私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.9
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<180> WeeL |
■2004年01月21日 水曜日 14時31分30秒 |
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どうしてなんだろう? 好きだったはずの人を憎んでしまう。 許せない。 ギブ&テイクにこだわってしまう。 でも、そんなものじゃないのかな? 人と人って。 この考えがおかしいのかな? ????ばかりだ。
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<179> ブロン |
■2004年01月21日 水曜日 02時08分33秒 |
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後追いの出来ない子供だった。 後追いしてはいけない。 誰もいない家で誰を頼ればよかったんだろうか? 誰に甘えればよかったんだろうか? 私を面倒みてくれたアイツにか頼ればよかった? は?あのきちがい女に頼ればいい? アイツが何をしたか、貴方たちに言うの、どれだけ勇気がいっただろう。 年の離れた弟も、同じことされてたのを知ったのは随分たってからだった。 頼れない私、上手に甘えられない私。 三つ子の魂百までも。 死のうと思った18歳の頃。 免許とりたての私は深夜海へ出かけた。 知らない男に声かけられ一晩をともに。 死なずにすんだ。 男の体は温かかった。 疲れているのだろう。 馬鹿みたいな想い出が次から次へと回想される。 希望の光を信じていたい。 あの人・・・。 あの人は今、どこでどうしてるのだろう。 愛してた、愛されてた。 ほんの少しだけ長く続いた幸せ。
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<178> アロマ |
■2004年01月20日 火曜日 21時54分49秒 |
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今日、今までに無くおもいきり何かの隙間に挟まってしまったような感覚。 身動きできない。
こんなにも全てに絶望したことがあるだろうか、というほどのからっぽ感。 恋愛に絶望した、とか、仕事に、勉強に、といろいろあるけれども、 今日最後のひとつにまで絶望してしまった気がする。
そしたら何もする気がしなくなった。
きっかけはたわいもないことで語るのもしんどい。 ただ、最近弱っていたから、そのせいでちょっとしたことで落ちてしまった。
自分を許そう、誉めようとしてみるけど、うまくいっていないような気がする。
すべてがわからなくなる。
ここから出る為にはどうしたらいいんだろう、とぼんやりしている。
誰かに聞いてみても知っている人はいないだろう。
私がすっぽりハマっている所は、私自身の薄っぺらい皮だから。
だから、みんなは言う。なんにもおかしくなんかないよ、いつものあんただよって。 私の皮はぴったりと表面をおおっている。 窒息しそうだよ
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<177> 海龍 |
■2004年01月20日 火曜日 12時41分35秒 |
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「この人にとって、私はその程度。。。」 そう思ってしまうことが辛い。 相手のことを信じていないという証拠だから。。。
って、思ってた。 でも。。。違うのかも。 こう思うのはいつも寂しい時。 電話がこない、メールがこない、レスがない。。。 そういう時に「その程度」って思ってる。
そっか。 私、「寂しい」って言えないんだ。 共働きの両親に「寂しい」って言うのは 不平不満を言うのと同じだと思ってた。 両親。。とくに母親が ひどく悲しい顔をするって知ってたから。 言っちゃいけない、感じちゃいけないって 思ってた。
寂しいのに寂しいって言えない責任を 相手に転嫁してたんだ。。。「その程度」って。
なぁんだ、私、人を信じられないんじゃない。 ただ、寂しくて、不貞腐れてただけなんだ(笑)
でも。。。寂しいって、今も言えない。 とっても悪いことのような気がしてる。 相手を困らせる、相手の重荷になる、 言ったら捨てられちゃうかも。。。 そんな風に感じてる。
だから「寂しい」って気持ち 殺しちゃう。。。
でも。。本当は言いたいの。 言っても。。。いい?
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<176> NAC NAC |
■2004年01月18日 日曜日 01時11分55秒 |
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今日モトクロス場で、今まで恐怖で飛び切れなかった「大ジャンプ」に挑戦してきた。 結果は、活きのいい中学生くらいの国内B級に、「なんちゃって国内A級」のおっさんである私が「くそガキが〜なめてんじゃねぇぞコラ」と、大人気なく対抗心を燃やして、「私より確実に速くて上手い」そのB級に引っ張ってもらう(情けない)形で、飛び切ることができた。 「うっひょー」である。 ジャンプは怖い。 大怪我するのはだいたい「ジャンプの着地ミス」である。 逆にそれだけリスクを背負うから、決まった時は格別のものがある。 Aさんに「Kさんのこと好き!」と言われるのとは全く比較にならない。? 例えて言うなら、器械体操でムーンサルトが決まって、きちんと着地した時の快感「どうだ、見たかー 俺はやったぞー!」 あれに近いものがある。 そういう私はバック転もできない運動神経、体の硬さだが・・・ やった人にしかあの恐怖はわからないが、「あと2,3ミリだけアクセルを開ければいい」と、頭ではわかっているが、「もし開け過ぎて着地に失敗したら・・・」が常に頭にあって、完全な?お馬鹿さんには成りきれないのだ。 第一、「向こう見ず」なお馬鹿さんでは、怪我してばかりで昇格などできないであろうし、例え昇格しても長続きしないであろう。 私はこの年だから、「怪我しない程度に」そこそこ楽しめればいい。 とは思っていても、コース場で自分より下の階級に、勢いに任せて「おら邪魔だよ」やられちゃ、温和な自分にも火が付こう、というものである。 そして今回は怪我することなく、何度か危ない目は見たものの、無事クリアすることができた。 年取ると、怪我の治りが遅い。 それは今まで身を持って経験してきた。 だから何度も何度も同じ所を反復練習して「恐怖心」を薄めていき、「ここぞ」という時でも「万が一失敗したら・・・」と、頭の中で「最小限の怪我で済む」ようにシュミレーションしておく。 何事にもリスクは避けられないし、それなら「できるだけリスク要因を減らして実入りを多くしよう」と考えたほうが前向きだ。 「たかだかアクセルの2,3ミリ」 それだけで「快感を得る」か、「地獄を見る」か?が決まってしまう。 それを決めるのは技術もあるが、大部分は心である。 私には「危険で刺激的な」モトクロスをやっている以上、「恐怖」は絶対無くならない。 それならいっそ、その「恐怖」に慣れながら、その壁を打破していけないものだろうか? それに打ち勝つも、また、打ちのめされるのが嫌で挑戦しないのも、自分の心が決めることである。 そうした諸々を、私はモトクロスから教わっている。 常にハイリスク・ハイリターンだから一生懸命になるのであろう。 それでも怖いものは怖いのだ。 だから懲りずに練習するしかないのであろう。 そうして私は「あ〜でもない、こ〜でもない」と成長?していく。
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<175> NAC NAC |
■2004年01月17日 土曜日 23時23分34秒 |
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それまで大人しく黙って(周囲を伺って)いた人が、自分の携帯に着信され次第、 周りの人の迷惑・感情も考えず傍若無人で、場所も変えず、尚且つ小声でもなく話し出すのは、その奥に何があるのだろう? 私にはその人が「寂しい自分に話し掛けてくれてありがとう。構ってくれてありがとう。忘れないでくれてありがとう」と、言語外に言っているような気がしてならない。 皆が大人しくしているところで、自分だけ「自分のこと」しか考えなくて、「寂しい自分はここにいるんですよ〜。皆さん気付いてくださいよ〜」と言っているようなものである。 確かに以前の自分もこのサイトで、だけでなく、携帯以外で、そういう無意識の訴えがあった。し、今も自分で気付かないだけで、いっぱい出ているのだろう。 形を変えた「寂しさをわかってほしい」オーラである。 今の私からすると「自分の寂しさと向き合わないから、いつまでたっても自分の本当、に近い感情、相手の感情が読めない、また読み辛いのではないか?」と思う。 そういう私は「怒り」が好きだが、じゃ何で私は「怒り」が好きなのか? 私が今現在思うところはこうだ。 人間の?「怒り」は、世間的な仮面を取らないと表に「感情として」出てき辛いが、出てきた時には一番激しく、はっきりした表情をする。 余りにも「陰険」な人は別だが、「怒りを表に出す」ってことは、良くも悪くも、感情が活きている、「理性という防御線」を取っ払っている証拠でもある。 そして「怒る」には、必ず何かしかの理由がある。 それは「他人のせい」のときもあれば、「自業自得」または「自分じゃどうにもできない外的要因」のときもある。 そうした「奥深く(本人の意識的にでも、または無意識にでも)隠されたもの」を、自分が「なんでだろう? どうしてだろう?」と想像する、または想像できる「機会」を、図らずも自分が他人に与えてもらっているからである。 「人前で嬉しさを出しちゃいけない、楽しさを出しちゃいけない」と思う人は少ないだろうが(程度にもよるが)、「人前で怒りを出しちゃいけない、自分の弱さである『寂しさ』を出しちゃいけない」と思っている人は多いのではないだろうか? 「楽しさや嬉しい感情はプラスで、怒りや不安・寂しい感情はマイナス」 そう自分で自分の感情を狭めて息苦しくしていないだろうか? 他の人はどうか知らないが、過去の私にはそう思っている部分があった。 「寂しいなんて思っちゃだめですよ。感じちゃだめですよ。人様に言ったら、それこそ自分の足元を掬われますよ」みたいな、親の「ダブルメッセージ」を私は受けて育ってきてしまった。 だからこうして自分で、「寂しくてもいいじゃない。それがあなたの感情なのよ」と、自分で自分に、自分のインナーチャイルドにもそう言われている。 (ありがとう、私のインナーチャイルドたち) パソコンのようにBSキーやDelキーで、「ポン」と自分の寂しさを消せたら、どんなに楽か? でも現実はそうもいかない。 「自分の寂しさは見たくない」と、次から次へと塵箱(それは「思い出したくない」意識、「思い出し辛い」無意識)に捨てていくのは可能だ。 でもそれだって、いつかはいっぱいになる。 塵箱がいっぱいになったらどうするのか? 新たな塵箱を作れるほど、自分の心にスペースはあるのか? ないだろう。 そのときは塵箱の周りだって、既に入りきらない塵でいっぱいなのだ。 どうする? もう寂しさや怒りの悪臭で、無意識の感情は苦しんでいるのだ。 覚悟を決めて、全部曝け出して「過去のものとしてリフレーミングし治す」のか? 仮に燃やすにしたって、自分で「寂しさに火をつけ」なければいけないし、燃えたら燃えたで、「怒りの火柱」に苦しめられるだろう。 そういうものを、感情鈍磨の私は経験してきた。 今の私を支えているものは、カウンセラーであり、自助グループであり、Aさんであり、このサイトであり、有形無形のものがいろいろな形で、自分の「もうあんな思いはしたくない。あんな親にはなりたくない。自分は情緒豊かな人間になるんだ」を支えてくれている。 だからこの前、私のインナーチャイルドは「大丈夫だよ、お母さん」と、私のお尻のあたりを彼の小さな手で支えてくれたのだろう。 こどもは親の気付かないところで、いろいろなメッセージを送ってきてくれる。 それに気付くも気付かぬも「親次第」だ。 だから親はこどもの感情に、感謝で応えねばならないのだ。 今日もいろいろ教えてくれてありがとう、私の大切なインナーチャイルドたち。
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<174> シャローナ |
■2004年01月16日 金曜日 10時39分09秒 |
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人に・・・もちろん家族にも自分が見られるって状況になると何かこう硬直するような感じになってからだに力が入り眉間にシワがよっている。何なのだろう。怒られるって感じるのもあるし、それが一番多い。それもものすごーくて怒鳴られるってような。最近じゃお店で単にものを尋ねようとしてもそう反応しちゃってしゃべるのも大変だったりする。早くその場から立ち去りたい、逃げ出したい、そんな感じで焦ってしまう。やだーこんなトラウマ。早く消えてよー・・・そう思っても追いてくるっていうよりも憑いてくる・・・これも私?
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<173> NAC NAC |
■2004年01月15日 木曜日 22時03分06秒 |
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今日私は充足しているので、これで最後だろう。 たまには0:00前に帰りたい。
今日私は、偉い?人の話を聴いた。 その講演?は面白かったし、反省もさせられたし、自分の為になったので、 あらためて整理する意味でここに書き込む。
・自分の属している各々の所で、それぞれ先行く人を自分のモデルにすること。 最初はその必要性がわからなくてもいいから、真似すること。 そのためにも「何が先を行っているのか? 自分は何が足りなくて、何を欲しているのか?」自分のものさし、感性を磨くこと。 簡単な話、「元気で活気のある人の側にいろ、いる時間を長くしろ」ってことだ。そうすれば知らず知らず「プラスのエネルギー」を持っている人、人をいい意味で惹きつける人の「心の波動」に自分が感化されていく。 毎日毎日「心の病人」の話を延々と聞かされたら、よっぽど元気な人でも遠からずまいってしまう。 「自分の心が元気になる道」 「なぜか人を元気にさせる人」 「そういう人のパワーをお裾分けしてもらおう」ってことだ。 そういうエネルギーが今日の講師?にはあった。 だから私はこうして書いているのだ。
・やりたくないならやりたくないで、その理由を掘り下げていくこと 「頭にきたから嫌い」じゃなくて、「なんで自分は頭にきたのだろう?」と、最低5回は「なんでだろう、なんでだろう?」を繰り返すこと。 某自動車メーカーの「感情バージョン」みたいなものである。
・自分をどこまでUPさせるか? その術をどうやって身に付けるか? 自分が親になってもならなくても、私は「情緒豊かな人間」になりたい。 その為の初歩段階として今私は、カウンセリングと自助グループとAさんと話しているし、本もできるだけ読むし、2回目の「コーチング」にも参加予定で、そうした場で私は、コミュニケーションスキルをUPさせる術を身に付けようとしている。 それだけ今の私は「感情の交流の重要性」を認識しているということだ。
・いろいろなものに触れる。 自分の偏った色眼鏡、偏見、歪んだものさしで「はじめから食わず嫌い」じゃなくて、とりあえず、自分の心で見て、嗅いで、触れて、感じる。 判断はその後だ。 自分の頭で、心で考えた上で、周りと参照し、取り込むか否か?判断する。 自分を向上させるために、いい意味で自分を刺激する環境に身を置くこと。 それがなければ自分で探すこと、作ること。 私の場合は「自分の心を動かす、または動かさざるを得ない」場所に、自分の身を置くことだ。 自分一人では、自分の心は成長し辛い。 良くも悪くも、相手がいるから成長するのである。 「癒されるのも成長」だし、「傷付けられるのも成長」 それだけははっきりしている。
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<172> NAC NAC |
■2004年01月14日 水曜日 21時56分57秒 |
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人間の感情。 新しい私は感情に生まれて、感情を活き、そして最後は感情で死ぬのかもしれない。 それほど感情鈍磨で育てられた自分にとって、感情は大事である。 何かの本かラジオだかで見聞きしたことがあるが、 「生後間もない赤ん坊を感情の全く動かない、または動く必要のないところで育てたら、3週間だか、3ヶ月くらいだかで赤ん坊の精神に変調をきたす」と言っていた。ような記憶が私にはある。 私はその手の専門家ではないので詳しいところはわからないが、 自分の経験から照らし合わせれば、うちは以前ペットショップで生後間もない子犬の柴犬を買ってきたが、やはり母親とのスキンシップが足りなくて、大人になってからも神経質で人間を信用しない(当時の私や、家族じゃ当たり前なのかもそれないが)犬に成長させてしまった。 結局その犬は私が手放した。 あのままうちにいても不幸だったろう。 我が家の家族内での冷たいものをその柴犬も感じていて、余計に過敏になったのであろう。 犬も人間の子どもも、自分より大きいものをよく見ている、よく感じている。 「この人たちは、自分にとって安全で安心できる家族なのか?」というところをよく診ている。 だから感情を持つ生き物なのだろう。 そんな感情の生き物が感情のない、光の届かないところで不幸にも育てられたら? あとは推して知るべしである。 そんなことは感情鈍磨だった自分でも想像がつく。 「感情と思考と想像力」 互いにリンクして常にセットである。 毒親に感情鈍磨で育てられてしまった私には「思いやり」以前の問題かもしれない。 今は自分の傷と向き合うことで、私はいっぱいいっぱいだ。 今の私は井戸の中にいるのかもしれない。 自分の声だけが反響する、暗くて深い井戸。 その不快な井戸の中で、私の足はヘドロに浸かって身動き取り辛い。 そのヘドロは「私の嗜癖」でもあり「私の底知れぬ寂しさ」でもある。 見たくない、認めたくない「自分の寂しさ」の上に立って、私は上空の光に向かって叫んでいる。 自分の怒りを井戸の外に向けて放出している。 そんな私が井戸の外から聞こえてくるのは、「機能的家族」で育った人の普通の会話であり、コミュニケーションである。 羨ましい。 自分とは根本的に何かが違う。 だからその「生き辛さ」に自分で憤る。 だから私は「わかってほしくて」叫ぶのだ。 「自分はここにいるんだよ」 「『自分の寂しさを不幸にも怒りでしか表現できない』自分はここにいるんだよ」 「こんな自分でも誰か受け入れてよ」って。 そう無意識で私はずっと叫んでいた。 でも誰も「自分の寂しさ」に気付いてもらえなかったし、自分も「寂しさの適正な伝え方」の術すら学んでこれなかった。 そのうち自分の無意識までもが苦しくなって「感情封殺」の道を自ら、中が強制的に選ばざるを得なくなってしまった。 「感情の学習」は我が家では「タブー」だったのである。 真綿で各々の感情を締め付け、徐々に意識を失わせていく。 それが我が家の「嗜癖の大黒柱」である親父の無意識による悪癖でもある。 自分で全く認識していないのだから、始末に終えない。 だから私は「感情」と「嗜癖」に拘るのだ。 痛みを痛みと認識する。 だから自分の傷は少しずつ癒されていくのだ。
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<171> NAC NAC |
■2004年01月14日 水曜日 01時21分45秒 |
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危なかった。 危うく忘れるところだった。 こうして自分で書き込みながらも次から次へと大事なこと「自分の意識を覚醒させる言葉」が浮かんでくるので、ほんと書くだけの自分と、考えるだけの自分、そしてそれらを繋ぐ自分と、3人は欲しい感じだ。 それもそうだ。 自分の中には3人以上のインナーチャイルドがいるのだから。 最低でも人数分6人は必要だが、現実はそうもいかない。 実生活で誰彼関係なく話したがる躁病でもないのに、なんでだろう? そんな私が実生活で話したいのは、私を理解してくれる、または理解しようと努めてくれるカウンセラーとAさん、その2人だけである。 親兄弟を除く他の人に対しては、自分は「そこそこにガードして」付き合っているつもりだ。 実際ACのことを第3者にはなかなか話し難いし、他人に話したところでわかってもらえず、自分の無意識がさらに傷付くのは目に見えて明らかである。 なのに、何かに駆り立てられているようなこの書き込み量。 自分で言うのも変だが、半端じゃない。 もう1:00を回っている。 もう6時間もここネットカフェに缶詰だ。 そうそう、前置きが長かったが、忘れちゃいけない。 3日くらい前に「ネットカフェでの携帯使用」について自分の感情を書き込みしたが、 なんで自分の空間を邪魔されると頭にくるのか? やっと自分は、少しだけ深くわかった。 自分で気が付いて認めた。 それは「私が自分のインナーチャイルドと向き合いながら会話している」この貴重な空間を、そして感情が戻りつつある自分が、想像力をフルに発揮しようとするこの時間を、他人の気持ちに無配慮な人間に土足で踏み込んでほしくないからである。 私は繭の中で自分のインナーチャイルドと会話したいのだ。 そういう安全で安心できる場所だからこそ、自分のインナーチャイルドたちは出てきてくれるのだ。 「公共の場でマナーを守らない人間」 そんな奴らは私のインナーチャイルドの、非常に好ましくない敵である。 だから私は怒るのだ。 怒りが湧き上がってくるのだ。 私が守りたいのは、非常に傷付きやすい自分のインナーチャイルドの感情である。 だから私は、彼らの感情を無条件で抱きしめてあげたいのだ。 そう、私はこれが言いたかったのだ。 自分の感情に肉付けしたかったのだ。 言葉に重みを持たせたかったのだ。 ありがとう私のインナーチャイルドたち。 また助けられちゃったね。 どうもありがとう。
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<170> NAC NAC |
■2004年01月14日 水曜日 00時43分12秒 |
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今の私は感情が加速度をつけて飛躍する、離陸する。 そう、まさしくそれだ。 私がこの前見た「飛ぶ夢」はこれだったんだ。 妙なテンションだ。 明らかに何かが待っている。 次の答えを、もう私のインナーチャイルドたちは用意して待っている。 なんなんだろう? この期待と「恐怖に近い」不安が入り混じったような感じは・・・ 自分がハイテンションじゃないと見れないような「強烈な痛み」の前触れなのか? 自分でちょっと引っ掻いて診よう。 私は親に感情を抑圧された「情緒喪失のAC」であるがゆえに、自分の押さえ込んできた怒りを引っ張り出すのに他人の怒りを利用して、その感情に乗っかって自分の強烈な怒りを少しずつ出す。 まず自分の怒りが引き出されないことには、それに付随する自分の次の痛みや寂しさが出てこれない、出てき辛い。 だから、それほど、それゆえ私は「怒りが大好きだ」 怒りが抑圧されて大きければ大きいほど、私はその「怒り」に飛びつく。 まさに「猫にマタタビ、私に怒り」である。 どだい「怒りが好き」「怒りが必要」なんて、まともな人間の感覚じゃない。 「嗜癖」またはそれに近いものがある。 だから私はACなのだ。 そんな私の認識では「高さ10mの怒りには必ず深さ10mの寂しさが付いてくる」 のに、私は10mの怒りは見上げられても、「自分の寂しさ」を10mまで深くは、私は怖くて看れない。 いいところ2,3mだ。 ここのところ「自分の怒りは10m分出しましたー。じゃ、今度は同じだけ自分の寂しさと向き合いましょう!」と自分の心の杖を外し、なんとか奮い立たせようとしても、「自分の足で歩こう」という意識よりは「どこかに掴まりたい」という無意識のほうが強くて、結局その程度でしか、無意識の自分は意識上の自分に見せてくれない。 そうして自分の寂しかった感情を自ら拾いに行く。 私が時々感じる「ぐわっ」とくるもの。 それに映像が付いてくることは稀なのだが、ほんとは付いているのかもしれない。まだ意識上の自分が直視できないので、無意識上の自分は見せないだけかもしれない。 その「ぐわっ」は第三者から診れば「トラウマ」なのだろうか? わからない。 だとしたら自分はそこそこ観ていることになる。 トラウマだろうがなんだろうが、10mの怒りの奥にあるもの、「10mの寂しさ」を私はきちんと見たい。 いくら辛くて泣いてもいいから、私はインナーチャイルドの隠された感情と向き合いたい。 わかってあげたい。 彼らの痛みをわかって上げられるのは、この世で自分だけなのだ。 彼らの揺れる感情に寄り添って、一緒に泣けるのはこの自分だけなのだ。 彼らの感情に降りていく。 彼らの深く暗い闇に降りていって、彼らの感情を抱きしめてあげられるのは自分以外にはいないのだ。 「感情を抱きしめる」 私はほんとに彼らの傷付き過ぎた感情を、無条件で抱きしめてあげているのであろうか? 彼らの有形無形のサインを、私は正しく受け止めているのであろうか? 何か反省しなければいけないものが私の中にある。 それだけは今現在はっきりしている。 ん・・・ 難しい・・・・
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<169> NAC NAC |
■2004年01月13日 火曜日 23時37分03秒 |
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とっとと書いて上がろう。もう23:18だ。 これが終わるころには確実に0:30は廻って1:00近くなっているであろう。 それでも出し切れない自分の感情。 30年分の「感情のダム」が決壊して、「感情の洪水」を自分は起こしているようなものである。 とにかく前へ進もう。 今の私の心は軽い。 自分の中でインナーチャイルドたちが「あ〜でもない、こ〜でもない」と「感情を吐き出す優先権」を巡って「女将さ〜ん、時間ですよ〜」とバタバタしているような感じである。 心地よい?「家庭騒動」だ。 「あ〜だ、こ〜だ」言いながらも、根っこのところでは皆繋がり始めている。 「家族の絆」 そんなものを私は自分のインナーチャイルドたちから、有形無形、意識・無意識の形でいろいろ教わっている。 彼らも彼らなりに「家族の絆」を作ろうと一生懸命なのだ。 だから自分も「どうしたらいいのか?」もっと考えなくちゃいけない。 それが彼らに対する私の気持ちの応え方だ。 「気持ちには気持ちで応える」 今の自分には、もちろんこれからの自分にとっても大事なことである。 教えてくれてありがとう、私の大切なインナーチャイルドたち。
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<168> シャローナ |
■2004年01月13日 火曜日 22時37分19秒 |
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悔しい、屈辱・・・そんな気持ちもある気がする。私は子供の頃からよく唇を噛んでいるときがある。それってそんな気持ちの表れなんだろうか・・・何が悔しいのか何が屈辱なんだろうか
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<167> MARU |
■2004年01月13日 火曜日 22時05分43秒 |
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ゆっくり、のんびり、できない。 不安で…、そして、退屈。
不安や、退屈も、感情なのかな? あぁ、不安だなーとか、あぁ、何て退屈なんだ。って、感じていいのかな?
何か、「やるべき課題」があると、私は途端に生き生きし始める。 今は、自分の為に、休んでる。 自分の為に…、その時間は、ただひたすら、退屈で、不安。 紛らす為に、過食とゲームにハマる。 ますます退屈で、不安。
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<166> シャローナ |
■2004年01月13日 火曜日 21時43分04秒 |
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人の前に出るとうわぁ〜と圧倒されるような感覚があり、それは恐怖だと思っていた。でもこの頃それは恥の感覚なのかなって思えてきた。さして怖さを感じないような場所でも突然この感覚で出てくる。私は自分の存在が人に見られるということが恥ずかしい。単にはにかみやなんていうものじゃない。恥で覆われてめまいがするくらい。大きく揺さぶられるようにその感覚は出てくる。 きっとずーっと押さえ込んできたものなんだろうな。どうしたらいいのなか。
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<165> NAC NAC |
■2004年01月12日 月曜日 20時20分32秒 |
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私はよく泣く。 自分のインナーチャイルドと会話する度に、私は泣かずにはいられない。 それは傷付いた彼の痛みを自分なりに感じるからである。 彼の「言葉にできない寂しさ」から発せられる様々なメッセージ。 それを感知する度、認知する毎に、私と彼との「感情の絆」は深まっていく。 今日も朝、車で遊びに出掛けている最中に、また「ぐわっ」ときて、私は泣いた。 その時に私の脳裏に映像として浮かんできたのは、「寂しさ」という大きなダンプが、私目掛けて突っ込んでくる。私はその寂しさから逃げなかったし、逆に怖くて逃げられなかったかもしれないが、なんとか私はその「寂しさ」に轢かれずに済んだ。 私は、また子供に、私のインナーチャイルドに「新たな感情をわかってもらえるか? 逃げずに向き合ってもらえるか?」 親を試すサインを出されたのであろう。 なんとか運良く?合格というか、私は「インナーチャイルドの新たな親として」及第点すれすれで今回のテストは通ったらしい。 その画が浮かんできたとき、私は泣けてしまった。 泣かずにはいられなかった。 でもなぜか暖かかった。 私は「どうして暖かいの?」と、映像の中で振り返ったら、私の小さいインナーチャイルドが「お母さん」である私のお尻のあたりを、彼の小さな手で一生懸命支えてくれている画が浮かんできて、「お母さん大丈夫だよ。もう突っ張らなくてもいいんだよ。いざとなったら僕が支えてあげるからね」と、あの小さい体で「弱いお母さん」である私をを助けようとしてくれるのである。 そう感じた私は泣かせてもらった。 自分の子供に「自分が親として」泣かせてもらった。 「自分の子供に支えてもらっている」嬉しさと、少々の情けなさと、入り混じって、私はまた泣けてしまった。 「お母さんは突っ張っていたんだね。お母さん、おまえに言われるまで自分でも気が付かなかったよ。ありがとう。そしてごめんね。お母さん無意識に突っ張っていたから、おまえに余計な緊張をさせてしまっていたかもしれないねぇ。ごめんね。気付かせてくれてありがとう」と、私のお礼の言葉で返したら、私の小さいインナーチャイルドはまた消えていきました。 彼も、私が「緊張した母親」じゃなくなって、ほっと一安心したのでしょう。 彼によって「母親である自分」が育てられている、「小さい子でも親の感情に寄り添っている」その暖かさを感じて私はまた泣けました。 こうして身を持って「親は子に育てられ、親は子を育て」を、自分の感情の中で実践しているのでしょう。 なんかインナーチャイルドのほうが自分より大人だなぁ。 私のインナーチャイルドが、今「えっへん」って言っている画が浮かんできました。 ほんと自分のインナーチャイルドは素直だ。 感情がよく出ている。 どうもありがとう。 お母さん、おまえに元気もらっちゃったね。 ほんとありがとうね。
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<164> NAC NAC |
■2004年01月12日 月曜日 19時16分54秒 |
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私は思い出した。 私が大学生の頃から既に自分の中にインナーチャイルドがいたことを。 それを私が思い出したのは、「父親への手紙」でも書いたが、父親との一悶着のあと自分で車を運転している最中に、自分の中で「寂しさ」が「ぐわっ」ときて、当然私は泣いた。 そして私は、自分のインナーチャイルドと会話した。 そのやりとりはいつもの通りで、ここでは割愛させていただく。 その時に、自分が若かりし頃、車で長距離を運転中に(は必ず)「意味不明の寂しさ」に襲われて自分が泣いたことが、当時自分の中に映像が浮かんでこなくても、その時の自分は「なぜか泣かずにはいられなかった」ことが。 そうしたことが私の中で度々、20回以上はあったと思う。 でも当時の自分、ACという言葉すら知らなかった自分は「泣くようなことも自分には全くないのに、なんで自分は泣きたい気持ちになるのか?」さっぱりわからなかった。 今思い返せば、その時から既に私のインナーチャイルドは「自分は寂しいんだよ」と感情鈍磨の自分にサインを送ってきていたのだ。 あのときに誰か、精神科医でもカウンセラーにでも自分で相談していれば、こんな「生き辛さ」を私は長く感じなかったであろう。 仮に自分で感じていたとしても、これほど長くはなかったであろう。 それから10年経って、私は自分のインナーチャイルドとやっと出逢えた。 あの時「自分はおかしいのか?」と自分の内面と向き合う術を知っていたら・・・ 「自分の感情はなんかおかしくないのか?」と少しでも自分を疑えていたら・・・ 自分の心はこんなに苦しまなくて済んだかもしれないのに・・・ だけど一番辛かったのは今の自分じゃない。 私のインナーチャイルドだ。 彼が小さい体で、情緒喪失の自分の代わりとなって30年間ずっと耐えてきた。 自分の感情鈍磨のせいで、それは親父が原因だが、私は余計に10年も辛い思いを彼にさせてしまった。 機能不全の我が家の中で、私は彼のお陰でなんとかサバイブしてこれた。 だから私は彼の苦しみを感じる。 彼の寂しさを感じる。 泣けてくる・・・・・ 小さい彼は「僕は寂しいんだよ、寂しいんだよ、寂しいんだよ」と拳で叩きながら連呼し、私にいっぱいのメッセージを送ってきてくれる。 私は泣きたい。 「自分は寂しかったんだよ」と子供に帰って、大声で思いっきり泣きたい。 辛い・・・ でも暖かい。 辛かった私のインナーチャイルドの気持ちと、それでも感情を伝えてきてくれる彼の暖かさ。 だから私は彼が大好きなのだ。 無条件で大好きなのだ。 彼はほんとに小さくて、私の代わりに傷付きながらも、それでも私を信頼しようとしてくれている。 それに応えられるのは自分しかいないのだ。 だから私は「彼の気持ちを知ろう」と一生懸命なのだ。 彼の傷付いた感情と一緒に私は生きていく。 それが私の使命であり、親としての責任でもある。 教えてくれてありがとう。 私の大切なインナーチャイルドたち。 私はあなたたちを愛します。 親に愛された経験のない、自信のない自分だけれども、私なりにあなたたちを愛します。 どうか私の気持ちを受け取ってください。
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<163> NAC NAC |
■2004年01月10日 土曜日 21時41分02秒 |
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なんで公共の場(ここはネットカフェ)で携帯鳴らして何とも思わないのだろう? あの神経、あの感覚、私には信じられない。 各々がマナーを守ってそれぞれの自分の空間で楽しんでいる?のに、あの「周りをなんとも気にしない無神経さ」 法律と理性がなければ、私はその愚か者を畳の上でぶん投げてやりたいぐらいだ。 もちろん留めは「腕拉ぎ逆十字」である。 ボケはいっぺんブチかまされないとわからないらしい。 何を隠そう、私は自分の空間を邪魔されるのが一番嫌なのだ。 でも、私がわざわざそのボケナスに怒りの鉄槌を食らわさなくても、そのボケにはいつか社会の裁きをうけるであろう。 相手の感情と周りの雰囲気を読む 明日は我が身で、自分も自戒しなければいけない。
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<162> シャローナ |
■2004年01月10日 土曜日 21時36分54秒 |
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過去の辛い思いをいろいろと話してきて、ふといいことも思い出したんだけども、それをなぜか言えない。言うと辛いことが否定されてしまうような気がする。せっかく話せたのにもう二度と泣き言なんかいうなと怒られる気がする。 これってまだおかしいと思う。なんかどっちかしかないっていうのが無理があってそれじゃあやっていけない。でもそういう考えが私の中にはある。
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<161> NAC NAC |
■2004年01月10日 土曜日 21時15分57秒 |
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何が平均で、何が普通なんだろう? 私にはよくわからない。 私が平均じゃない「異質」なのは自分でもよく?わかっている(つもりだ)。 ここのサイトの自分の書き込み量を診ても、他のACとはちょっと?違うのは自分でもよくわかっている。 書き込めれば偉いのか? 反対に、書き込まなければ偉くないのか? インナーチャイルドと会話できれば上なのか? できなければ下なのか? 私にはわからない。 私は言葉にすることで自分の抑圧されてきた感情と向き合っているだけである。 話は戻って、正月だかの某全国版Y新聞内の特集で「世界の道聞き?」のアンケート結果を載せていた。 詳しいデータは覚えていないが、「他人に道を尋ねられたら教えるか」の問いに、世界各国はおおむね5,60%以上「教える」ときて、日本は60%ちょいの人は「教えない」ときた。 自分はよほど急いでいる、または道を知らないのなら、相手に教えたくても教えられないが、その「教える30%」内の自分は、残りの「大多数の教えない」人たちから見れば異質であろう。 大多数の人たちの中には「なんで自分が他人に道を教えなくちゃいけないの?」と思う人もいるかもしれない。 いったい何が普通で、何が平均なのであろう? 私にはよくわからない。 私が話したのは得意なケースかもしれないが、そのアンケート結果は私に「自分のものさしはどうなのか?」ということを考えさせてくれた。 ただでさえ機能不全家族で育って「自分はものさしが歪んでいる」のに、いったい何が普通で、平均なのであろう? そんな私が求めているのは「普遍的」なものだ。 先日のカウンセリングで私は先生にそう指摘された。 普遍的・・・ いったい何が普遍的なのだろう? 今の私にはよくわからない。 でも私が、私のインナーチャイルドが「普遍的なもの」を求めているのは確かである。 親ってなんだろう? 子供ってなんだろう? 家族ってなんだろう? いくら自分で考えても、機能不全家族で育ってしまった私にはよくわからない。 だからこそ私は「普遍的なもの」を求めるのだろう。 「子供が親に無条件で求めるもの」 それが「普遍的なもの」だ。 それだけは情緒喪失の自分でもはっきりしている。 俺は馬鹿じゃないんだ。 アホかもしれないけれど・・・
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This script written by Shintaro Wakayama. |
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