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私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.25
メッセージ数:500件

<500> WINNIE ■2004年09月18日 土曜日 00時53分22秒
自分の中にあるたまった怒りを、出し切れたらいいのかな、と思っていた。でも、この怒りさえも、アディクション的な色があるようだということと、カーッとしやすい私のパターンは、ADDを含む自閉症系のパターンとも近い、という解釈を最近はしている。

でも、どういう解釈をするにしても、やっぱり怒りは苦しい。

カーッとするんだけど、外に放出できなくて、自問自答とともに葛藤している。粘着性の強い怒りだ。

今日は、その怒りを少しでも整理しようと話したのに、かえって聞いてくれる人に、ストレスを感じてしまい、怒りを助長させてしまった。

疲れてしまった。

怒りの対処法、ケアとして・・・

・親との問題の整理。
・過剰にカーッとなる「スイッチ」を、切る工夫。
・上と重なるけれど、長い間溜めないようにする。
・怒りでもって、アディクション欲求を満たそうとするパターンに気づく。
・適切な「No」を言う。
・自分に正直になり、自分自身が自分を受け止めれるよう、つとめる。

怒りについて、エネルギーを消耗しないようになりたいよ。
<499> キーコ ■2004年09月16日 木曜日 05時52分37秒
「ありがたいなぁ〜。」と、素直に言えるようになった。
今も、質は違えども、相変わらず「ボコボコ」になる。
でも、「ありがたい。」から不思議です。

自分が好き。
心底「いいやつ」だと思う。
沢山欠点もあるし、自己中心的な所も いっぱいあるけれど、好きなんだ。

「変化」「変容」て、理屈では分からない。
いかに無力で弱いかを、これから もっと自覚していくんだろうなぁ。
自分の思いを超えたモノに、包まれて守られている。
「そんな・感覚」が、少しずつ 呼び覚まされているみたい。
自分は、何ものなのか。
自分を、ほんとうに大切にすることを、 もっと学びたいと思います。
<498> 木の芽 ■2004年09月15日 水曜日 18時23分51秒
『過程を楽しむ』

終わってしまえば、後に残るものは後悔と反省ばかり。
完璧主義者で自己評価の低い私は、ものごとの過程を楽しむことができない。評価に関わることに対しては、完璧さを求める。
しかし自己評価が低いために、達成感は全く無い。
評価に関わらないことに対しては、ただひたすら「やるべきことをやっただけ」。

もっと過程を楽しんでみよう。
完璧主義と自己評価の低さは、すぐには変えられないけれど。
過程を楽しむには余裕が必要な時もあるけれど。
細かい作業の一つ一つを楽しんでみよう。
<497> 波 ■2004年09月15日 水曜日 05時17分28秒
このコーナーに「健康」というのがあったらそこに書きたいのですが、ないので「心の持ち方」として書かせてください。

両親が高血圧が原因の疾患で逝った。特に母が入院してからは「私もいつかこのような状態になるのでは」という恐怖が抜けない。

きのうは出先で頭に血が上った感じがしたので、急いでカフェに入ってテーブルにうつぶせになって休んだ。しばらくして治まった。寝る直前にも同じ事が起きて、息も荒くなってパニックになった。

体重を減らすと血圧も下がると知って去年15キロ落とした、だから大丈夫なはず。持病で通っている先生は「そういうあなたに血圧を測ることなんて冒険はできないわよ」と言うし、精神科の先生も「測り初めに170でも深呼吸して数回測って140くらいまで落ち着いてくるのだから高血圧ではない」という。でも今は血圧計を見るのも怖くてここ1年くらい測っていない。

気持ちの問題なんだと思う「パニック障害」に近いのかも。倒れても半身不随になっても「それはハイヤーパワーの決めた事、受け入れよう」と言う心境になれたら楽なのになあ・・・

<496> ミカエル ■2004年09月15日 水曜日 00時32分02秒
私は依頼心が人一倍強いと思います。
でも、今訓練している事があります。

「期待しない」誰にも、何事にも。

そうすることで自分を守れます。
期待しなければ裏切られる事はない。

期待して、裏切られ、落胆して自暴自棄に走る。
これを止めるには期待しない事が一番だと思いました。

同時に、人に心を開かない という事にもなりそうです。

「期待しない」訓練、私にはかなり難しいです。
<495> 木の芽 ■2004年09月14日 火曜日 20時07分08秒
『問題』

ACであるが故の問題はたくさんあるけれど、根本的な問題にぶち当たった。
「自分の存在が実感できない」のだ。
漠然とした問題だが、私が苦しむ根本的な理由がここにあると思う。
自己評価が低い、完璧主義、休養することができない等々の問題は、すべてこの「自分の存在が実感できない」ことに集約されるのではないだろうか。

これを他人に説明するのは難しい。
この「自身の存在の実感」は、幼いころから全くない。
自分というものがないのだ。
自分の感情や感覚をわかりやすく表現できないのは、「自分がここにいる」という実感ないせいではないのか?

…このことについて考えると、私はいつも混乱する。
うまく表現できない。
なぜこんなにいつも苦しいのか。
わからない。
問題への対策をそのつど講じても、苦しさは消えない。

「あなたは一つ一つに理屈をつける。それでは誰でも疲れてしまいますよ」
精神科の担当医に言われた言葉だ。
その時は「理屈をつけないと、自分が『ここにいる』という実感が出ないんです」と答えた。
半分は本当で、半分は嘘だ。
理屈をつけたって、「ここにいる」という実感は生まれない。

全てがどうでもよく、全てに達成感がない。
私は自身の存在を確認するために、こんなにオーバーワークをしているのだろうか。
自分自身に「オーバーワークだ」という認識は無いのだが。
意識が無くなるまで、何かしら行動している。
その繰り返し。

今はただただ身体が重い。
これが何なのかもわからない。
病名をつけられて、少し納得しただけだ。

この問題について考えていると延々と続きそうなので、今日はここで休止。
<494> シャローナ ■2004年09月13日 月曜日 20時36分43秒
感情を理解するようにはなったけど
どうもすっきりしない
それどころか感情・・・とくに怒りを認めたがゆえに
頑なになってしまった
感情を理解してもそれがうまく流れていかない
カウンセリングでやってみても中途半端
なんか荷物が増えてわけわからなくなってる
どうしからスッキリおさまるのか・・・
<493> 木の芽 ■2004年09月13日 月曜日 16時40分01秒
『守ってくれる人』

私はずっと、『自分を守ってくれる人』を求めていたんだなあと、今更ながらに思う。
一人で生きるのが当然だと思っていたから、寂しいという気持ちもよくわからなかった。
もがいてもがいて、助けを求めて、でも立ち上がるのは自分。
再び歩き出すのは自分。
周りは、助けてはくれるけれど、私の苦しさを引き受けてくれるわけではない。
だから、自分が少しでも苦しくならないように守ってくれる人が欲しかった。

助けてもらっても、『生きること』は自分自身の力で維持していかなきゃならない。
理解している。
でも、守って欲しい。
包んで欲しい。
<492> 木の芽 ■2004年09月10日 金曜日 18時01分40秒
『怒ること・泣くこと』

怒ること、泣くことができない。
ACの問題と向き合っても、怒れないし、泣けない。
私の感情は、まだ封鎖されている部分が多い。
この二つが、メーターを振り切るほどに爆発したら…。
怒ったら、少しは楽になるだろうか。
泣いたら、少しは楽になるだろうか。
<491> 木の芽 ■2004年09月10日 金曜日 17時55分38秒
『音楽と感情』

私にとって、音楽と感情はきっても切り離せないものだ。
一人暮らしを始めるまで、音楽が私をサポートしてくれていた。
家族の発する罵声や嘆きに耐えられない時。
苦しくてどうしようもない時。
悲しくて、でも私は泣けないので、音楽を聴いて心で泣く。
『癒された』とか、そんな言葉じゃ感謝できないくらいだ。

音楽によって感情が乱される。
これに気がついたのは一人暮らしを始めてからだろうか。
特に心が下降ぎみの時には、悲しみが詰まった音楽を聴くと苦しくなってしまう。

今は、自分の気分によって聴く音楽を選択している。
覚醒したいときや、パワーが必要なときに聴く音楽。
落ち着きたいときや、眠りたいときに聴く音楽。
…等々。
今の自分は、悲しみや苦しみの音楽に引きずられてしまうから。
だから自分から距離をとる。
音楽が、私にとってかけがえのないものであることに、変わりはないのだけれど。
<490> 木の芽 ■2004年09月09日 木曜日 19時19分46秒
『鬱について』
鬱な気分に悩まされている方は、特に注意してください!!

鬱が上昇してくると、考えることがある。
「いつまで休んでいようか?」
元々、休養の仕方もわからなかった私なのだが、ある程度状態が安定してくると考えてしまうのだ。
これは自分の判断だから、自分が「そろそろいくか」と思ったら、再び動き出せばいいのである。
結局は自己判断なのだ。

しかし。
今の私のように、「少し上昇してきたかも」という時期が、一番厄介だ。
『鬱病は、ただ怠惰なだけだ』という意見。
これには断固反論する。
けれども、この“少し上昇”の時期が、自分の心と身体が一番厄介なのだ。
「もうそろそろできるでしょ?」
そう囁く自分がいる。
「上昇してきているのだから、もう今のお前は怠惰なだけなんだよ」
そんな言葉に、焦ってしまう。

休むのも、動き出すのも、決断するのは自分。
しかしその『決断』という行為も、私にとっては難しい。
流れに身をまかせるしかないのか?

鬱って、難しいなあ。
<489> 木の芽 ■2004年09月09日 木曜日 19時05分04秒
『焦燥感・不安・疲労』
気持ちが安定していない方は、注意してください!!

どこに書いていいのかわからず、『言いっぱなし』に書くのも躊躇しました。
なのでここに書きます。
一部分、テーマと合わない内容もあるかもしれません。
しかし『感情』という大きな括りでみると、その部分だけ外すことはできません。


では。
私は昨日から焦っている。
焦燥感が強まってきている。
昨日はここに来て、自分と向き合うことで一時的に落ち着いた。
しかし夜中になり、焦燥感と不安が再び強まった。
この時は、ここ数週間の自分の前進ぶりを褒める事で乗り切った。
一つ一つ、出来たことを紙に書き出して、自分を褒めた。
自分に言い聞かせるように何度も褒めた。

翌日(つまり今日)。
朝は落ち着いていた。
前日は相変わらず寝つきが悪かったが、寝ている間、一度も目覚めることなく朝を迎えた。
そしていつもと変わらない生活をしていた。
しかし午後、突然起きていられなくなった。
「疲労だな」と思ったので、少し横になって休んだ。
「少し休めば、また起き上がれるだろう」
軽い気持ちで身体を横たえた。
しかし、数時間経っても疲労は回復しない。
焦燥感と不安感が増してゆき、自傷行為への欲求が高まってきた。
私はそれらと戦った。
「ここはもう戦うしかない」と、その時は意識していたわけではないが、とにかく必死に戦った。
そして戦いの嵐は過ぎ去った。
疲労感が再び強くなり、私は眠ってしまった。

そして気がつくともう夕方。
また一気に気分が落ち込む。
昼寝(?)をしてしまったら、夜に余計寝られなくなってしまうじゃないか。

…こうして私はここに駆け込んだ。
今日の昼間の疲労感。
そしてその後の焦燥感と不安。
何なんだろう。
焦燥感に関しては、<488>で書いたように、理由は推測できる。
しかし疲労感と不安は?

まず疲労感について考えてみよう。
私は現在、鬱病の治療中だ。
ここ最近、少し上昇しかけていた。
無理はしていない。
休養も多めにとっている。
一進一退なのか?それとも怠惰なだけなのか?
わからない。
しかし疲労は、とにかく休むしかないのだ。

次に不安について考える。
これは焦燥感からくるものなのか?
だとしたらこれも原因は<488>に書いたとおりだ。
あとは、寂しさ。
私の心の中にずっとある寂しさだ。
寂しさ、不安、焦り、疲労…そんなものが一体となって私を襲う。

原因は、ひとつじゃない。
ここまで書いて、これだけははっきりした。
外的な要因、内的な要因がたくさんあって、それらが複雑に絡み合う。
そして一体化したモンスターとなって私を襲う。
今までは“闇討ち”のような感じだったが、もう今は時間などお構いなしだ。
まさに“奇襲戦法”である。

落ち着こう。
落ち着けなくても、こうして書いて、自分が何を感じ、どう対処するのかを観察しよう。
この方法にすがる。
一体化して私を襲う感情を、一つ一つ切り離して見据えよう。

少し、落ち着いてきたかな…。
<488> 木の芽 ■2004年09月08日 水曜日 17時27分46秒
『焦りと完璧主義』パート1

これまでの自分の人生を振り返ってみると、何かしら焦っていることが多い。
なぜだろう。
これまでは『焦り』そのものに飲み込まれてしまい、『焦り』をじっくり観察することがなかった。
自分は、なぜこうも焦るのだろう。
日常生活の一つ一つに対して、いちいち反応し、焦っている。
この日常的な焦りは何なのか?
いつまでも、このような『焦りのループ』にいるわけにはいかない。
きっかけは何だっていい。
今日も実はとても焦っているのだが、心を落ち着けて、焦りの原因を考えてみよう。

まず。
今の焦りは何か?
それは締め切りが近い、とある作業を行わなければならないことに対する焦りである。
鬱の底にいた時は、作業のことすらも考えられなかった。
しかし少しずつ浮上するにつれて、締め切りの日が気になり始めた。
作業の準備は何もしていない。
心も身体も、少しずつ機能を取り戻しつつあるとはいえ、この作業を行うことは気力・体力を大いに消費する。
“じゃあ、やらなければいいじゃないか”
それは違うのだ。
「やらなければならない」という、自分を追い込む気持ちよりも、やらなかったことに対する後悔の気持ち、これを私は恐れている。

更に。
今の焦りを増幅させる要因。
それは、『自己評価の低さ』によって作業が進まないこと。
私は、「まあこの程度でいいだろう」という自己判断ができない。
自己評価が低いため、「頂上を目指して完璧な作業を遂行するのだ!」という、書いているだけでも疲れてくるようなスタンスなのである。
これでは、本当に疲れる。
これでは、常に焦ってしまう。

客観的に見ることはできる。
しかし、長年注入され続けてきた、親からの『完璧主義の毒』は強烈だ。
気休めに、「そんなに完璧にやる必要はない」と呟く。
それが現在できる『完璧主義』への対処療法。
「成功経験を積むと自己評価につながる」と、ある人に言われたこともある。
けれども、自己評価と完璧主義は、私の場合、切手も切り離せない関係だ。

自己評価が低いから、完璧を目指す。
しかし、「完璧にできた」という実感(達成感とも言える)が湧かないから、自己評価は低いままだ。
これを無限に繰り返す。

しかし、こんな状態を書いていても自己嫌悪に陥らないのが、私の『前進』か。
全く陥らないわけではない。
でもこれを問題だと認識できるようになっている。
できないことよりも、できたことを褒めよう。

焦りが、少しだけ収まってきたか?
まだ時間はある。
今は、今回行うあの作業だけに集中するのだ。
大きなミスがなければいい。
ミスがないまま完了できればいい。
自分に言い聞かせる。
「完了できればいい」と。
<487> キーコ ■2004年09月08日 水曜日 15時09分07秒
相変わらず、よく怒る・よく泣く。
大いに、糾弾している。
感情の大波に飲み込まれないように、
うまくサーフィンが出来ればいい。
・・・と思うけれど、現実は それほど甘くもないから。

でも、「対象」が変わってきた。
個人に対して、と言うよりも、もっと「大きなモノ」に対して。
ひとをそのように、幻惑するモノに対してかなぁ。

上手く表現できないけれど、確実に変わってきている。
だから、すこ〜しだけ「楽」になれたような・・・感じ!?かしら。
<486> くろうさぎ ■2004年09月07日 火曜日 09時19分41秒
−分断−
気持ちがささくれ立ってる。心がざわついてる。目つきもいつもと違う感じ。なんだろう。
これまで、思い出し作業をしてきて、殴られていたときの気持ちは見えなくて、蓋をはずそうとしたら、うつがひどくなったから無理はやめた。
それから数日して、思い出し作業は、ばかばかしいと思う自分がいる。そんなことしてどうするとつぶやく自分がいる。
小さいぼくをかわいそうに思い、これまでのぼくをけなげに感じた、自分は隅っこに追いやられている。
どうなってしまうんだろう。
<485> 木の芽 ■2004年09月02日 木曜日 19時10分36秒
『途上』

私はまだ鬱からの上昇途上にいるのだな。
そう感じた。
鬱の底は暗い。
鬱の底は苦しくて辛い。
だから状態が少し上向きになってくると、ついつい無理をしてしまう。
全快したような気分になってしまい、心も身体もついていかないのに無理をしてしまう。
だから今日は疲労感が強いんだな。

上昇途上に無理をしないことを知った。
こんなふうに、日々自分のことを知っていくんだな。
<484> セシリア ■2004年08月30日 月曜日 23時42分16秒
心落ち着けて、お風呂に入って、睡眠導入剤のんで、寝よう。薬、ありがとう。心強い、私の味方。外は、すごい台風です。
<483> 木の芽 ■2004年08月30日 月曜日 15時31分20秒
『休養の仕方』

「休養すること」がどういうことなのかわからなかった。
よく「疲れたときには休みなさい」と言われるが、休むってどういうことなのかわからなかった。
いつも何かについて考えていた。
自分の行動に理由付けをしないと、自分が“ここにいる”というふうに思えなかった。
理由なんていらないんだね。
理屈なんていらないんだ。
わからないことがあってもいい。
疲れたなあって思ったら、そのまま倒れこんでいい。
再び立ち上がれるまでそのままでいいんだ。
<482> 波 ■2004年08月26日 木曜日 13時07分38秒
私の母親は”女”だったんだ、”母親”であり”女”でもあったんだ。

複雑な感情だ、少し母への見方が変わった。

”女”としての母を検証してみたくなった。
<481> キーコ ■2004年08月22日 日曜日 06時02分40秒
かなり、気持ちがつまってきているみたい。
頭が ボーとして、働かなくて・・・、文章が読みこなせない。

字の羅列がzズ―と続いているようで、ただ字面を追っている。
こころの中に、思いが響いてこない。

睡眠不足も、手伝って、「お〜い、感情。 どこへ行った!』て感じだ。
すっごく イライラして、しんどいなぁ。

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This script written by Shintaro Wakayama.