が弱いからよ」
-----そっか あなたは家族に受け入れられてからよね。 親から見て格下の私がいるから安心だものね。 私はあなたにとって優越感の保険ですもの

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This script written by Shintaro Wakayama.