土曜日の夕方、私は栃木県氏家の温泉(入浴料\500、但し「井戸水沸かし」)に入ってきた。 そうした温泉や銭湯で私は必ず人間観察をしているのだが、今回私の滞在時間内の視界内にマナーの悪い人間はおらず、(粗探しが趣味?の)私にとっては真に心地良いひと時であった。 そのリラックスした時間の中で、私は「良き父親」モデルを2件観た。 1件は「それぞれの子供に入浴マナーを教える」22〜26くらいの若いパパ2人。 私がその年のころには何をしていたろう? 子育てどころか・・・・・ 今「自分育て治し」をしている最中なのに。いやはや御見逸れしました。 2件目は「娘(4,5才?)への行為に対して礼を言う」24〜28くらいの若いパパ。 露天風呂がそこそこいっぱいだったのだが、その女の子が入浴中の私の脇から入ろうとしたので、私が脇にどいたらその父親が「どうもすいません」と言ったのだ。 そんなお礼の言葉なんて私は期待もしていなかったから、驚いたと同時に私は感心させられた。 「親ってのはこうでなくちゃなぁ。子供が礼を言えない、または覚える前の年齢なら『親が代わって礼を言う』くらいのことはできないと親として恥ずかしいよなぁ」 未だに結婚の当てもなく独身で「のほほ〜ん」と過ごしている私からすると、羨ましくもあり、反省もさせられる出来事であった。
人から見て「この親立派だなぁ」と思われるようになるのは、機能不全家族で育った人からすると大変なことである。 適切な愛情で満たされ育った人は虐待行為そのもの、その術を知らない。 なぜなら虐待を受けた経験がないからだ。 逆に肉体的にでも、精神的にでも虐待または極度の抑圧・緊張で育てられた人は無意識にでもそのような行為をしてしまう可能性が非常に大きい。 なぜなら虐待された経験をしているからだ。 愛情も虐待も、親の養育の仕方ひとつでどちらにでも転ぶ。 そして人間の無意識にずっと蓄積されていく。 歪んだものはずっと歪んだままだ。
よかった、私は気が付いて。 「自分は虐待する可能性のある人間だ」ってことに・・・ だから修正しようとできるのだ。
これから大人になろうとする私にとって大事なのは「良いお手本」となる家族である。 そういう家族を探すのも自分の感受性次第だ。
|