主題「支配と底上げは紙一重?」 副題「愚痴と嘆きの違い→ありのまま受け入れるってのは難しいね」
私が運良くカウンセラーと複数の自助グループ(スポットだと北はでっ海道から西は大阪梅田まで。夢は全国行脚?)に繋がって早?4年。この間にそれぞれ単純計算で100回以上私はこなして来たわけだが、その相乗効果もあって(また自分の勝手な思い込みもあって)最近私は一部地元でマンネリを感じ、都内某所にもお邪魔するようになった。 最初単純に田舎者の私は「都内だから何処もAC多いのかな?」と思ったら、多いところは多いが少ないところはホント地方並みで、「これだけ人口あるのに2,3人?」とがっかりしたところもあるが、それはそれで少ない分一人頭多く喋れるメリットもあり、だけど「できるだけ多くのACの話を聴きたい」最近の私としてはちょっと不満。こうした安心して嘆ける場に通い始めた当初は「聞く<話したい」だった私も、4年の歳月を経て「聴きたい≧話したい」にバランス修正を意識できるようになったと思う。それも自分は「傷付いた相手の感情が聴けない」苦い失恋をした反省もあってのことだ。
そしてここからが本題となるわけだが、先日隔週(車)でお邪魔している某地方のグループを私は欠席して、電車で都内某所に私はお邪魔した。 その個人的理由は「ここ2,3ヶ月、某地方は嘆ける(痛みを吐き出せる)面子の参加がなくなって、『この人嘆いてるの? それとも愚痴ってるだけなの? 5年も10年も通っといてそれをこの特殊な時間に話すことで何かあなたの回復に繋がるの? ここは老人サロンじゃないのよ。それともそう感じる自分の感覚がおかしいの?」という内面の疑問に答えが見つからず、「わざわざ同じような時間と交通費掛けて(自分の意思で)行くんなら、『費用対効果』でより嘆きを聴ける可能性のある場所に出掛けて行った方が自分のため」という思いからである。 結果的にその時は「都内に出て来てベターだった」と思われるが、ここでその私が「嘆きなのか?愚痴なのか?」判断に苦しむあるパターンを述べさせてもらう。 確かに「言いっぱなし聞きっぱなし」で本人が何を話そうと基本的に外野は黙って聞くだけなのだが、そうとはわかっていても私はグループに参加し続けて5年以上になるKさんの(テーマがなければ毎回)「今日は会社で」で始まる内容(私からすれば毎回「変わり映えしない、愚痴だか嘆きだかサッパリわからない」話)に「そんな会社の話(私やこのことを相談した一部仲間の感覚では「飲み屋でのサラリーマンの愚痴」にしか聞こえない)は、ACであろうとなかろうと働いていれば大部分誰もが普通に?思うことであって、時間が無制限にあるんだったらいいよ。でもわざわざこの限られた場所と持ち時間で話す必然性があるの? そんなのは(と言っちゃ失礼だけど)別にここじゃなくたって飲み屋でおっさん捉まえるか、自分の奥さんにでも聞いてもらったら済むことじゃないの? それともKさんはそういう連れいないの? 何で自分の生育暦やACならではの痛みをKさんは話さないの?みんな話しているのに? それとも話せないの? だったら無理に話さなくてパスすればいいじゃん? それとも(意識的か無意識かわからないけど)話したくないの?」と、正直私は「ACとしての感情を出さないのか出せないのか?」Kさんの話に不快感と違和感を抱きながら「また同じだよ。今まで単純計算で50回以上自分がKさんの話聞いてきて『今日会社で』以外聞いたの俺は2,3回しかねぇぞ。聞いてて退屈しちゃうんだよなKさんの話は先が読めるから。これだったら他のメンバーに再度話してもらった方がいいよな。わざわざみんな「痛みを共有するため」集まってるのに時間もったいないよ」と、「テーマがなければKさんはいつも『今日は会社で』話し始める」と気付いた半年前から私はその都度「脳みそ休め」でKさんの愚痴?を黙って聞き流すことにしている。 断っておくが私はKさん個人が嫌いなのではなく、あくまで(個人的なものだが)グループに5年も通っているのだから、ましてKさんは形なりにもチェアマンなのだから「グループで話すことの意義・有効性」の再確認と「グループ全体のバランスと(支配じゃない)底上げ」を(できるかどうかは別にして)私はKさんに自覚して自身の生育暦を嘆いてほしいだけだ。「自分はAという機能不全家族でBという痛みから嗜癖なるパターンを身に着けてしまい、社会に出てCという点で問題を抱え、それに対してDという感情でEという言動をした」という感じで、ACとしての自分の過去・現在・未来(回復に向けて)を話さないことには(愚痴言って意識ではKさんすっきりするかもしれないけど)無意識では仲間と痛みを共有できずにKさんこの先ずっと独りぼっちじゃない? 3年前私がKさんのグループに参加し始めた頃の私のKさんに対する印象は「あぁこの人ACなのに落ち着いて安定しているなぁ」と思っていたものだが、3年経った今では「あれぇKさん(毎回ちゃんと嘆かないから1年目の人よりも成長率・回復度遅くて)いつの間にか一人取り残されちゃってるじゃない? これがニートや引きこもり、または障害があったりして基本的に働くのが難しいってんなら例え毎回同じような話しでも(痛みは伝わるだろうから)俺は納得して聴くよ。でもKさんは違うでしょ? それ以外にACとして話さなくちゃいけないことってあるでしょ? 安定して落ち着いて見えたのは自分の痛み(瘡蓋)を剥がそうとしないからだよな。自分で痛いと感じるから嘆きに繋がるわけだし、嘆くから人の心にも痛みが伝わる? そうして仮面被って『1回話したからもう充分ですよ」と自分の痛みを深く掘り下げずに目を背けていたんじゃ、いつまで経っても愚痴で終わっちゃうよ。だからKさんは仲間の話も貧乏揺すりしたり『チッ』って時々言ったりして聴けないんじゃない? それって無意識の話したいと意識の話したくないの葛藤じゃないの? 自分で気付いてる? 気付けてないでしょ?」と、冷ややかな目で私は時々Kさんを観察している。
以上私が好き勝手に述べたことに対して読んだ人それぞれ意見・反論があろうと思うが、いいところがあったのならそれは私が各地のグループに参加して色々経験した成果?であり、悪いところはやはり自分のための支配が窺えるところ? 色々ごちゃごちゃ私は書いたが、詰まるところ単純には「せっかく皆で参加して嘆いているんだから、各自その『相乗効果を狙えるよう』意識して嘆きましょうよ」ってこと。もちろん参加数度目の人に私は10年選手並みの嘆きは全く期待していないけど、そうしたAC同士意識しあえる場所で自分より先行くACを見つけて、感じて、自分の回復(成長)がレベル1ならレベル1の痛み、レベル5ならレベル5の痛みを、各々が無理しない程度に自分の中での話すべき・話したい優先順位を付けて手放して行く癖を付けないと「ただ参加して満足。気が付いたら『あれれ乗り遅れちゃったよ』じゃグループで何してきたんだかわからないでしょ?」 別に愚痴かどうか他人にはわからない会社のことが絶対ダメってんじゃなくて、また嬉しい気持ちを話したい時にはそれでもいいし、要はトータルで診て「自分がACの問題から開放されるにはグループでどうしたらいいか?」ってことだから、それにみんな自分の時間と交通費を削って来るわけだし、それなりに各々有意義な方が、さらに「意識を高める」相乗効果が出た方がいいでしょ?ってこと。 わかってもらえたかな? そういう私も人の心配している場合じゃないんだけどね。
|