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私たちの物語 - 家族過去ログ No.1
メッセージ数:20件

<20> はね ■2003年02月03日 月曜日 19時46分35秒
昨日家族中が大喧嘩になった。理由はあたしの病気のせい。
もうそろそろ完治したって思ってる親が、睡眠薬のせいでたくさん寝ちゃうこととか勉強があんまりできないこととかに対して腹立てて大喧嘩になった。
そこであたしは自分を責めた。「あたしがきちんとした生活を送ってないから悪いんだ、きちんと勉強しなきゃ」って。
でも実際勉強しようと思ってもつまづいてしまう。
朝早く起きようと思っても体が鉛のようになって起き上がれない。
でも努力はしてるってこと、家族に認めてもらいたい。
そして、今から私は私じゃなくなり、"はねマシーン"になります。
自分の感情をなるべく抑えてお母さんの言うことを聞きます。
だめな決断かもしれないけど、そうすることが家庭円満になれるポイントな気がするから。
それで間違うようなら間違いに気づいた時点でほかの方法を考えよう。
がんばれ!あたし!!
<19> かえる ■2003年01月28日 火曜日 21時38分17秒
また今日も隣の部屋から声が聞こえる。夫婦ケンカだ!子供の頃からよくケンカしてる夫婦。もうウンザリです。また、止めに行かなくてはならない。お父さんは、チャント話を聞こうとしているのにお母さんは、馬鹿にした態度、逆ギレ、暴言、全く話にならない。 聞いているこっちが頭にくる。そして結局いつもの決め台詞「私もう出て行く」と言う。子供の頃から聞いてる決め台詞そのこ言葉を言うと私は大声で泣きながら「行かないで〜」とすがってた。今でもヤッパリ嫌いな言葉です。腹が立つ。あの勝ち誇った顔!いい大人なのに何故冷静に話が出来ないのでしょうか。子供の頃からよく私に「世間体を気にしろ!誰が何処で見ているか解らないから恥ずかし事しないで。親が恥ずかしいんだから」と言ってきましたね?私はそれを守ってきました。人に迷惑かけない様に生きてきた。私もお父さんもいい時の家族に戻ろうとしているのに何故協力してくれないんだろう。そんなにばらばらにしたいのでしょうか。なんか、家の中が冷たいです。もう嫌だ・・・・
<18> カフカ ■2003年01月10日 金曜日 11時18分25秒
どれが本当の私で、どれが嘘の自分なのか分からなくなりました。
母親からの期待に合った自分でいよう、いなければならないって、
今まで生きてきたから。
進路のことも就職のこともすべて自分で決めたけど、
結局母親の無言の期待に合ったものをって無意識的に自分で選んでた。
本当の私はどこにいるんだろう???
消えてなくなっていなければいいんだけれど。
<17> りん ■2003年01月06日 月曜日 08時32分14秒
もう
疲れました。

どうして
誰も
私を 
見てくれないの?

私は
みんなが
幸せになれば
それで
いいと
そう
思って
いつも
いつも
生きてる

なのに

どうして
ミンナハ
ワタシヲ
ミテ
クレナイノ?

自分ばっかり

ドウシテ
ダレモ
キヅイデ
クレナイノ

モウ

ツカレタ

モウ

ツカレタヨ・・・


<16> hiro ■2002年12月22日 日曜日 04時41分54秒
もう私を見なくていいよ
今までだって『わたし』を見てくれなかったし
何で今更?
もう顔も見たくないし声も聴きたくない
『わたし』が『わたし』だって何時になったら気がついてくれるか待ってたけど、もう限界。『わたし』は『おねーちゃん』じゃないし、なれない。
私がこんな風になったって気が付いてる?
家に帰るだけで気持ちが大変で、パニックを起しそうなんだよ。
私に対してあなた達は枕詞のように
『おねーちゃんみたいに』『おねーちゃんは』
私をもう一人のおねーちゃんにしたかったの?
だったら産まなきゃ良かったんだ
『わたし』が『わたし』である場所に行きたい
だけどもう遅い
DVのトラウマを持ってる私に結婚をせかさないで
子どもの産めない私に孫を急かさないで
それも全部『おねーちゃんみたいに』って・・・
何処まで行けば私になれるの?あなた達の中で
私が何をすればわたしになれるの?

学校選ぶ時も
洋服選ぶ時も
試験の結果も
音楽聴いていても
本を読んでいても
友達関係のことも
就職決める時も
髪型も
笑い声も
帰省する時も
全部全部あの枕詞が付いて回るんだ
まるで其処から逃れる事のできない呪文みたいに

あなた達の中で私は一体何者なんですか?

自分達が一番正しいと思ってるあなた達
私の話を聞いてくれた事ありますか?
あなた達の思う
進学
就職
しなかった事、私は後悔してません
体面ばかり気にするあなた達には私の気持ちなんてこれからもわからないでしょうね。
押し付けないで
決め付けないで
関わらないで
私がやること、自分の為に考えてやってるんだから

お願い
もう
カイホウシテ
<15> はね ■2002年12月21日 土曜日 19時26分15秒
お母さん。お母さんとは一番近い親子のはずなのにどうしてあたしの中ではそう思えないんだろう。
私の記憶が無いほど昔に父親という存在がいなくなってから毎日、あたしを養うため、意地になって17年間夜遅くまで働いてくれてたよね。
そこには感謝してるよ。
でも、その17年間、毎日夜はおじいちゃんちで泊まってたから、今の自分にとって一番近い家族って言うのは実はおばあちゃん、おじいちゃん、の順番なんだ。ごめんね。

あなたは私を一生懸命いい子に育てようとしました。
小学校からよい成績を取ることを強要され、遊びに行かせず、日曜日も実家で勉強しろ。そればっかだった。
初めて友達と遊んだ記憶があるの、中2だよ?
友達がうちにきた時作ってくれたオムライスはおいしかった。
・・・その時友達に向けた笑顔をあたしにも向けてほしかった。

あなたが私に向ける視線、いつもいつも怖かった。
テストで80点以下を取ると何時間でも怒って怒鳴り、頬を引っ叩かれた。
一回ミミズバレになっちゃったよ(笑)友達になんて言い訳しようか困っちゃった。
「人間には得意不得意分野がある。全ての物事で1位を取ることは不可能」
これ、一回でもいいから言ってみたかった。
でも何も言うことを許す暇もなく怒鳴り続けたね。叩き続けたね。
今、友達の手とかが頭の上に近づくたびにあなたに叩かれたことを思い出して、ビクッとしちゃうんだ・・・。

友達を作った時だってそう、「あんたより頭はいいの?」真っ先に聞いたよね。
頭が良くたって悪くたっていいじゃん、成績は悪くても私より優れた人間なんて一杯いるよ?

もう私も大人って呼ばれる年なんだから、いい加減全てのことにおいて干渉(いやあなたの場合は束縛)するのやめてください。
常識を守って行動してるつもりだよ。
私が誰と付き合おうが何をしようが勝手じゃん。
マジでいつまでも「母親」の権力を使って押さえ込まないで・・・。

今の私の状態、あなたが作り上げてきたんだよ。
病気になったこと、自分では何も決められない弱い人間になったこと・・・。
それを非難するのやめてよ。
いつもいつも私が正しいのよっていう顔するのやめて。

昔からやること全て決めてくれたよね。
選択肢をいつも選んでくれたこと、その時は何も考えなくてよかったから楽だった。
でも、今私には物事をどうやって決めればいいのかわかりません。
そのすべを知らないの・・・。

今、私の中に「普通の言葉」はあります。
でも、「自分自身の考え」はありません。
私っていう人格は「あなたや周りの人間たちの考え」の受け売りでできてるみたい。
あなたをできれば責めたくはない。
でも考えさせることもなく、あなたの思うとおりに行動してきた結果がコレなんだから、責めるしかないよ・・・。

これまでは、あなたは厳しい言葉をたくさん私にかけてくれました。
もうきつい言葉なんていらない。

今欲しいもの、それはあなたの優しい言葉・・・そして暖かい「お母さん」のぬくもり。

気づいて・・・お願い・・・。
<14> さとみ ■2002年12月12日 木曜日 12時57分39秒
母へ。今まで私の人生を狂わしてくれてありがとう。もういっさいかかわらないでください。
父へ。今まで精神的に追い詰めてくれてありがとう。もういっさいかかわらないでください。
2人へ。いつになったら気付くのかかわいそうな人たち。今まで頑張って耐えてあげたけど。これからは不満、グチ。今まで私にぶつけてきたものすべてお互いに受けて苦しんでください。一生馴れ合って生きてください。その代わり私にはかかわらないでください。小学生の頃気付いてよかった。さようなら・・・。今まで寂しい思い出くやしい思い出いっぱいありがとう。
<13> ゆき ■2002年11月28日 木曜日 18時02分24秒
おとうさん、お母さんへ。

わたしはあなたたちを愛せません。
愛せないのだという事実を、やっと受け入れる気になりました。

わたしはあなたたちがとても、怖い。
わたしの心の中で、あなたたちは今も、鬼のように怒っています。
そしてわたしは、そんなあなたたちの前で、泣きたいのに泣くのを必死に我慢して、座っています。

うそはつけない。あなたたちを愛せない。こどもなのに、冷たいでしょう。
でも、それがわたしの正直な気持ち。

わたしにはあなたたちをうけいれることは、もうできません。
あなたの要求に必死でこたえてきたけれど、もう無理です。

あきらめてください。
わたしもあなたたちをあきらめます。

いつの日か愛されるという幻想。
もうそれを捨てたいと思います。

でもそのことをあなたたちには謝らない。
わたしはわるくないのだもの。
ただあなたたちにいえることがあるのだとすれば、
あなたたちはあなたたちの願うまま、勝手にわたしを愛したらいい。
都合のいいように、愛したらいい。
でも、わたしにはそれができないから、あきらめて欲しいということだけ。

さよなら。
<12> 夢ちゃんのお父さん ■2002年11月19日 火曜日 15時22分41秒
 僕は何も出来ない、何も分からない。
30台も半ばになって、責任のある仕事について、家庭も、子供さえ持っているのに、
人に嫌な顔を見せることが出来ない、人に「いや」ということが出来ない、
責任感が強いように見えて、いざというときにまったく責任が取れない、
自分の悪かったことを正直に謝ることが出来ない、
努力することができない、集中することが出来ない、
尊敬する人物もない、卑下する人物も誰もいない、
そして、自分がどんな人間なのか、何がしたくてここまで生きてきたのか、
自主性が、主体性が、確固たる自我が、何もない、分からない、
人生の目標とは一体何なのか、それがまったく分からない。

 思えば、僕は小さいことから優等生だった。
ろくに試験勉強も、努力もすることなく、
それでいて成績は人並みはずれて優秀だったから
周りの期待はそれはすごいものだった。
家庭でも親には一切反抗せず、親のわがままはいつも聞いてやり、
周りの友人たちの世話も親身になって焼き、人の嫌がることも引き受け、
そしてそういう面倒な事もやりこなす能力があるから無事にこなしてしまう。
それほど頭がいいなら、一流の進学校である中学高校に入って、
そして、一流の国立大学の医学部に入って、医者になって・・・
そういう周りの期待に僕は何一つ反抗せず、応えてきた。
いや、反抗じゃない、僕は何をしようとも、何になりたいとも思っていなかった。
ただただ、周りの言うように、言われたように、周りの描く僕の虚像に従ってきた。
なまじ、僕にそれだけの能力があったために、
そう、ほとんど努力もせずに国立の医学部に入るだけの能力があったために
周りの期待通りの人生を歩むことができただけなんだ。

 そんな大学生活は、入学後半年で終わった。
高校とは違う、出席も欠席もまったく本人の自主性に任される生活、
今まで人に言われるとおりに生きてきた僕にとっては、
そういう自由は、ただただ安楽な、怠惰な道に進むだけのきっかけでしかなかった。
仮に大学に行ったとしても、誰も何も指導しない、強制しない、教えてくれないでは
大学で一体何をすればいいのか、そもそも何のために大学に行っているのか、
そんな、基本的なことがまったく分からない、
半年も過ぎると、大学に行くのも億劫になり、
行かなくなれば行かなくなったで、今度はたまに大学に行ったときの
周りの、とがめるような、奇異な人間を見るような、そんな目に耐えられなくなり
結局は大学に行けない、半分引きこもりのような生活になってしまった。
ただ、それでもなじんだバイトとかには平気で行け、
それなりに遊び仲間と遊んだりすることも出来、
自分や家族には、「どうせ行くなら東大理III(要は東大医学部)を目指すんだ!」
と、適当に自分自身や周りに対し嘘をつき通して
何とか納得させてきた。

 もちろん真面目な受験勉強なんか出来るわけも無いから
だらだらと数年が過ぎていき、
そして、さすがに自分でもまずいと思ったのか、
もともと半年通った、もとの国立の医学部を受けたら
ろくに勉強もしていないのに、なぜかまた受かってしまった。
そして、周りの、半分好奇の混じった賞賛の目
(現役で受かったのに、東大を目指して、東大はだめだったけど
それでもこの大学に戻ってこれるのはとんでもない頭のいい人だ)
に囲まれて、ぬくぬくと大学生活を過ごしてきた。
今度は前回の二の轍は踏まないように、出席しなくても単位が取れるものを選び、
慎重に慎重に、本当の自分(何が本当の自分か自分でもよく分からないけど)を
隠して、無事に卒業することが出来た。
そして、医者になり、嫌な顔一つしないで人並み以上に仕事をバリバリとこなし、
患者からはやさしくて頼りがいがある先生、
看護婦や後輩からは、怒ることなく、やさしくて、
聞かれれば何でも丁寧に教え導いてくれる先生、
そして上司からは、どんな大変な患者でも嫌な顔一つせずに引き受け、
責任を持って治療してくれる優秀な部下、
そんな風に見られてきた。
でも、それは、僕自身がそうなるように努力したわけでもなんでもない、
もともとそれだけの能力を持っていただけ、
そして、周りの期待通り、周りに言われるとおりの自分を演じただけだった。

 数年を研修医、レジデントとして過ごし、
学位をとるために一度大学に戻ってきた。
医学部のシステムは少し普通と変わっていて、
数年を臨床医として過ごし、ある程度研鑽を積んだ上で
一回大学に戻って自分の好きなことでも、言われたことでもいいから研究し、、
そして学位をとった上で、また市中病院に臨床医として戻るんだ。
大学院生として大学に戻り、週に何度か医者としてアルバイトをして生計をたて、
好きな研究にのめりこむ、
バイト生活だけど収入は人並み以上に安定し、家庭も円満で、
ついには念願だった子供も誕生し、
僕は誰から見ても、ねたましくなるほど幸せ、
才能にも、収入にも、妻にも子供にも恵まれ、
何一つ不自由のない、持っていないものは何もない、
そんな人間のように思われている。きっとそう思われている。
でも、でも本当の僕は、自分は、
何も持っていない、何も自分で決められない、
本当の自己というものを何も持っていない人間なんだ。

 バイトとしての医者の顔は保っている、バイト先での仕事は楽しい、
バイト先で割り当てられた検査とか診察とかは責任持ってこなせる。
でも、いざ大学院で研究やれ、といわれても、一体何をしたらいいのか、
どう大学院で過ごせば良いのかが分からない、
そして、徐々に周りの目が変わってくる、大学院に来ないのを咎めるようになり、
そして、やはり、大学院にも出られなくなってしまっている。
大学院で果たすべき最低限の義務をも果たせなくなってしまっている。

 僕はやはりACなのだろうか?
僕の育った家庭は、傍目から見るとそこそこ普通の家庭のようだ。
でも、実際は違う、本当の両親の不仲、母の不倫、おそらく父も不倫してた、
多分争いの絶えなかった僕の家族、家庭内別居、
その内に母の不倫相手との半同居が始まり、
そして父の急死、突然の新しい父、
拭うに拭いきれない、父の死に対する母と義父への恐ろしい疑惑、
そんな家庭の中で、僕は全ての嫌なこと、見たくないことに蓋をしてきたんだ。
言われて見れば、僕は親から愛情を受けた記憶、抱きしめられた記憶がない。
そもそも両親の不仲から再婚後しばらくまでの家庭での記憶自体、あまり無いが、
母に可愛がられたことも、家族で旅行とか遊びに行ったことも、
僕の記憶にはほとんど残っていない。
僕の家庭での記憶といえば、勉強が良く出来たから、反抗しないから、
よく出来た子だから、親の手を煩わせないから良い子だ、と、ほめられたことと、
保身のためについた嘘がばれてひどく叱られたこと、
押入れに数時間以上閉じ込められたこと、肉体的な欠点をくどくど言われたこと、
そんな程度かな?

 傍から見れば、僕は何一つ不自由のない、望ましい能力を沢山持って生まれた、
そんな風に見られているかもしれない、
能力を持っていることで賞賛され、そしてねたまれているに違いない。
でも、でも本当は、何一つ自分で決められない、言われたことしかできない、
言われたことなら何でもやるけど、でも本当は何からも逃げ出したい、
そんな人間なんだ、きっと、間違いなく。
どうすれば、どうすれば本当の僕を見つけられるのだろう・・・
どうすれば僕は本当の自分を取り戻せるのだろう・・・
<11> アッシュ ■2002年11月15日 金曜日 23時47分52秒
今までの人生は、家族の「しがらみ」の中で生きてきたという感じ。
どんな人も、家族からの影響はあると思う。
でも、ACの場合は、質も程度も違う。
幼い頃から、自然に興味を持ったことや、好きなこと
(物理的にも精神的にも)ことごとく禁止された。
今、改めて、親や家族に無性に腹が立つ!
「手芸や漫画、テレビは目が悪くなる」「勉強しろ」「あの家では遊ぶな」
「社会は夢じゃない、金だ。夢持って進むなんて、甘い」
はしゃげば怒り、おとなしくすればおとなしくて困るという。
音楽を聴いてると音をたてて邪魔をする。働けばいくら稼いだのかを聞く。
高校は英語科に進みたいといえば遠方で交通費がかかるからと反対、
(そのくせ、ギャンブルで金を使い、サラ金から数百万の借金)。
こんなに、自分が自分じゃないみたいな状況は、あなたたちのせいばかりではないかもしれない。
こんなに悔しい思いを今まで、何とかなだめて、反発と従順の繰り返し。
「私の人生、返して! しつけという名で、私の力を奪ってきた。
嫉妬心や、不安から、子供を犠牲にした。もう、邪魔をしないで。
あなたたちの不幸や不器用さは、あなたたちでどうにかして。
もう、あなたたちを憎みながらも、罪悪感持つなんて、苦しい。
どうしてか、罪悪感。今から、どうやって自分を取り戻そう。
もう、とっくに子供ではない年齢になって、間に合うだろうか。
この社会で、自分で稼いで、自分を支えて、生きていけるだろうか。
家族・・・。私の家の代々からの流れを、変えられるだろうか。
重すぎる。
<10> ゆき ■2002年10月06日 日曜日 22時54分36秒
わたしの家族にはのろいがかかっています。
それはわたしのせいではありません。
ただ、つけられた傷を癒すのはわたしです。
わたしの傷を癒すのはわたしです。

おかあさん、おとうさん、Gくん、ごめん。あのね、わたし、幸せになりたいの。
しあわせになりたいの。
<9> あゆ ■2002年10月05日 土曜日 11時03分21秒
 はあ〜、家族じゃなくなったけれどつながりが絶たないねえ〜。今度出産準備でそっち行くけれどまたあんた張り切るだろうね。たいてい「こうなのよ」と決めて私の意見聞こうとして来なかったよね。私は抑圧されて内へ閉ざされて「私はこうだと思ってるし母がなんと言ってもその意見は変わらないけれど
ことごとく否定、仕方ないこれ以上歩み寄れると思えない・・。」そして屈服?してきた事、知らないよね?言ってもいいけどあんた多分心で聴いたりしないから通じないんだ。何を言っても届かない、そんな思いが頭の中に硬くプレートのようにふさぐ。あんた異常・・・。母親だったんだよね?私は要らない(私がすること)をしてしまうのが母親らしさのように定義されていた。あの家族の中で。名ばかりの家族、表面上は家族。機能しない。
 つまんないね。私がしたかったのはこうゆうものが要るの、○○なんだって、これは要らないと思うんだけれど、など言って母の意見を聞く。押し付けないで、意見は意見。聞くよ、一人じゃつまんないでしょ?!母さんがどう思うか聞かせて。言い張ったりしないでよ。いつもお母さんの考えが正しくて強引。それ、その強引さ父親が怒りにコントロールされて爆発した時に向けれればね、もっと変わるよ。
 けど、私も弱いね〜。お金なんだ。今の状況で夫に出してもらえば負担かかるなんて・・。ばっかー。これもACらしい。
<8> マフマルバフ ■2002年09月29日 日曜日 01時30分03秒
彷徨う魂 2
または「孤独を選択した側の論理」
父ちゃんのトラウマがだいぶ解明できてきた そういうことだったのか しかし本人はまったくわかっていません シナリオのない家族劇を少し修正しないといけないのかもしれません 簡単なことなのに 莫大な時間の浪費をしたことになる 俺の人生は何だったんだろう これからは症状の改善に取り組んでいくべきなのだろ
う難しいぞ 父ちゃんは人格に歪みがあるように思うのだが そうすると彼の魂こそ未だに彷徨いつづけているのではないか 自分の人生を振り返り反省し何とかしようとしない限りどうにもならんだろう そういう人がいるのは事実だし なんとも悲しいことだ
<7> みき ■2002年08月29日 木曜日 00時15分07秒
今はまだ結婚する気はない、私のことは放っといてと言ったことがあるのに…

そうしたら「それならあんたは路頭に迷って死ぬんだわ」と言われたものの、まあこれで私のことは放っといてくれると思えば軽いものよ…と思っていたら、なんやかんやかまって来るのね。「あなたは私がいないと結婚も何もできないんだから」ってね。
母はかまってほしいのだと気付きました。しかし、私はもう「すごいねー、大変だねー、ごめんね苦労かけて、うちの親は完璧で世界一!」というゲームにまきこまれたくない。それをあなた達が望んでいることはわかるけれど。

それにしてもACに結婚しろとは…それで私の気が乗らないと「あなたのことでしょう!どうして私ばかりにやらせるのよ!なんて思いやりのない子なの!あなたは異常だわ!ここまで育てるのにどれだけ苦労したとおもっているのよ!」
…正直私のことなの?と思ってしまったが、言えませんでした。なぜならここでそういいますと、父が祖母が兄弟が出てきて「お前が悪い」と言われますから。なんでかなー、どうしていつも私が悪いとされるのだろうか。
<6> マフマルバフ ■2002年08月26日 月曜日 23時20分27秒
下山(げざん)
自分の書いた文章をまじまじと見ていたら うんざりした 全タイトル走破したのだから今度は頂上から下山するような感じで上のタイトルから一歩一歩降りていきたい しょうもないことするなとか嘘書きやがってとか もし疑問が湧き上がる人物がいたら 私は言いたい ノンフィクションのつもりで読んでくれ!と
さて 茶碗がパリーン飯台がガラガラばきばきぐわっしゃーん 擬音で表現しにくいほど多彩な音がしていた 何故か醤油の小瓶は頑丈でずっと割れずに使用されていたようだ 母が病院で亡くなったとき後片付けに追われ 何を持ち帰っていいのかわからずその辺を始末していたら 兄嫁が醤油の入った小瓶をポイとゴミ箱に捨てた ああ何か過去が今捨てられたようだ こういうあっさりした行動は知らない人でないとできないだろうな・・・・・・そのような思いが脳裏をよぎった。
<5> キリエ ■2002年08月19日 月曜日 23時09分59秒
 長い間、家族とはそういうものだと思ってきた。
 小さい頃から病気がちだった私は、10歳位から一人で入院させられるようになった。
 母親の付き添いは必須の病院で入院することに慣れているからと、私一人が付き添いもなく治療に耐えた。母は付き添いをしていた時も私には厳格で不機嫌であったように思う。慰めてほしかったり甘えたい時にも、厳しく甘えは許してはくれなかった。だから、母がいなくてもツライとは思わなかった。むしろ、一人で入院できて偉いとほめられ、自分は大人なんだと嬉しかった。
 その後も入退院を繰り返したが、やはり私の病気のことは全て主治医に任せきりで、ノータッチであることは変わらなかった。個室にはいるほど病状が悪いときには泊りで付き添いをしてくれたが、やはり、苦しみをうったえると叱られた。
 進学し一人暮らしをしてからは、重石がとれたかのように自由に暮らすことができた。自分の家がいかに抑圧的だったのかを感じた。就職して職場の人達がいかに家庭を大切にしているかを知った。結婚して夫の家族のあり方を知った。
 下宿先で弟が事故にあった。母は一応駆けつけた。しかし、それだけで結局警察やこまごまとした連絡は私が処理をした。弟はICUにいたが、母はそれきり面会にもいかなかったようだ。なぜか?母曰く「忙しくていけない。仕方がない。私は精一杯やっている。」
 私はもう子どもではない。今は声を大きくしていいたい。母よ、あなたはおかしい。あなたのしてきたことは自立心を持たせるための厳格な子育てなんかではない。単なる育児の放棄だ。そしてそれは、母一人に育児を押し付けていた父も同じだ。
 そんあなた達のために私はどれほど尽くしてきただろう。もう、こんな関係は止めて私は私の生活をおくろうと思う。もう子供時代をやり直すことはできないし、いまさら両親が変わることはないだろうから。
<4> マフマルバフ ■2002年08月12日 月曜日 03時18分07秒
打算的な結婚をした結果生じる問題を棚上げして身の不幸を嘆く人は憐れである それを自分の問題として受けとめられないからなをさらだ とめどなく不満を言い募ることで身近な人たちからも見放される 自己正当化の詭弁からぬけだせなかった親 好き好んで私は親の悪口をいっているわけではない ACを自覚することは深い内省を要求されることでもあると思うのです ACであるわたしが親から引き継いだ負の側面をはっきり認識することのために親の非をせめるのです そこに自分の受け継いだ負を自覚し責任を持つために必要なのです ここが一般の人たちに誤解されるところなのです 「文句ばかりで甘えている」そこまで言っていかないと自分独りで考えても本質がみえないと思うのです 言う聞くとはこういう効果があるのです 冒頭の私に与える意味は打算的な結婚はしたくないということと自己正当化の詭弁は私自身を貶めてしまうということです だから私はここで率直に正直に話すことを心がけているのです そういう私を笑うものは自助Gにもいました ACを名乗ることで深く突きつけられているものがわからない人もいるのは事実です 私は暫らく外側から応援する一ファンでいようとしたのですが つい書き込んでしまいました 慎重に心配りながらサイトの安全を維持するために人間としてのモラルとマナーを自覚してこれからも書いていきたい
<3> マフマルバフ ■2002年08月06日 火曜日 22時09分39秒
生来仲の悪い夫婦だった。打算的な結婚をした結果にほかならない。男も女も結婚を選択した時点で何かを捨てている。そして親になると親のレベルの問題でしかみれない 子供のレベルまでは降りてこれない 降りてくることは干渉にしかならないと思うのですが 子供が生きるうえで破綻をきたす段階で心配はするだろう ACとは子供の側の問題であると思う。親の側の問題ではないと思う。
私は子供の頃友達の家にはよく遊びにいっていたので いろんな家族がいることを知っていた 仲の良い子供思いの夫婦も居た 崩壊した家族もいた そういう中で私の夫婦は桁外れに中がよくなかった 嫌でも母親の弱い立場を理解せずにおれませんでした それから子供は成人してからおかしくなるのではなく 小学低学年から充分おかしな行動をとるということです 親が気づくか近所の人が気づくでしょう 放置されていると中学校前後で脱線していきます 私は友達が多くいたこと兄弟間のバランスがいびつなものにならず?耐えられるバランスではあった 成人してからおかしくなるほどゆっくりはしていません 私は自分なりに決着清算して自立の道をさぐりましたが うまくいかない そこで再度 家族の問題を振り返ることになりました。そこには難しい問題がある 両親が受け継いできた問題 アルコール依存 親から子への絶対的支配操作・・・家族には会わない。負担もかけない。それ以上のことがまだできない。しかし 離れて時間が経過しても未だに何か干渉されているような不快感はあります。トラウマの問題なんだろうな・・・。
<2> ゆき ■2002年07月29日 月曜日 11時11分39秒
わたしの両親は完全無欠だと思っていた。
貧しいけれど、それを必死に働いて支える母と、子供に愛情をそそぐ父親。
夫婦仲は睦まじく、傍から見たらシアワセな家族。
いつのまにそんな幻を信じていたんだろう。
父親は気まぐれに子供をかわいがり、他愛のないことですぐに気分を悪くして子供に手を上げる人だった。
母親は仕事と家事に手一杯でそんなわたしたちには一切無関心だった。
情緒的なネグレクト、言語的な暴力。わたしは父や母に優しく抱かれた記憶がない。
わたしが母から感じてきたのは、ただ、拒否。決して能動的ではなかったけれど、拒否の念だった。
母は父に共依存していた。父にしか関心はなかった。
わたしと弟は「幸福な家族」という彼らの夢を実現するための歯車に過ぎず、
自分の意思をもって動き出すことを禁じられた子供だった。
父親はアル中だった。それでも父を優しい父親と思ったのは、
しらふのとき、あるいは機嫌のいいときには物を買ったり美味しいものを食べさせようとしてくれたからだ。
なぜ、あれを愛情と勘違いしたのだろう。厳しすぎるしつけ、しつけと銘打った暴力。そんななかでもわたしはわたしが悪いのだと思ってきた。
父も母も、そんな「悪い子」のわたしを直そうとしてくれているのだと思ってきた。
全然違った。父は何度も浮気をしていた。わたしは、家庭を守ろうと必死に自分を殺してきた。さまざまなものを、断腸の思いで諦め、いつしか自分の感情も鈍磨させて「幸福な家族」幻想に沿おうとしてきた。
結果、父と母は別居。弟はひきこもり。わたしはACで境界性人格障害。
なんだったんだろう。今までの私は。
そしてわたしは、今、父と母が大嫌いだ。

だけどそれは過去だ。もうわたしは自由なんだ。
だからわたしの心も、あんな幻想からは自由になっていいはず。自由になればいい。
わたしの身に起きたことは、わたしの所為じゃない。私には、責任がない。
<1> ワカ ■2002年07月29日 月曜日 09時56分17秒
全然気付かなかった。両親の不仲を。
長い間そうだったのか、それともある日突然不仲になったのかも知らない。
ただ、ある朝突如として家族(夫婦)が崩壊した。
姉は母に暴力をふるった父にすがって泣きながらとめていた。
その様子をなぜか冷静に見ていた小さな私。
心が凍り付いていたのか?それとも事態がよく理解できていなかったのか?
母はいつかもう一度家庭に戻ることを懇願して出て行った。
二度と戻ることは無かったけど。
それからどうやって父子家庭の私たちが過ごしていたのか記憶に無い。
2年もの間のことが全く記憶に無い。
多分、その後やってきた継母との生活があまりにも強烈だったので記憶が吹っ飛んでいるのかも。継母も決して悪い人ではなかったと思う。でも私たち姉妹のことは好きになれなかったんだろう生意気だったからなぁ。
丁度思春期にさしかかっていた姉は自由に継母に悪態をついたけど私にはそれができなかった。いつもビクビクして嫌われないように良い子になって家事の手伝いをして、そんな自分が惨めだったり嫌だったけどそうすることでしか家族の中で生きていくことができなかった。あのころの姉のように心に思っていることをすべて出していたらもっと心の傷も少なかっただろうに。
姉は結婚後生みの母とも再会を果たしなんとなく付き合っているようだ。実家にも顔を出して孫の顔など見せているが私はどちらにも近づけない。
怖くて怖くて仕方が無い。もうあんな怖い思いはコリゴリだから・・・。
生みの母が私に会いたがってるそうだが絶対会うことはない。

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This script written by Shintaro Wakayama.