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私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.8
メッセージ数:160件

<160> もで ■2004年01月10日 土曜日 02時25分33秒
震えとか過呼吸とか来る前に、頭の中に「私は今こうだから、こう思ってて苦しい」みたいな言葉がポンって浮かんでくんないかなあ。
<159> WINNIE ■2004年01月09日 金曜日 20時37分48秒
やっぱり、人に基本的なところで大切にされない、というのはとても嫌なことだ。もっと自分を痛めつけたくなる。

そういう時に、自分をどう発信したらいいのか、それは少し技術がいる気がする。子どもの頃は、そういう時に、自分が相手から何をされているのか認識できなかった。あるいは、すごく困ったりしているのに、何も言えなかった。

今も、ぴったりの言葉はなかなか出てこない。でも、何も言わずにいられるか、という気持ちはある。

(このサイトでのことでは、ないです)
<158> NAC NAC ■2004年01月08日 木曜日 20時34分57秒
噛み付いたほうは誰にでも噛み付くような人だから「噛み付いた」認識はない、または少ないであろう。
でも噛み付かれたほうはその「傷跡」がしっかり残る。決して忘れない。
「傷付きたくない、傷付けたくない」と思っていても、現実には避けて通り辛い。
自分が「噛み付いた」と認めたら、自分が「噛み付かれた」時の感情を思い出し、
自分が「噛み付かれた」と思ったら、自分が「噛み付いた」時の感情を思い返し、
そうして自分の心のバランスを取りながら螺旋階段を上っていくのかもしれない。
私をはじめ、誰一人として平均的な「聖人君子」はいないのだ。
「相手の嫌な部分=自分の嫌な部分?を許せない自分」を、自分は許せないのではないだろうか?
奥底には矛盾を孕む可能性のある人間の心で、どだい完璧な白、黒なんてありえるのだろうか?
今の私にはわからない。
だけど今、私の心はその灰色の中にいるような気がする。
白に近い灰色、黒に近い灰色。
それはどちらにあっても私の心だ。
それだけははっきりしている。
<157> NAC NAC ■2004年01月07日 水曜日 01時19分52秒
他の人は「心の扉」についてどう思っているの?か私はわからないが、私はちょっと前まで「心の扉が複数ある」なんて想像もしなかったし、する切っ掛けもなかった。
私がそう思うようになったのは、私の中に現時点で複数のインナーチャイルド、純真無垢な赤ん坊、よく泣く寂しい幼児、道化のピエロに悪戯好きで目立ちたがりやのトリックスター、斧と鉄球を持つ怒れる戦士に、老獪で狡猾なその割には天邪鬼?で面倒見のいい老婆がいて、各々がそれぞれの心の扉を持っている。
インナーチャイルドで老婆というのも変な話だが、今のところの私の認識ではそう表現するしかない。
ピエロはほとんど話さないので、それとも自分の声掛けが好ましくないのか?あまり話さないし、話してくれないが、彼はもともと優しくて大人しいのかもしれない。
それに彼は目立ちたがりやのトリックスターとよく一緒にいるぶんだけ、どうしても発言する機会が減ってしまう。
トリックスターはほんと目立ちたがりだ。注目されないとやる気が出ない。彼は妙なところで頑固でムラっ気があり、時々暴走して羽目を外し過ぎるところもあるが・・・ 彼には勇気がある。し、認められると「これでもか」と力を出す。
怒れる戦士は小さい子供たちの感情の番人、代弁者でもある。彼らの感情をこちらでわかってあげて、こどもたちが泣き止めば彼も振り上げた斧や鉄球を降ろす。
老婆は金の臭いがするとさっと出てくる。非常に打算的で金に細かく手堅い。争いは好まないが、妙に捻くれていて一筋縄ではいかない。でも子供にだけは優しい。
今現在で私が認識できる各々の性格の傾向はざっとそんなところである。
また、話は戻って、
人間が成長する段階で、1歳には1歳の心、2歳には2歳の、3歳には3歳の、というように年それぞれの心の扉があり、またその中で「喜怒哀楽」の様々な感情の扉があって、それぞれ内に開いたり、外に開いたりしているのだろう。
早い話、心の扉は無限大だ。
内に開いてブラックホールにもなれば、外に開いてホワイトホール?にもなる。
自分の心に深く降りていけばいくほど、その扉を開けるチャンスは広がるであろうし、痛みに遭遇する機会も必然的に増えるであろう。
全く心の痛みを伴わずに自分を、相手を理解する、愛するなんて虫のいいことは現実にはないのだ。
そういう意味で、パンドラの箱と幸せの扉は光と影、表裏一体なのかもしれない。
真っ直ぐなのも人間だし、また常に矛盾をどこかに孕んでいるのも人間なのだ。
自分の心のベクトルは今それぞれどっちへむかっているのだろう・・・
<156> WINNIE ■2004年01月06日 火曜日 02時56分17秒
精神的な調子が崩れてから、物事が頭に入らなくなった。

高校なんて、教科書の「索引」を習いに行ったようなもの・・・
項目の名前まで、良い時には概略までしか頭に入らなかった。
毎日教室の座席にわからないまま座っているのが辛かった。
家では、知的なことばかりが奨励されると言うのに。

そのせいか、「わからない」がとても困惑するし、ストレスになる。
みんなみんな、ぼやっとした大まか過ぎる理解ばかりで、
はっきりした実感を、なかなかつかめない。
人の話が入ってこないのが、つらい。

自分がそれをあっさり流せない執着タイプなのも、また困る。
何にもしないで、寝ていられるならいいんだけど。
<155> NAC NAC ■2004年01月05日 月曜日 01時55分11秒
今日(今年1発目)の自助グループでも私は泣いた。
参加していた他のメンバーの力を借りて、私はもう一つ深く?泣くことができた。
これで3週連続である。
周りの人がそれをどう思ったかは人それぞれで、私にはわかりきれないが、自分では「泣けて」満足している。
どんな場であれ、人前で泣くというのは凄いエネルギーだ。
私は「泣きたくて泣きたくて」しょうがなかった。
感情を閉ざされていた子供時代に帰って、私は大声で思いっきり泣きたかった。
目を瞑って自分の内面に降りていったとき、そこは真っ暗な深い闇で、小さい自分が震えている。寂しくて震えている。
私は今まで自分の「怒り」に関しては割合楽に認めてきたが、その源である自分の「寂しさ」については今でも(たぶんこれから先も)躊躇している。
それだけ「自分の怒り」を認めるのは自分にとっては簡単だが、「自分の寂しさ」を認めるのは自分にはその何倍もの涙が必要だ。
私の無意識では「自分の寂しさ」を認めたくない幾重ものバリヤーが張ってある。
そのバリヤーに対して、私のインナーチャイルドは「僕の寂しさはここだよ。ここにあるんだよ」と槍でツンツンと、私のバリヤー、それは私の痛いところ、思い出したくないところを突付いてきた。
その時の私の意識は「インナーチャイルドのお母さん」だった。
私は自分のこども、インナーチャイルドの寂しさに、そのぶるぶる震えている映像に目を合わせられなかった。
私は「母親の前で寂しくて震えている子供の、言葉にできない感情」を認めるのが苦痛で、私は身を捩られる思いだった。
私の冷たい心はそんなインナーチャイルドに対して「なんであなたはお母さんの前でそんな寂しい顔をするの?」だった。
私は泣きながら目を背けた。
自分の辛くて思い出したくない過去からまた逃げてしまった。
インナーチャイルドの寂しさよりも、自分の辛さを優先させてしまった。
普段はなんだかんだ言いながらも、結局私はこどもの感情に向き合えなかった。
今の私には「彼の寂しさを救いとって暖めてあげる」だけのプラスのものがない。
今の私にできるのは、せいぜい「彼は怒っているんだな。寂しいんだな」と想像し、彼の痛みを感じとることだけだ。
私の涙は本当に「わかってあげれない母親として」のものなのか?
それとも「わかってほしいインナーチャイルドとして」のものなのか?
はたまた両方か?
なんにもわからない。
ただ自分が泣いたのは確かである。
でも、実際(自助グループで)は目の前にいるのは自分じゃない、他人がいる。
だから大声はできず、私は嗚咽を漏らしながら泣いた。
他の人はどうかわからないが、私の場合「今現在の私の理性?分別?が、『子供の時の私の感情を、寂しさを今現在の私が代わって涙で表現する』のを躊躇わせる」葛藤?がある。
でも、だからこそ今の私は「自分が子供のころ辛かったこと、寂しかったこと」を感じたら泣かなければならない。
自分で自分の感情を言葉にできないなら、私は涙で自分の感情を認めてあげねばならない。
それだけ親の「私への感情支配」は強かったのだ。
言葉が詰まる・・・
こうしていても私の涙は自然と流れてくる。
まるで「自分の訴えを親にわかってもらいたい」赤ちゃんのように・・・
今日も泣かせてくれてありがとう。私の大切なインナーチャイルドたち。
<154> NAC NAC ■2004年01月05日 月曜日 01時49分36秒
今日(今年1発目)の自助グループでも私は泣いた。
参加していた他のメンバーの力を借りて、私はもう一つ深く?泣くことができた。
これで3週連続である。
周りの人がそれをどう思ったかは人それぞれで、私にはわかりきれないが、自分では「泣けて」満足している。
どんな場であれ、人前で泣くというのは凄いエネルギーだ。
私は「泣きたくて泣きたくて」しょうがなかった。
感情を閉ざされていた子供時代に帰って、私は大声で思いっきり泣きたかった。
目を瞑って自分の内面に降りていったとき、そこは真っ暗な深い闇で、小さい自分が震えている。寂しくて震えている。
私は今まで自分の「怒り」に関しては割合楽に認めてきたが、その源である自分の「寂しさ」については今でも(たぶんこれから先も)躊躇している。
それだけ「自分の怒り」を認めるのは自分にとっては簡単だが、「自分の寂しさ」を認めるのは自分にはその何倍もの涙が必要だ。
私の無意識では「自分の寂しさ」を認めたくない幾重ものバリヤーが張ってある。
そのバリヤーに対して、私のインナーチャイルドは「僕の寂しさはここだよ。ここにあるんだよ」と槍でツンツンと、私のバリヤー、それは私の痛いところ、思い出したくないところを突付いてきた。
その時の私の意識は「インナーチャイルドのお母さん」だった。
私は自分のこども、インナーチャイルドの寂しさに、そのぶるぶる震えている映像に目を合わせられなかった。
「母親の前で寂しくて震えている子供の、言葉にできない感情」を認めるのが嫌だった。
私の冷たい心はそんなインナーチャイルドに対して「なんであなたはお母さんの前でそんな寂しい顔をするの?」だった。
私は泣きながら目を背けた。
自分の辛くて思い出したくない過去からまた逃げてしまった。
インナーチャイルドの寂しさよりも、自分の辛さを優先させてしまった。
普段はなんだかんだ言いながらも、結局私はこどもの感情に向き合えなかった。
今の私には「彼の寂しさを救いとって暖めてあげる」だけのプラスのものがない。
今の私にできるのは、せいぜい「彼は怒っているんだな。寂しいんだな」と想像し、彼の痛みを感じとることだけだ。
私の涙は本当に「わかってあげれない母親として」のものなのか?
それとも「わかってほしいインナーチャイルドとして」のものなのか?
はたまた両方か?
なんにもわからない。
ただ自分が泣いたのは確かである。
でも、実際(自助グループで)は目の前にいるのは自分じゃない、他人がいる。
だから大声はできず、私は嗚咽を漏らしながら泣いた。
他の人はどうかわからないが、私の場合「今現在の私の理性?分別?が、『子供の時の私の感情を、寂しさを今現在の私が代わって涙で表現する』のを躊躇わせる」葛藤?がある。
でも、だからこそ今の私は「自分が子供のころ辛かったこと、寂しかったこと」を感じたら泣かなければならない。
自分で自分の感情を言葉にできないなら、私は涙で自分の感情を認めてあげねばならない。
それだけ親の「私への感情支配」は強かったのだ。
言葉が詰まる・・・
こうしていても私の涙は自然と流れてくる。
まるで「自分の訴えを親にわかってもらいたい」赤ちゃんのように・・・
<153> シャローナ ■2004年01月04日 日曜日 17時37分52秒
子供たちが遊ぶ姿を見て私も遊びたくなった。でも今は遊ぶ機会がない。それが寂しい。今までは私は子供に戻りたいと思っていた。でも今日はそうじゃなくて子供の頃に持っていた遊べる感覚を取り戻したいと思っていた。私も確かに今日見た子供たちと全く同じように遊んでいたんだ。あるはずなのに私の中に。
<152> WINNIE ■2004年01月04日 日曜日 02時34分07秒
自分が感じているものを、ただそのままを落ち着いて見ていられるようになりたい。

いつも、こんな自分はヘンかも、とか、間違っているかも、とか、何かいけない感じ、のびのびできない感じを持っている。自分が何を感じているのか、わからない時から、そうやってビクビクしている。

私が何を感じているのか、そのままを見てみよう。いけないものなのか、どうかは、もっと後から考えてもいいんだよ、きっと。
<151> マンボウ ■2004年01月03日 土曜日 20時43分09秒
逃げたい自分を否定しながらすでに足が逃げていたり、
怒るときに笑って、冷静でいたいときにパニックになる。

私のこころは矛盾だらけだ。
ついでに、これってどこから両親や自分の概念に支配されてるんだろう。
本当の自分のこころはどうしたいのかな・・・?
それすらも、わからない。
<150> WINNIE ■2004年01月02日 金曜日 19時16分01秒
すでに自分が持っているものや、楽しめそうなことよりも、心が満たされない部分ばかりを思ってしまう。

ないないない、そればかり。
<149> WINNIE ■2004年01月02日 金曜日 19時12分50秒
正月早々、母に怒りをぶつけてしまった。
コミュニケーション能力の低い母と娘の言葉のやりとりって、なんか救いがない・・・
<148> 霧の森 ■2004年01月02日 金曜日 01時18分57秒
そういえば、時々思い出すんだけれど、母親がよく言っていたこと。

私が4歳くらいだったころ、同い年の男の子と私の父親と母親とでかけた。
何かのきっかけで父親がキレて、母親を殴った。
それをみた男の子は必死でとめた。
「おばちゃん、大丈夫?大丈夫?」と泣きながら。
その時私はどうしていたかというと、ごく普通に、
泣きもせず、慌てもせず、驚きもせず、気にもとめず、
その時やっていたことを続けていたらしい。

母は聞く、
「あんたは心配するってことがないの?」「止めようと思わないの?」とかなんとか。
本当に私は何を考えていたんだろう。見えていたんだろうか?同じ年の男の子は必死で泣きながら止めに入っていたというのに。何を感じていたんだろう?
「冷たい子だね」と言われたけれど、本当にそうかもしれない。その時のことを覚えていないのも事実だけれど、本当になんにも反応しなかったならどういう子なんだろう、私は。
感情ってものがそんな昔からなかったんだろうか?
<147> NAC NAC ■2003年12月30日 火曜日 17時43分01秒
この私の文章をを読まれる方は、お手数でも先に「人間関係」を先読みしていただくと話が繋がるかもしれません。
常に見え辛い怒りを奥深くに隠し持っている危険度100%の私ですが、そちらの(「人間関係」への書き込み)はたぶん危険ではないと思っていますので。
まぁどちらを先に読まれてもそれはあなたの自由で、あなたの選択したことです。
前振りが長くなりましたが、本題に入ります。
先日、某女性Yと食事したときのことです。
最初食事場所の選択に、私が「Sは一杯だから、MかGにしようか?」 Y「そうですね」 私「じゃMでもいい?」 Y「いいですよ」 (某ファミレスのGは既に二人で行ったことがあったから、私は未だ未入店のMを選択肢としてあげた)
で、各々の車、私が先頭で左斜線を、横目にMを探しながら運転したが見つからない。
「あれっ?間違えたわ。おかしいな〜ちゃんと見ていたんだけどな〜。いつ見失ったんだろう?」と、間違いに気付いた先の信号待ちで、私は周りの交通の安全を確認して車から降りて、後続車のYさんに近寄って謝り(なんかYさん怒っている?)「Gでもいいか?」確認して、私たちはGへ向かった。
そのGでの食事先、(私には原因のよくわからない)Yさんが早速私を口撃してきて、私は「あちゃ〜また(Yさんの)支配・コントロール出てきたよ〜」と内心思ったが、(受け言葉に買い言葉で、会話の最初には)私はそんなことはおくびにも言わない。し、言えない。
Yさん自身も(私との、だけではなく)会話の度に「自分の支配性・コントロール性が強い」と自分で何回も言葉に出して認めている。
それでも出てくる支配・コントロール性。だから「嗜癖」は怖い。
そんな相手の「嗜癖」を認識しつつも、自分の「嗜癖」も言葉化し、お互い小さい針でチクチクしながら、お互いの無意識の「嗜癖」をお互いの意識の上に引っ張り出して、お互いの意識上において自らできるだけ抑制・改善されるよう努力している。
で話は戻って、(私には、なぜかご立腹の)Yさんは意地悪そうな目で「さっき(私の認識では、謝ったうえでの選択先確認)はなんでそうしたの?」と私に突っ込んでくる。
相手の言葉による支配・コントロールにびくびくしながら用心深い私は慎重に言葉を捜すが、「なんで?って言われても・・・(上記の理由を話す)」
でもYさんは納得せずに、また私に食って掛かってくる。
私は「おいおい、やめてくれよ〜。なんでせっかくの食事にいきなりブルーになる会話から始めなくちゃならないんだ?」と思ったが、すぐ方向転換して「もしかしてYさんのインナーチャイルドは俺を怒らせようとして試しているのか?」と思い直し、「だったらやんわりと持久戦に持ち込むか!」と覚悟を決めました。
鋭いYさんの口撃! 「Kさんが女性だったらどうしてほしい?」
(私を口撃したくてうずうずしているのがよくわかる)
「そんなの俺にわかるかー」と逆に突っ込んでやりたかったが、「権威者」を非常に恐れる私には、怒りを振り翳す「女王様」には盾突けない。
もう既にパワーゲームは始まっている。恐ろしい・・・ 
私は目に見えないダメージを喰らいながらも、なんとか言葉でのらりくらり交わしつつ
(まともにYさんと正面からやっていたんじゃ喧嘩になる、同じような抑圧された強烈な怒りを持つ者同士が血で血を争う、のは目に見えている。ハイリスク・ノーリターンだ)
少しづつ彼女の怒りの原因を、私がそれとなく探っていくと、見えてきた。
最後は私が直接指摘しなくても、彼女自身が彼女自身の中から答えを捜し出し、自ら認めた。
彼女の私への不毛な怒りは「父親への怒りの投影」だったことを。
私は理解し難い、納得し難い理不尽な怒りからやっと解放されたのだ。
私は疲れた。私の精神は非常に疲れた。
怒れる人を相手にするのは神経の消耗戦だ。
現場で顔を衝き合わせたってこれなのだから、顔の見えないネット上では「推して知るべし」である。
           これ以上読みたい人は「危険を承知の上で」嗜癖につづく
<146> シャローナ ■2003年12月29日 月曜日 20時20分16秒
心の底から、からだ全体で喜んでいるのを人から「本当に楽しそう」と言われると私は恥ずかしくなってしまう。私は喜びまでも恥じて隠してしまう。なんでーーー?もっと自由に喜びたいーーーー!
<145> WINNIE ■2003年12月28日 日曜日 23時47分21秒
ちょっとがんばったのはいいけど、それに刺激されて焦燥が出てきて、苦しい。
焦燥って、強くなってくると、破壊的な感じが出てくる。

苦しい。。。

何か、思い切りものを壊せたら、どんなにいいだろう。
あるいは、ナイフとかで、ふすまを突き刺すとか。

イメージだけね。
早く寝よう。
<144> シャローナ ■2003年12月28日 日曜日 21時01分53秒
今日は薬もなくできた。とてもうれしい。だけどそう感じたのもつかのま重く暗いものが覆ってしまう。なんで?なにかあったかと思い出してもない。今日は気分がよくなっていいはず。なのに・・・こういうことは前にもあった。自分を表現すること、何かがうまくいくこと、そうして喜びホッとすると気分が落ち込んでしまう。そしてダメだ、うまくいくはずがないとまた引っ込めてしまう。いつまでたっても私は出られない、そんな感じ。前に進めない。
それが私の中を覆う恥の感覚なのかな
<143> 雪 ■2003年12月26日 金曜日 02時43分01秒
また得体の知れない闇に吸い込まれてしまいそう。
最近、ACの自助グループに通おうと考えている。
一人では、回復できないって思うから。
ちょっと勇気を出して説明を聞きにいった。
そこで出会った人は、私の話を聴きながら、自分もACなのだと言った。
回復までどのくらいかかるのか聴いたら、一生もんだと言う。
そうなんだ・・・。でも変わりたい。今の苦しみを少しでも軽くできるのなら・・・。
人に自分の話なんかできるのかな。恐いなあ。
私は、自分を愛することができない。もちろん人のことも愛し方が分からない。
破滅的な関係を続けて、何やってんだって思う。
今どうしていいか分からない。自助グループに行ったらこれからどうなるんだろう。行くのも苦しいなあ。
半年は通ってみてと言われた。半年かあ。長いなあ。続けるのが苦手な私なのにね。

一日だけ行ってみよう。とりあえず・・・
<142> ノラネコ ■2003年12月26日 金曜日 00時28分10秒
怒りが表に出せない。
正確には、一人の時でないと怒りが表に出せない。
ぎゅっと押し込めて理論で「これこれこういう事で、ちょっとムッとしたかな」とか、穏やかな人を必死で演じて。
一人になると壁とか手当たり次第殴っていた。
車の免許を取ってからは、車の中で俯いて奇声をあげてわめいた。
自分はやっぱり頭がおかしいんだなと思っていた。
<141> ブロン ■2003年12月22日 月曜日 02時23分23秒
空っぽになった。
空っぽになってきた。
感情麻痺。
物覚え悪くなった。
だれがだれだか、もうどうでもいいや。
人に頼れない分・・・
アルコールだけが友達。
疲れたな。


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This script written by Shintaro Wakayama.