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私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.113
メッセージ数:2260件

<2260> アラタ ■2008年02月28日 木曜日 09時20分04秒
「にんげんてきにすき」

これ以上ほしかったことばある?

ああ、大丈夫物事はすべてうまくいってる。

私の抗いかたも
おかしくなったことも
人間ならありうることで
どんなに高尚なこと言ったって
世間は人間で出来てるんだから
なんでイレギュラーでドラマチックなんだか。
<2259> ぺあ[FB注意] ■2008年02月26日 火曜日 22時01分10秒
私は分からない。でも、ここにくるとほっとする。うちのくそじじいのこと忘れたくない。大好きだったんだよね。お父さん。でも、人って簡単に死ねるんだあって思うし。「2年もたった」今では、「まだ落ち込んでいるの?」と親戚に言われる始末。
 自死だと知っているのは私と姉と母だけだから。特に母と姉は全部見てしまったから。私はおかしいなと思いながら、何一つとめずににやにやみていたんだから。
 お父さんのこと。それからAC家系であること。おじいちゃんの「いい学校といい会社、怠惰は敵!周りを見返してやれ!」の連呼は、父や叔父伯父に影響しまくっただけじゃない。私にもばっちり影響受けていた。私もまた幼稚園児のときに「将来出世するコースのために、こいつらのように馬鹿遊びしないで、用心して気をつけて、怠惰は敵だと思って生きよう」と心から思っていた。
 今ははっきり言える。遊びな!無邪気に遊びな!人生は遊びからくるのよってね。
 未だに父がいないことは信じられないし。自死する人はやはり優しいからなのか?と思うと、自分の手首切ったほうが、父のためなのかなあと思ってしまう。
 父が優しすぎるならば、私もそうなるよ。私にとって父は本当に大好きな人だったの。でも、未だに愛と憎しみと、管理といろんなことがごっちゃごっちゃ。
 でも父が苦しいならば私も苦しんだほうがいいのかな。
 自死したけども、苦しかったのは父なんだ。でも私も壊されてきた。アダルトチルドレンであった家族。
<2258> ぺあ[FB注意] ■2008年02月24日 日曜日 16時32分13秒
私ね、ああ、怒り自分にぶつけているわ。
父と一緒だ。
ずっと、私殺人犯だって自分のこと思ってきたの。行方不明の子が近所にいて、ポスターの写真とか今現在のCG写真が、失礼ながらまじ気持ち悪かった。いじめた女のつぶれた鼻と同様に、いやもっとぎっくりさせるような気持ち悪さがあった。本当その子の写真はごめんね、失礼ながら吐き気がするほどきもくて怖かった。そして自傷思考が消えなくて、いつしか、自分の中に埋め込んだいじめっ子が「お前が殺したんだろう?」って私に叫ぶようになっていた。何かがうまく行く時、自分に「調子に乗るな」と同時に「お前が殺したんだろう?」にやりって。そうまるであの女が私に耳に虫入れたときとおんなじことを再現したの、何千回何万回も自分の心の中だけで、誰にも分からないように自傷、それが快感でもあった、誰にもわからないからこそ、自分の中のとりでの中にいるようだった。子供時代の一人だけの世界が、取って代わったんだろうな。
<2257> ぺあ[FB注意] ■2008年02月24日 日曜日 16時26分58秒
 離人症に私なっていたんだ。
そうなんだ。
 そして思い出したよ。私ね、ずっと、気持ち悪い想像しながら生きていた。
例えばくるぶしのところから血を流しているとか、そこを削られていることを想像して、自分にいやあな気分を自分に起こさせて生きるの。そしたら、もういじめなんかにあっても、傷つかないで済むからね。ずっとそうやって生きてきたの。これが鬱でも離人症でもいい。どれだけ「恵まれた子」と思われながら、「順調路線演出」の下で感情を殺して生きてきたことか!これが私だったの。
<2256> ぺあ[FB注意] ■2008年02月24日 日曜日 16時05分11秒
 解離性障害、または幽体離脱したことが私は覚えている限り、2回。でも今思い出した。高校時代は寝起きにそういうことあった、そして寝付く時には金縛りと供に。
 その2回とは、一回目は、大学時代の言い寄ってきた男性にキスされたとき。意味不明なのに、私は嬉しそうな顔をして、終わった後ににっこり笑っていた。相手が幻滅したかどうかだけを心配して。思ったとおり良くなかったらどうしよう?怖いよ、相手が良ければそれでいい、自分の感情なんか小さいもので、フッ飛ばしても全然私はOKなのだ、相手さえ私に幻滅しなければ。乖離だった。幽体離脱だった、とにかく魂が抜け出て私を上から見下ろしているの。今でも覚えているよ私は上からキスされている2人を、見ていたの。私なのに、私がいないの。私は上から見下ろしているの。
 2回目は教育実習先で。担当の教員をよほど怒らせた私は(過去のされたことを本当は怒っても良かったことなのかどうかただ試していただけだった。)子供の目の前で授業の後に「やめなさあああああい」と怒鳴られ、お次に子供に向かって「いまの授業理解できた人?」と怒鳴られ、子供に手を上げさせ、そして、私に「いい加減にしなさああああああああい」と怒鳴りまくられた。あの時、私乖離したの。幽体離脱。上から見ていた。私は怒鳴られている姿を確かに上から子供の前で立ち尽くす私をはっきり上から見ていたの。これが幽体離脱だったの。
 どんなに悲しくても怒りをもっても私は許されないのよ。だって世の中には「不幸人」しかいなくて、自分の問題を自分で尻拭いなんかできない人しかいない、この世界の中で私は助ける人、自分は助けてあげないといけない人。だから。
 でもよおく分かったよ。
<2255> かえる ■2008年02月22日 金曜日 23時36分28秒
ほんと馬鹿みたいなことで泣いた。職場での不満、家族の些細な言動、ちょっとしたトラブルが重なって、自然に涙が出てきた。一番にストレスになるのは仕事だ。かなり我慢をしているかもしれない…。上の人を尊敬できない、口先ばかりで、まわりに厳しく自分に甘い、だから自分の否を認めないのか?だいたい、私から聞くことじゃないじゃん、上にたつ人の指導って、なんなの?行き辺りばったりに注意して、先輩かぜふかせたかと思うと、お喋りばかりして、体を動かさないし、率先してやっている先輩っていないと思う。前の職場でも、言ってる事とやってる事が違う同僚、先輩、いい加減にしてくれと思った。威張るだけ、威張って、時々、こっちに皺寄せがきて、呆れた。年をとると自分の失態も素直に認められないのか?そんな、不信感ばかりが募っても、はい、はい言って、従わなきゃいけない。先頭にたって行動で示してくれる先輩が正論を言えば、私は市の五の考えないで、素直に従える。今は無理して従ってる。尊敬できない、そんな人達見習おうとは思わない。不満や不信感は膨らむ。…もう、、、駄目かもしんない。人間関係だって、こんな気持ちじゃうまくいくわけない。…一度きりの人生だ。自分のやりたい事を仕事とし、できるかぎりやってみるか?自分が本当にしたい事が何なのかわからない、長く続ける自信もはっきりとは持てない、まわりの意見、安定した待遇、給料、リスクは大きい。…けど、こんな気持ちをずっとしょったまま仕事したくない。良い子ちゃんでい続けるには限度がある。自分に嘘をついたまま無理して、安定した人間関係が築けるわけがない。固くなな私の心でも、生きるすべ、働くすべを見つけたい。友達と一緒にいる時みたいに、自分らしい私でいたいよ。無理はしたくない。しんどい。
<2254> けんと 改め まさ ■2008年02月19日 火曜日 20時31分56秒
FB注意!!!!!!!!

落ち着いた。16:00から18:00までが、魔の時間で、この時間は、思い出すのも嫌な、あの宗教をしていた時間だ。

自分を殺していた時間。火曜日にこの時間。

普通の生き方なら、仕事して、夕飯を同僚と食って、酒飲んで、くだらない話をして、楽しむ時間だ。

今は、完全に自由だが、心理的なトラウマがあるので、変な感じになる。

苦しいとインナーチャイルドが叫んでいる。

おかしいと、不機嫌なチャイルド君。

苦しみの声で、めいいっぱい叫んでいたのに、どうして理解しなかったのと。

苦悶していたんだよと、言うんだよ。

そうか、こんなにも俺は本音を殺していたのかと今は感じているんだ。

抑圧する癖は、なかなか直らないんだ。

感情を相変わらず、淡々と語る俺は、4年前の自分に戻った気がするんだ。

あれからいろんな事があって、感情的に死んだ時期があった。

異性関係で苦しんで、もう恋愛はしないときめたことで、自分を殺してしまった。

それから、デイケアでも、異性とは最低限しか話さなかったし、

親しくなりたいと思うと、苦しくなった。

また、母親の役を、相手に押し付けてしまうと感じていたからだ。

母に愛されなかった俺は、意地悪でも母に抱かれたかった。

母の匂い、母のぬくもり、母のやさしい声、母の能天気な歌声。

母と歌った思いで。母と過ごした楽しい時間。

今の彼女とかぶる。

母のやさしい目と彼女のやさしい目が良く似ているんだ。

面白い性格まで似ているんだ。

神様は信じないが、こんな偶然ってあるんだなと感じる。

母も踊るが、彼女も踊る女性だ。

ともかくかわいい。

感情のスレッドだが、どうしても恋愛の感情になるので、お許しください。

感情のままに買い手もいいコーナーだから、書きます。

親密な関係が形成されるには、時間と努力と、真剣に相手を思うことが大事だと感じています。

真剣に相手の病気のことを勉強して、自分に当てはめて、その感情を理解するなら、相手の感情が分かります。大変な時間と労力が要りましたが、すごく幸福です。

自分が何に飢えていたか良く分かりましたから。

母に先生を求めていたこと。幼稚園の担任の先生から受けた傷が、深くて、それを理解して欲しかったことを母に話、落ち着きました。

みんなの前で鏡文字を注意され、一気に対人恐怖を味わい、小学校へ行く前に、先生に対する見方が狂い、先生恐怖症になっていたことがはっきりと分かりました。

感情的な先生で、普段はやさしいのに、いきなり怒り、俺は困りました。

20代だったので、感情的に幼かったかもしれない。でも、心理学の観点からすれば、教え子にどういう影響を与えるかはわかるはずだ。保育士もしくは幼稚園の教諭は、幼い子供を扱う仕事だ。感情的になるなら、相手が傷つくことぐらい理解していたはずだ。

シャイな子を扱うのには大変だったかもしれない。でも、そんな俺をみんなの前で叱り飛ばすなよ!!!

女性恐怖症の始まりは、先生なんだよ!!!

綺麗なのに、感情的に怒るなら台無しだ。

好きだったのにすごく残念だった(;_+)。

先生に会うことも幼稚園に行きたくない俺の支えのひとつだったよ。

もうおばあちゃんだろうけど、俺は許します。

<2253> けんと 改め まさ ■2008年02月18日 月曜日 22時15分21秒
深い感情が出るようになった。大好きな彼女のお陰だ。

感情のやり取りができるので、深い感情が簡単に出る。

くらくらするくらい出る。

本当に初めてだなと感じる。

今まで付き合った女性たちはいったいなんだったんだ?

進展が遅かったのが良かったよ。

落ち着いて、自分の感情を認めることができた。

お互いに精神障害だが、俺が感情を出すと、笑顔が返ってくる。

お互いに考え深いので、慎重すぎるくらい慎重だけど、

気持がお互いに解るので、会うたびに安心する。

内奥の深い感情は、ものすごくいい感じで、回復の度合いが良く似ているんだ。

同じ主治医だと言う共通点と、同じ診察日。あいつの目を見ると、すごい安心感が伝わって来るんだよ。

笑うと本当にまぶしいよ。

生きていて本当に良かった^^;

<2252> ぺあ[FB注意] ■2008年02月18日 月曜日 17時09分39秒
 父が自死したこと。
聞いたとき、私はもう一生背負わないといけないのだって思った。父のこと。私は殺人者なんだって思った、分かっていたのにすくわなかったから、ニヤニヤしてみていたから。
 近所のお葬式に来てくれる人全員、私を疑っているって思っていた、あの頃。
 悲しい振りをした。泣いた。ごめんなさいって連呼した。でも全部演技だった。
 本当は私知っていた。でもあの時でさえ私は「普通の人がどうするか」だけを考えた、後は後々傷が残らないように涙を出しておこうと考えていた。
 本当の思いは、怒りだった。父への怒り。高校時代とおんなじ。お前は高校時代からおんなじ。何を言っても本音でぶつかっても応えることのない父、絶対に。恐ろしいほどの岩を心にもって、せき止める人。それが父。私はどんなに泣いても、本音でぶつかって、本音見せろって父に迫っても、死んでも父は見せない。その繰り返しをしている気分だった。今度はこの世とあの世で。変わらない。
 それから母と姉への怒り、お前らばかじゃねええか?私でさえ気がついてた父の変ぶりをなぜ気がつかない?このオオバカやろう。死ねよ!母は、出張先から工事の設計がうまくいかずに早々と病気理由で帰ってきた父。姉の結婚式でパーマをかけておしゃれしている母と、父をほっとき「ああ忙しい」の姉。母は父をせきたてて、土曜日に行楽地に行き、そして土曜日、布団で「あの工事はここがだめなんだ、もっとこうしないと強度がだめなんだ」とぶつぶつ暗い顔してつぶやく父に向かって、「いい加減にしてください!!!もう娘が結婚する年なのに、何言ってるんですか?!」と怒鳴り、そして日曜にはもう父はいなくなっていたわけ。
 私は言いたくてもいえない環境の中にいたの。でも、姉も母も私にしてみればひどすぎる。姉は特に。28にもなるのに、ずっと土日は何も言わずにテニスを言って、夜まで帰ってこない。何を聞かれてもすごい剣幕で「関係ねえだろう?」と吐く。結局、こういう家だったの。私はひどいのですか?自死を知っておきながら、ほんとうに分かっていながらとめなかったの。きっと一歩手前まできていたのに、私はとめなかったの。とめなかったの。私はひどいのかなあ?でも留められなかった気がする。でも出来た気もする。私の頑張りが、あの時意地張らなければ、でも本音言えば必ず返される私に、変な目で見られる私に。
 私はやっぱりこの家が悲しい家だと思っていたけども。
 姉にはどう接したらいいのか分からないの。的外れな人。怒りしかなかったよね。でも笑っていた私葬式で舌出していた。泣くのは半分演技。でも心も飛ばしていた、何にも感じないように。いじめられた経験がこんな時に役立つなんてねって苦笑しながら。いじめられた頃の経験の方が数段辛かったけども。 うちってどんな家に見えるのでしょうか?私はやっぱり父を助けられたのに、しなかった子なんでしょうか?どこまで私は頑張ればよかったのでしょうか?でも、あの時、自死の一週間前のあの日、もしも私が叫びたい思いを実行していたら、あの頃私は母にも姉にも父にも「要注意人物」って思われていたから、私がまたおかしくなったと思われて、そういう視線に迎合する私は、本当におかしくなって、怒りもすごかったから父や母や姉を包丁で刺していたかもしれないと思うの。
 あの頃、私は電車に乗る前に、つまり実家に帰る前に母に「私のこといつまでも自立しないで欲しいって思っているのでしょう?」って言いつけたりしたの。そしてその後で、携帯の電源がなくなっていたからぶつって切れたりしていて、母も姉もこいつ自殺するって思っていたらしい。そういう視線は本当に感じていた。父の自死の後に、母は「本当はお父さんを一番に心配しないといけなかったのに」だとか、姉と母で「OOOちゃん(私)の方がやばいと思っていたのに」とか言われたもん。
 どうにもできないのに、何かがおかしい、壊れた機関車が暴走していくような、何かがうまくいっていないようなものをものすごくこの家に感じていた、なのにうちは「うまくいっています」を求めて暴走する、休まない、見栄のために、そして自分をもごまかして生きている。ただただ「うまくいっている」ようであればいいと。苦しくて、でも誰も理解しなくて、誰一人私の周りには存在しているのに、誰もいない感じで、私はものすごい孤独で、しかも、ちぐはぐで、いじめられやすくて、姉にも母にも父にもはねられて、私は自分の感覚をどうにもできなかった。あの頃、このサイトに来ていた。自助グループにも行った。でもいないの、他人がいないの。誰もいないの。優しい言葉かけられたけども、でも中心が的外れなの。自助グループでは、初めて行って家族否定するのが怖かったし、あんたたちとは違うって言いたくて、「私には一応本音言える友人いますから」みたいなことを言った。足踏まれたりした。友人もいたけども、でもそれでも何かが違う。その友人と食事しながらも、自分の暴力願望を誰にも言えずに、どうにもできなかった。家に一人でいたときに、ああ私人殺したいって思ったの。人壊したい、あの頃はすごかった、抵抗できなそうな子とか見つけたら壊してやるって思った、壊してやりたいって思った。心から。つまり殺人願望だったんだろうね。あまりにも現実が遠くて、現実が欲しくて、私には存在するのに誰もいなくて。なのに、周りから見たら「成功例」みたいで。
 でも、父の自死でやっとわかった。それと供に自傷も他傷願望もやわらいで言ったの。でも、それでも今でも包丁見ると自分に大丈夫かな?って思うもの。
 この前のネットに殺人するとか書いた人、私は否定したくない。実行しない限りは誰も罰しないで欲しい。心の中に渦巻くものすごい思いは、それだけ傷ついてきたことなの。誰にもぶつけることができなかった子供時代の、いじめ暴力の後遺症。耳に虫入れられて笑われ続けた10歳の頃。だあれも責めたら自死すると思っていた子供時代に、人のサウンドバック役当たり前だったあの頃の私の本当の感情なの。自傷しかできなかった私。自殺か他殺かなのかもしれない。世界がどれだけ私にとって壊れやすく思えていたことか。その中で子供に良いようにされまくっていたんだ。だから、私の殺人願望を私は絶対に否定しない。それは自傷でもあったの。過去にずっと「お前は惨めで究極にきったねええ女だ」と虐げられまくって卑しめられたあの頃の私を思いおこしていた、人を傷つけたいっていう感情が出るときには必ず。
 今はもう、人を殺してやりたいなんて思わない。でも思っていた時期はあった。人がいなかったあの頃は。父が自死したのを契機に色んな思いが変化し、自分がいかにひどいいじめに、理不尽な目に遭い続けたのかをはっきり、自分の思いこそ肯定できるようになって、いじめっ子のことを否定できるようになってから、少しずつ人を殺してやりたい思いが和らいでいったの。
 今でも本当は、きっと今でも私は右の耳が昔虫を入れられた、耳が痛いの。心が痛むの。でも、私の現実や私の目が間違っていたわけではなかったことがわかり、いじめられた日々もひどいこと普通にされていた日々も現実のものとして分かった時に、自分の感情の方を肯定できたときに、私はもう分かったの、このもやもやの理由が。
 殺人願望、人を弱い人への思いっきり心壊すくらいのいじめたい思い、私が絶対に大切にしよう。感情大切に、実行は自分のためにしない。ただただそれだけ。自分の思い大切にできなかったから。 
 もう私は終わったのかもしれない、自分の研究は。
<2251> ぺあ[FB注意] ■2008年02月18日 月曜日 16時33分10秒
 どうすればいいのかなあ?
このままでいいのかなあ?こうやっていつまでも家の中にいていいのかなあ?
 そもそも私が進学した理由は、この訳の分からないもやを研究で取り除けたら、少し私に休みの時間あったら、必ずや成長できるという思いがあったから。しかも、いじめのこと、虐待のことを研究すれば、苦しんでいる子の役にも立てると心から思ったから。
 でも、父が自死して。私のもやは晴れた。私の感覚がおかしいものでも、自傷して自分を壊さないといけないものでもなんでもなかったことを分かった。
 自分の正直な思いを壊さないと、相手を打ちのめしてしまうという恐れの理由は、父の本当の姿を父に言ったら、父が心底傷つくということだったのかもしれない。父の本当の姿、父が絶対に認めたくないこと、双極性気分障害持っているよね?ということだった。でも、治るのに。それだけが父じゃないのも分かるのに。
 偏見なんだろうね。父の中にも社会的にも。双極性気分障害、鬱、統合失調症、=劣った人間がかかるものという偏見。
 私がもしも父だったらどうだった?やっぱり思うと、お父さん苦しかったねって言いたくなるのだ。生きていることの方が数倍苦しいのかもしれない。
 ねえ、もしも私がお父さんと同じ双極性気分障害だったならば、私はどうだった?どうだったのかなあ?でも、ね、オードリーヘップバーンもそうだったと聞いた。私今でも社会は偏見の塊だと思う、ほんとうに思う、思う。私は鬱っぽければ、「心配〜」とか言いながら、やっぱりちょっとの見下しを感じてしまうのだ。
 私は今、怖いの。こういう人や、心配装って近づいて私に実験モルモットのような目で見る人。
 私、ね。私ってやっぱり助けられるのに助けなかった、きったない人間なんだろうか?誰か教えて欲しい。私がどれほど苦しくても、皆周りの反応は的外れだったこと、近づけそうであの世に行ってしまった父。どうしても戻せない思い、父は二度と帰らないこと。
 でも父の自死の前兆をはっきり感じ取った私。そして心配げな顔をした私に顔を背けた父に、私は「あっそ」って思い、その後にやにやして、私って何もかも分かっているのかも、でももう母にも姉にも言わないって思ったこと。一週間後に父が自死したこと。
 私は止められたのにとめなかったんだろうか?
 あの頃、全部が私の心を逆撫でた。本音で言わないと、何かこのもやを暴けない思いで頑張った。実習でもそう、研究発表でもそう。でも、いじめの話しで泣く私に、皆「この人頭おかしい」って引いた。そして、家族もそうだった。この家っておかしいよね?そう言いたかった。言えること言ってきた。過去にいじめられていた、心が自傷して、外の世界から自分を守ってきた、でも怒りの矛先が自分に向かったおかげで、私は自傷もやめられないし、外と自分との間にいっつももやがあって、周囲が恐怖でたまらなくて、いつも自傷して外の世界と交流していたと。言った。自分の歴史を書いたの。「子供時代はどんなに周りに恵まれていると映ろうが、私はとっても寂しかった」と。でも、父の言葉「過去は変えられません」の一言。そして、どうしてこのもやがとれないのか分からずに、私はこの家で表面上の付き合いで、たとえ和気藹々としているように見えても、本当は世間話しかできない、嘘つくり笑いしかできない関係で本音は他で吐く関係か、本音でぶつかってみあうか、迫られた。ずうっと、辛い時に笑い、世間話と、世間的に「普通の子」が言うことばかりをこの家で演技のように私はしてきた。本音はいじめられるようになった10歳の頃からなかった。心は遥か遠くでぶっ飛んでいるのに、顔は笑い、嬉しそうな振り、普通の子供として成長している振り、ただただ両親を安心させるためだけの人生。
 本音は言えない、どうしても突き破れない重たい何か・・・・・
 もう、私この家で本音の交流は無理かもって思った。あの頃は、本音壊して、この家にはお金かけていただいたし、自分の要望全部叶えてくれたし、ものももらってきたから・・・もう、私のこの本音を殺そうかなって思ってた。
 「お前は恵まれている」「恵まれすぎですよ」「いい年こいてよくも親にそんなこといえるね!」「もう23ならば親に感謝しないといけない年なんだよ!!」そんなこといっぱいいっぱいいっぱい腐るほど言われた。「お金で教育も食べ物ももらってきたなら、もういいじゃねえか」と。
 本音。いえない。私が間違っているのか?どうしてこうも私は親の目にとって「普通の子」として「順調」に育っていることだけを考えて生きているのだろうか?親の安心させるためだけに生きているのだろうか?
 でも、この学校のクラスの中でのようなやり取り。誰かがその場の雰囲気でターゲットになる。そしたら、皆でにやついていじる、そんな変な空気。そして子供時代の父の期間限定の怒りと、母をあげつらう日々と、人格が変わったような時。父の背中の寂しさと。あの頃の私が精神的な奥さん役割を求められている、父の私の名前だけ「さん付け」で呼ぶこと。私だけ、変な風にかわいがること、とにかく母をあげつらいまくる、あの日々。父のサングラスと角刈りと、若者の流行を取り入れる、あの変な期間。
 私の目の方がおかしいのか?
 「こんなことでいちいち傷つくお前がおかしい」と自分の思ったことを否定されまくり、拾いたくもない石を拾わせられた小学校中学校の日々。私の目や思いの方がおかしいのだろうか?こういう自信のなさがまたいじめられたり、からかわれ役になってしまうこと。絶対に人を否定するのができないから、そう言う役割を背負って固定化してしまう恐怖。
 父が自死して、彼とうちの叔父と祖母が双極性気分障害を持っていることをはじめて知った。それで、私のこの?という思いが分かった。自死した後、数日後に分かったの。「合っていたんだ合ってた合ってたんだ」という思い、世界が自分に戻ってきたような思い。私間違っていなかったんだという思い。ずっと間違っていると思ってきた、そしてこういう感覚に漬け込まれ、いっつもいじめられてきたことも。いやだっていえなかった日々も。自分をずうっとせめて生きてきたことも。なぜああもいじめられまくったのだろうか?いじめた奴らへの怒りも湧いてきたし、今度は仕返ししてやるという喜びも出てきたんだ、そのときに。父の自死。近所の人からは父が亡くなってしまったのねということ。でも外側だけでは分からない、私はやっと楽になったの。そしてもう研究もしなくていい、教育なんかやめていい、子供嫌いなのに無理してすくおうとしなくていいって分かったの。
<2250> ぺあ[FB注意] ■2008年02月17日 日曜日 16時07分41秒
 今思っているのは、母方の祖父は、うちの父がなくなってから、弱ったということに、人の生と死を私コントロールできている、すごい力の持ち主かもっていうこと。勿論、本当に思っているわけではないけども。私の心のどこか、いじめられてぼろぼろで常にコントロールしたいと泣く子供の私が、万能感を持てる、過去の惨めで卑屈で皆にいたぶられていた私から全く他者からの評価が変わるって喜んでいる。
 ねえ?実際どうなんだろうか?
 違う。
 でもどうすればいいの?
 母の「幸せ結婚」見栄のために、母方の祖父母にも叔父にも、父の自死はいえない。いわない。でも私自身はもうはっきりいって、終わった感があるの。つらいの。こんなに頑張ったのに、はあ?途切れた。自死した。とめられたのに。何で?私は殺人したんだとも思った。助けなかった、なんかおかしいって思っていたのになんにも故意にいわなかった、自死幇助罪。きっと。そうなんだよ。実習のあのときの子供の目。先生方のあきれた目、怯えた目。目。この眼が私を追い詰め、結局父の自死をとめられなかった原因なんだ、そう思うと怖くて怖くて閉所にも変えられない場所にも、自分の支配できない場所も、逃げられない場所にももういけない。怖い。こういう状態で、田舎に帰って来いなんていわないで、ふこうものだなんていわないで、早く立ち直れ!その年でなんていわないで。
 いえないことばかり。
 でもこれでいいよって誰か私に言って。
 辛い、怖い。もう無理。
<2249> ぺあ[FB注意] ■2008年02月15日 金曜日 11時07分36秒
 いつか、自分はずるいんだっていう・・・拭え切れない思いをいつか、そっと置いて生きることはできるだろうか?
 人は、自分の分を責任取らないといけないのに、沢山の人がのしかかってきた。
 助けて〜こんなに辛いのって。子供の私に。
 元気な子ならば「知るか!」って振り切れるのに、私は、ただただ自分は「知っている、分かっている。大丈夫な子。人を助けられる子、上な子」と思い、他者は「分からない人、かわいそうな人、誰も助けてくれる人がいない人、精神ががけっぷちにいる人」って思いこんできた。
 ずっと、私は自分の歯車と世界の歯車が、かみ合わないって思ってきた。
生まれてくる時代も、環境も場所も、間違えたんだって思ってきた。
 ずっと、なぜ私がこんなにもちぐはぐだったのかが分かった。
 感情もなく、うわべだけで「友情青春時代」「悩み多き若い時代」「はしゃぐ子供時代」を「演じきった」のが私だった。
 演技。そして、年齢ごとに社会が決めた、経験するべきこと、感じるべき感情を、ただただ私は本当の私の感情を壊しながら、頭で自分に強いていた。
 父が双極性気分障害だったことを、母とで隠していたこと。そして、父の期間つきの、ものすごい「いらいら」「人格変わるくらいのとき」(流行の先端を追っていて、サングラスかけて、髪形もやくざっぽい角刈りにして、母をあげつらいまくるのだ)、皆の何にもなかったかのように振舞うこと。
 母の大声で泣いていること=私一人のときに。
 姉のいらいらと、「お前はばかだ、お前に出来るの驚き!」という見下しと、「お前は世間知らずなばかだから教えてやる」というものすごい強い助言。「ああしろこうしろ」「教職くらいは取っておけ!」「そういう態度の人にはああしろこうしろ!」。何でも私には「ああしなさい!こうしなさい!」
 年がら年中だった。
 友人との遊ぶ約束でさえ、電話していると、姉を筆頭に、母も父も私に、いや、姉だけだったかな?「時間は?場所は?」「ちゃんといいなさい。決めなさい。ばかなんだから」といわんばかり。いっつも、合理的で、どうすれば最速で、合理的に、お得な方にできるかを、私にせっついてくる。
 いじめられてから、姉と喧嘩できなくなった。
 それから、私のこの自信のなさが、姉の強い助言を常に実行していこうという思いになった。
 でも、ちぐはぐだった。ただただ私のやっていることはちぐはぐで。で、私は、自分の感情特に怒りの感情を押し壊しているから・・・そういう人間を嗅覚で鋭く感じ取る人だらけで・・・今までのその人のストレスをまた吐かれた。集団の中では「いじれる」とかいう理由で集団で笑いながら、笑われながら、私をいたぶっていた、皆。私も、笑っていた。集団にそうされる、過去の子供時代もそうだった。家族の中でも、そういう扱いしかうけてこなかった。だから、私はこうされて当然なんだって心から思っていた。
 人間はずるい。
 人を嗅ぎ分ける人間だらけだ。
 そして、そういう人は喜んで弱まっている人にぶつかる、あたる、刷毛口にする。
 そうしていつまでも私もどこまでもそういう人たちについていった。地獄のはてまで。
 ずっと、大学時代そうだった、恋愛して彼氏がほしかったのは、ただただ私の価値をあげたかった、姉や母に少しは「私も他者から大切にされる、敬意を示される人間なんだ、私みたいなばかで大切にされないような子でも、熱中してくれる人がいるんだ」って見せ付けたかったから。そして学校時代の同級生、いじめた奴らにもおんなじように思っていた。
 敬意を示してくれる人が、毎日人間扱いされなかった私にだっていますから!って、分からせたかった。
 だから、友人も恋人も欲しかった。
 でも結果、恋人は体目的。寂しさ晴らしたかっただけの人。未熟で性欲ばっかり強い人だった。私はまたもやいいように扱われていた。そしてそんな私を多分姉も母も大喜びで見るだろうなって思った。そう過去に学校の中でいじめられまくっている私をきっと、「下な存在できて万歳!」って思うように。
<2248> ぺあ[FB注意] ■2008年02月13日 水曜日 15時13分31秒
 今はいやあな気持ち。
いい気持ちはない。
 ずっとずっと、他者への絡みつきと罪悪感を私の生まれつきのせいとしか思えなかった。
 でも、24歳で父が自死してから、ようやく分かったの。
 なぜこんなに他者が心配だったのか?相手が壊れてしまうという理由で相手に本音も、自分の思っていることも、自分の思いが変わることも、相手のいう事を「違うよ」っていう事さえできなかったことも・・・・。
 いじめられて、私のせいだって思ってきた。
 でも、違った。
 こんなに心配なのも、他者に対する不安感も、私のせいじゃなかった。
 うちのお父さんは双極性気分障害だったんだ。
 そして期限付きの母への怒りぶつけタイムは、見たまんまだったんだ。合っていたんだ。私の思い過ごしじゃなかったんだ。私に対する子供たちのサウンドバックも見たまんまだったんだ。私の思い過ごしじゃなかったんだ、私ちゃんといじめられていたんだ。やっと現実を分かった。それが父の自死なんかで分かるとは・・・・・・・。
 24歳まで。
 生きるのも大変。死ぬのも大変。
 でも、社会も世間もおばかさん。
 もっと汚いのは史上最低なのは、弱い私に標的をつけて、いじめまくった奴ら。子供だから・・・許せっていわれても、許せない。耳に虫を入れては大笑いしていたあいつも許せない。ただただ、私にとっての一番の悲惨は、父の死ではありません。私の過去です。人のサウンドバックになっていたあの頃です。そして訳の分からない世界の中を生きていた家族の時間のあの頃です。家族行事を自分の思いに蓋をしてやり過ごしていたあの頃。
 父の自死なんかべっつに悲しくないです。
 はあ?って感じです。
 楽になりました。
 でも、分かった事実に、怒りと悲しみ。なぜ?いじめ。どうやってもどんなに願っても、どうやっても、終わることのなかった子供からの暴力、さげすみ、刷毛口にされてしまうこと。
 今も消えない。
 「でもさあ、結局0さんのせいじゃなあい?」一人の声を合図に、「そうそう、結局お前のせいなんだよ!」
 「でもさ一番悪いのはOさんだよ」「だよね〜」
 グループの熱気。終わりのない学校。明日も続くいじめ。そして、いじめようとうかうかしていられない空気。皆の思いつきな行動、それが一番ぐっさりくる言葉だったり、あの子達にとっては「お楽しみ時間」の私を小突きタイム、私を困らせタイムだったわけ。
 子供。学校。終わりのない、あの頃。ただただ、私は現実を把握できずに、心を自傷していくしかなかった。
 そして今になって急に他者から大切にされても、怒りしかないよ。怖かった。助けて欲しかった。怖かった、本当に今でも怖い。怖くて怖くて怖くて、ただただあの世界から飛び出したかった、逃げたかった、休みたかった。世界から休憩をしたかった。
 あのいじめから、私の夢は、「人を楽しませたい、喜ばせたい」という思いから、「休みたい、ただただ安全な場で休みたい、少しでもいいから」「夢はひきこもること」に変わった気がする。
 今、人に大切にされたくない。
 ただただあの頃のいじめの痛みを何度も感じたい。忘れたくない。どれだけの絶望があったことか。死ぬよりも怖かった。悲しかった。笑いの中で私だけ心で泣いていた。私をずうっときったねえ女だとしか思えなかった。他者の性欲も他者の怒りも暴力願望、支配欲も、私は私の中に放り込んでって思っていた、あの頃は。
<2247> ぺあ[FB注意] ■2008年02月13日 水曜日 14時59分47秒
昨日、お風呂で泣きながら、一人ごと言っていた。
実習の子らが、それから1年後に父が自死して、近所の子はそれを知っている。勿論自死とは知らないけども。
 「ひっさああん」って私の方を見て高校生くらいの子が言っていた。
ひっさああああん・・・・
 いつまでも胸に堪える。
 悲惨・・・・
 でもね、あなたたちには分からないけどもね、勿論「見せ掛けだけの幸せ演出」していたわけだから、近所の人も分からないけどね、本当に私が悲惨だったのは、私の子供時代です。
 私の子供時代、わけも分からずに、ただ学校と言う場で、暴力とストレスの的にされていたこと、そしてすべて私のせい、「生まれつき汚らしい子」「卑屈できたねええ女」そういう理由を自分につけていた、あの頃が一番悲惨だったよ。お父さんがお母さんに、ものすごい憎悪の目で見て、さげすんで、ばかにして、見下して面白がっている・・・・姉のイライラ。そして、お母さんを守ろうとしていた私。お父さんの「お前は気が利く子だ」とかいう変なかわいがりを受けていた頃のこと。父に「OO〜(私の名)助けて〜」って精神的におっかぶさってこられたあの頃。
 他者のなぜだか分からないけども、重たい重たい荷物を、背骨が折れるくらい持って、「幸せにはなってはいけない、この世にはこんなに不幸な人いるのに、お前は生きているだけでもう十分恵まれていてずるいずるいずるい至上最低に汚い女だ」っていう思い。そして、「相手が精神的に疲労して、がけに立たされて、これまで悲しいことたっくさん遭ってかわいそうで、下手したら自殺してしまうのではないか?相手は脆い」という他者に対する、過度の心配、不安感を、(当時は分からずにただただそういう思いの塊を持って他者と接していたから)持っていた、相手に遠慮し、自分の思いをとてもじゃないけども、ぶつけられない、相手が崩れて壊れるのだけを怯えきっている私に対する、暴力、ストレスの刷毛口はすごかった。
 子供って、すごいね。
 集団でのしかかってくる、あの熱気。暇だから、退屈だからこそ、する、あのいじめの熱気、雰囲気。
 渦中にいた、私は何度もずどーんずどーんと落とされた。心は、簡単に壊された。そして、怯えている私に、更に追い討ちをかけられた。相手が心配→卑屈になる→相手の世界観を壊せない(心配だから)→「いじめてOKな子」の立場に固定化される→皆で集団での熱気の帯びた小突き回し→皆本当にものすごく楽しそう→「何やってもOKな子」
 私は、暇で退屈だからこそ、「弱く見える子」をいじめる、子供を恐怖だと思う。今も。子供は残酷。だからこそ、教育が必要。
 今ならば同窓会での集まりのときに「仲良かったから、プレで飲みに行こう」とか誘われたけども、「え・・・」って言葉濁したら「ああ、用事ある?大丈夫だよ。。。」だなんて気を使えるかつての子供たち。
 私は人間扱いされたことはなかったのに。今でも大人なだけで、一応、他人に大切にされる。こんな日がくるなんて、いじめられていた頃も中学生時代も高校時代もくるとは思わなかった。
 いるだけで、「ああしなさい、こうしなさい」「あなたは暗いです」「もっと積極的になりましょう」「おとなしいです」「意見言いましょう」「自信持ちましょう」の連呼。
 「大人になればしゃべれるようになりますよ」とか。いわれていたし。事ある毎に「おとなしい・・・・だからしゃべって少しは積極的になってよかったあ」とかずうっといわれていた。
 そしていじめっ子には「お前がかわいいからこんなことするんだ」「おとなしいからだよ!」「嫌なら言えよ!」「いわないからこっちはつけあげるんだ」とかいわれたい放題だったな。
 もう、思い出すのも悲しくなるけども。
 子供時代は地獄。
 いじめの世界。
 理屈もない、ただなんとなくでいじめるあいつらは本当に鋭くて、容赦なくて恐怖。
 理由もない、退屈な時間の中で、のし上がる人だけのし上がる、一つの価値観の中のクラス。
 集団内での、見えない暴力。
 「はあ?こんなことくらいで・・・」「いじめたつもりありません」「こんなことごときで」「からかっていただけです」「こんなことくらいで傷ついていたら社会でやっていけません」
 ねえ?社会でやってけますよ。むしろ、そんな社会ありませんから。大人になれば名誉毀損で訴えられますから。
 子供は子供の世界は、やっぱり怖い。学校、クラス。
<2246> ぺあ[FB注意] ■2008年02月12日 火曜日 17時52分57秒
神様・・・このままでいいですか?
また社会から、視線で、避けられるかな?また隔離されてしまうかしら?
また、あいつやっべえやつって皆に見られるね。
 実習がそうだったから。
 だからこそ、父の自死の前兆も見逃したわけだから。
 父の自死か。
 その為に生きてきたのか?
 あっさり死んじゃったよ。
 嘘のように思える、今までのこと、家族との記憶が。夢の中の出来事だった気がするよ。
 社会から落っこちたのかもしれないな。でも、助けろって無理ですって言いたいの。無理だから。
 頑張ったこと、でも助けられなかったこと。
 誰も知らない。
 大学時代の友人もきっと、「悩みごとの多い人」「うんざりする人」としか私のこと思っていないし。家族の不平ばっかり言って来た私だから、ごめんなさいって謝り続けた私だから、「家族のこといい年して大切にもできない、死んではじめて親のありがたみに気がついたばかな人」としか思われていないだろう。
 でも、そうじゃないの。
 ずっと子供時代から苦しかったの。
 人の心が壊れやすくて、自分の素直な思いを壊して、相手の気に入る、丁度良い範囲に収めることだけに頑張ってきた子供時代なの。そして、怒れない私に、味をしめた子供たちに学校でそれこそ「何やっても良い女」として扱われ、子供だからもう、歯止めもきかずにいじめられまくったの。
 ずっと、鬱のように私見えたんじゃないかな。常に他者から身を守るために自傷していたから。そうやって自分を守ってきたの。
 でも、分からなくて苦しくて。「助けて」という絡みつく視線(父からの)と、過去の家族の悲しそうな背中と、いじめられた記憶と、本音の交流のない家族、仲良しさんを演じて家族ごっこしている家族の中で、心までごまかされようとしていた。自分を責めるしかなかった。「こんなに良い家族に恵まれているのに、お金もらっているのに、お前は何が不満なんだ!この親不孝者!」って自分を責めた。自分の思うこと、見たまんまの現実、現実に接して感じること、すべて否定するしかなかった。
 そんなことをしている人に、人は強いの。そんなことしている私に、またもや「こいつ何やってもOK」って思う人が近づいては、またストレスの刷毛口、笑い者、グループの中で「いじり役」「皆の慰め物」だった。そして、セクハラもされた。寂しそうな人に性的な刷毛口にされそうにもなった。
 人はずるいね。

 私、強くなってから過去のバイト先に行ったの。そしたらそこの上司、なんか、私のことおどおどして見ているの。今までのことが演技だって分かってのかしら?なんか、いきなり弱まっているの。
 人なんてそういうものなのかもしれないな。
 弱い人には強く、強い人にはおどおど。

 人は人を見分けるのが本当に上手だね。
 自分の現実に自信なくて、自傷傾向にあるときには、そういう人ばかりに遭っていたよ。
 それかもしくは親切顔で近づく「ああしなさいこうしなさい」の先生面な(お前はそんなに偉いのか?)男や女にね。「できないから、ああしなさい、こうしなさい、失敗するのを防いでやるためだよ」なんていってね。
 許せないね。
 これもまたコントロール欲なのね。
<2245> ぺあ[FB注意] ■2008年02月12日 火曜日 17時38分37秒
 もう、人を怖がることはなくなった。
いじめられる心配ももうなくなった。
 でも、いじめたい思いはあるんだ。人を壊してやりたい。弱い人を見ると、前はすごかった、怒り、壊して一生消えない傷を残して、いきながら心は死んだ人にさせたかった。
 つまりそれって私がされたことなのかもしれない。
 いきながら、心は恐怖で飛んでいた。
 暴力の連鎖。
 弱い私をまずはもう、壊すのはやめること。いじめたい、それ以上のマグマ以上の怒り憤り、くやしさ、悲しさ恥、全部ひっくるめて大切にできたらどんなにいいだろうか?
 それは私の思いだから。いじめられてきた思いそのものなんだから。相手は本当は、あの子に向けないといけなかったんだよね?もう10年以上前のことだけども。
 やまない。
 とまらない。
 いじめ。
 怖かった。
 本当は逃げたかった。世界から落っこちたかった。ただただ逃げたかった、学校から。教育機関から。怖かった。あの人間関係は恐怖そのものだったよ。
 神様、分かりたい。何だったのか?神様、分からない。この世にはものすごい暴力の数々があるのに、なぜ人は「遭う人」と「遭わない人」がいるのか?苦しむ人と全く何にも思わず生きる人がいるのか分からない。
 私は、どうしたらいいんだろうか?
 私は、自傷をやめて、怒りを大切にしたら、今度はどこに進めばいいの?
 世間ってつめたい。家にひきこもりの私に、「父親なくしてかわいそうな子」から今度は避ける目。実習の子の「ひっさああん」っていう声も傷ついた。目のために生きているわけでもないし、そう見えることとそうであることは違う。人は暇な頭でその人の思いたいようにしか思わない。でも、私はそうは思っていても怖い、悲しい、人の思い通りに行きたい。
 母がやっぱり怖い。私のまんまでいることは母の思い通りにはならないこと、それが怖い。
 親戚もいや。
 父の自死を知っているのは、姉と母と私だけ。何にも知らない母の実家の叔父に「結婚も遅そうだし・・・うちの娘のほうがはやそうだし。早く外に出ろ」みたいなことを言われるのも嫌でいやでしょうがない。
 そうならないといけない気もしてくる。
 また相手の世界観を覆してはいけないという思いから。相手が壊れないか心配という思い込みから。ずっと慣れ親しんできた発想であり、世界の見方であり、それであったから、子供にいらつかれていじめられてきたことでもあるんだけども。
<2244> ぺあ[FB注意] ■2008年02月10日 日曜日 12時48分24秒
 昨日、頑張って、何か乗り物に乗ろうとした。
また、涙がこぼれそうになってきた。
 「どこまで私は一体どこまで頑張ればいいのよおおおお!!!!」怒り。ただそれだけ。
 結局、うちのくそじじいはいなくなったんだ。
 もう、何もかもいらない!
 甘えていた、私は、依存していた父に。
 もしも、私が逆だったら私も子供にいつまでもお世話係みたいな風にされて甘えかかられるのは嫌だ。
 でも、一体なんなんだろう?この世は。もう何回も思った。何が、自殺はよくないだ!はああああ?あんなに、とめようともがいていた、私に、皆「この人どこか頭おかしい」っていう目でしか見てくれなかった。いいよね。何にも考えないで、気の強い女とか。実習でのあきれた気の強そうな、人を傷つけても私頑張ってますからオーラで人を傷つけていることさえ気がつかないおばさんとか、そんな先生のあきれた私を見る目。
 姉の、うざったいおせっかい、あいつがどんなに私を思っていようが、関係ない、ただただ「ああしなさいこうしなさい、あんたは何にもできないんだから」「教職くらいとれ!大学の授業なんかよりもずうっとこの1ヶ月のほうが役に立つから」いつもいつも自分の世界をすべて一般化して、「何にも分かっていない妹、世間知らずな妹」ってあんたが考える私に押し付けやがって!!!!
 何が、今まで散々うちの家族のことなんか見向きもしなかったくせに、週末はテニスと恋人ライフで、土日何やってんの?という声にヒステリーおこしていたくせに、今更「私は家族のために死んでもいいとも思っていた」だとか、「友達いないけどさああ、いなくてもさあ、家族さえいればいいからああ」なんていいやがって。はあああああ?
 ばかじゃん。きもい、しね。
 おじいちゃんのこと一切遊びにも話しにも行かなくて、私はよく言っていたけども、死んだときに、「死に際にいけなくて、一人で死なせてしまってごめんなさい」だああああ?
 はああああ?
 おまえ調子良すぎるんだよ!まあ、自分の言ったことも言われたことも覚えていないオオバカだけどな。
 で、何?私さ〜中国出張行けば、中国人空港にいる人みんな私のこと見て振り返るだとか、空港職員でさえ「あれ女優じゃない?」って振り返るだとか、言っていた。私おおもて。みたいに。
 はああああああ。
 このばか姉。
 まあ、よくも「素晴らしい世間で通っている私のアドバイス」「ばかな妹に伝授」みたいなことばかりやってきたよね。
 なんか、今更・・・・・はあああああ・・・・・・
 何が実習いけだよ!お前に学校でいじめられまくって、いつもなんか分からないけども同級生について友人について、責任、不幸のものを私のせいだと思わされて背負わされている私のこの感覚、いじめから身を守るためにつくった膜の存在も知らない、あなたが「ばかな妹、世間知らずのおおばかな妹」へのすっばらしい助言ありがとうよ。
 は!自死しちゃってんの、てめえのせいだよ。結婚式なんか中止になってよかったね〜ばかだからな、自死してんの、ざまあああああ、ラッキー、良かったジャン、しんで、父親しんで、よかったじゃん、お前良かった、お前の能無しが良く分かって、ほんと良かった、ラッキー自死してんの、ばあああああか、お前、のせいだよ、お前のせいで死んだんだ、お前も後追えよ。
 (私こんなに怒っているんだ・・・・姉に)ずっとずっとずっと彼女の「アドバイス」を聞かされてきた。
 「できる私」から、「できないばか妹に教えてやっている」っていう感じで。
 そのたびに、確かに「いいことも」あった。アドバイスにそってね。でも、実習もそう、他のこともそう。アドバイスに「かわいそうだから」従った部分も多かった。私のこの他者は脆い、精神的な危機状態にいるという、他者への不信感から、くる、不安、心配・・・・姉にもまた思っていた。だから、「私のダメさぶりをもっと見せないと彼女は倒れる」と思って、ただ遠慮した、そして確かに姉は世間に通用しているという思いとともに姉のことを聞いた。姉のアドバイスこそ正解と思っていた。
 そして、沢山の悲しい結果になったり、ひどい結果になったりしたことは、姉のせいにしかできないよ。
 もう、聞かなくてもいいですよね?
 でも、姉のせいで、実習に行ったのかと思うと、ただただ私は父の自死をもう見逃すしかなかったとしかいいようがない。
 おかしいおかしいと思い続けたのに、それを言い続けたのに、私のことを「変な人」って見る多くの目、勿論家族も入っていた。
 言えない。
 でも言えそうだったあの日、もう知らない!って飛び出した私。笑っていたし、この家族におかしいことが起きるだろうとももう心から分かったの、
一週間後に父の自死を聞いた。
 姉の「今までひどいこと言っちゃってごめん」だとか、いじめの耳にありをいれられた私の右耳をなでてきた。
 うざかった。一言で言えば、本当に気持ちわるくて嫌だった。
 そんなこというなら、何でひどいこと言ってきたの???
 あいつのやることは、確かに助かるけども、助言も含めて、うざいことも多い。
 折り合いつけていきてもいい。
 でもその前に私は父親の自死を自分のせいと思わなく、他者のせいとも思わなく、ただただこの家の「高学歴、いい企業まっしぐら、競争だけの兄弟関係」と祖母と叔父の躁鬱、双極性気分障害を理解して、そして、心が無罪放免になって、そして、受入れること。
 とめられる命だとか、言わないで欲しい。防げる事故だとか。無理です。人間関係作ってこの社会で生きていくならば、今の社会ならば、無理です。父の自死をどうとめればいいんですか?
おかしいおかしい言ったよ。でも、母も父が嫌がるから絶対に気分障害だとか口を割ることはなかった。そして父はそういう目で見るなあ!と母に怒鳴った、怒った。自己暗示が怖かったのかもしれない、それはそうだよね。別に双極性気分障害だけが、父の自我じゃないもの。でもそう見られる、それが今の社会。
 おかしい・・・のになぜ?
 この思いしかなかった。
 ただただ世間に「うまくいっているように見せる」ことばかりに磨きをかけるようになっていた。それしかなかった。
 でも、苦しかった。
 助けてという目も感じた。父からの。
 私は、家族の中ではどんなに世間話はできても、いえない本音があって。
 もう、それを言うために、言えないのも私のせいだと思った。
 そして、いえなかった場所、実習での学校、他者、研究の場で言ってきた。
 皆したことはただ一つ「こいつ頭おかしい人かも」という目。引いている目。
 その目に、私はただただ、しっくりこないいつも何も言えない、この重苦しさを、いつかすっきりさせたいしかなかった。
 でも、すっきりしたのは、父が自死して、彼が双極性気分障害だったって知ってから。 
 ほんと、悲劇でこれで立派なACに私もなれました〜。うける。ばかじぇねえええの。何にも。何が自殺をとめようだよ!ふyざけんなよ。お前らになにがわかる。できねえんだよ。どれだけの思いを持ってきたと思う?精神的な疾患がある人、老人、子供、病人、命が消える間際の人の声は、聞かれない。聞こうともされない。普通に生きて、社会でどうにか順応している人には、今の社会ではもう、聞けないのかもしれない。聞こうとすれば、それこそ戦い、他者の好奇な視線に晒されること覚悟の戦い。
 聞かれない。
 聞かれない人に父はなりたくなかったのかもしれない。そういう人って決め付けられる恐怖は私もよく分かるから。
 声なき声を持つ人に誰も耳を傾けない。
私もできなかった。できそうで、でもそうするには本当に戦いで、そして私はぎりぎりまで戦って、戦って、その後、今までのことに比較したら楽だっただろうに・・・・・私は降参し、あきらめ、意地を張って、もう戻らずに、あきらめて、相手を罵った。自死か。死んだね。うちのあのじじい。早くしねよ。
 ずっと、お葬式で私、高校時代の私と父との繰り返ししているような思いだった。どんなに、お願い本音できて、お願い、応えてという私に、どこまでも背を向け続けて、それは恐ろしい石以上の重たいものを持つ、もので、私は絶対に応えてもらえない。
 それが、ただただ時間経過した後に繰り返されただけ。今度は、もう父はお棺の中にいたけども。現世とあの世で同じことの繰り返し。ただただ、怒り、ばかjyねええええの、でももう向けられない怒りをもつしかない、というお別れだった。父は変わらないただただ、父の顔見ながら思った。彼はどんなに死だろうがなんだろうがきても、変わらない。とてつもない、頑固さと、変わらない父、ただそれだけだった。
<2243> ぺあ[FB注意] ■2008年02月07日 木曜日 11時13分56秒
 やっぱり、電車とか、絶対に周りの人に合わせて、止められないもの、乗れない。とめられないものに乗れない。周りに頭おかしいってちょっとでも思われる場所に行けない・・・・。だから、電車の中でこの間は乗ってみたけども、泣けて泣けてしょうがなくて、父の事だけじゃない、何も分からずにいっつも「弱い」って言われ続けいじめられまくった、人の子供のストレスの刷毛口、ゴミ箱のようになっていた私・・・・そして私も「弱いから、自分は生まれつき人の幸せを吸っているきったないきったないきったないきったない女だから、子供のように直感で生きる子の嗅覚でわかってしまうんだ」って心から思っていた。子供は本当にすぐに嗅覚のようにして、私の中の「卑屈さ」を見抜き、良い様に扱った。
 それを私は中学、高校に行ってからも、いや大学に行っても、いつも「自分のせい」と「私に起こったことは普通の人ならば素通りできるところを私は汚いし神経質女だから、いつまでも気にするんだ」って兎に角自分のせいとしか思えなかった。
 そういう私に次々と多くの人が(精神的に)覆いかぶさってきた。目をつけられては、セクハラにもいっつもあってきた。「お前が言わないから」って言われたり・・・(言えよ!」って怒鳴られたり。
 外人にも、付き合って、セックスしてって迫られた。
 嗅覚なんだろうね。人ってずるいね。せめて、私はそういうことしたくないけども、私の中の今まで溜めてきた自分にしか向けられなかった、怒り、訳の分からなさが、今充満しているんだ。怖いの。何もかも。父のことも。とめられない運命も。生きていることも。死ぬことも、本当は怖い。
<2242> ぺあ[FB注意] ■2008年02月07日 木曜日 11時02分08秒
 もう、学校から解き放たれたい。もう、もう、もう背負う人生を終わりにしたい。
 いつも、「かわいそうな」人を救おうとさせられてきた。だって、その人がいつもがけっぷちにいて、私にだけに助けを求めている気がした。
 でも、それはただただ私の父親だっただけなのだ。私が物心つく頃から、父は「双極性気分障害」と「仕事依存」。
 でも、やっかいなことに、このことは隠されていた。
 でも、隠すなら隠すでも、いいけど、じゃあどうして「OOならわかってくれる?」っていう期待の視線できたのよ!!!!!!!

 ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、自分の力をだすこと、能力発揮することはいけないことなんだtって思ってきた。世間から外されるって思ってきた。そして正しすぎる私を前に一生立ち直れなくなる人が出るとも思った。遠慮して生きるべきだ、お前は生きているだけで人の幸せを取るずるいずるいずるいきったない人間なんだ、そして女の子たちの嫉妬「大人の歓心を買うのが上手」な私、世渡り上手いのもずるいこと、計算するのもずるいことだと思わされてきた。
 だから、わざと実習でも担任教員と喧嘩した。
 いつも過去のいじめっ子の目を楽しげにさせるために、この年になってもいじめっ子は消えてはくれない。あのときのまんま・・・・・
 「お前が死んだときの歌〜」
「お前はずるいんだよ」
 女の子に囲まれること。
 そして、実習でのさげすみの目。
 本当は子供がすごく怖いのに。頑張って、救うためにいたこと。いつも、幸せになっちゃいけない、私はただでさえずるい、人の幸せを吸って、不幸そうなお父さんお母さんおねえちゃんの下で、人の幸せを吸って生きているきったない、幸せにはなってはいけない、我慢しないといけないと思って生きた。

 もう、今でも学校教育の研究なんかしているけども、もう私とかれたいな。もう、不幸の人のために奔走して、自分を責めるのと優越感に浸るのはやめたい。ただただ自分で背負う部分をほおっても、人を助けないとって心の底から思わされてきた。
 今でも、私のせいだ私のせいだって、人の不幸をいっつも背骨が折れるくらい心は背負っている。関係ないのに、できない。そして、それはいつも学校と言う風景の中。実習でもそう。私のせいで、きっとあの子は自殺したかもしれない。心の傷を受けたかもしれない。先生は孤立して死んで、奥さんともども路頭に迷っているかもしれない・・・・・・そんな想像しかできない。現実のように想像する。そして、次に来るのは、実習なんか行かなければ父を自死から助けられた絶対にっていうう思う。これは現実なのにね。あの子供たちの一斉の視線さえ浴びなければ確かに私は父をとめられていた。
 あいつらのせい、全部。私の父を殺したのは全部教育実習の担当教員と子供たちのせい、全部。そして何にも役にも立ってくれなかった元私の担任。大学の教授。うそつき。偽善者!何が、Sさんはすごいよ〜ここに呼べばいいじゃんだよ!このおかませんこうが!
<2241> ぺあ[FB注意] ■2008年02月06日 水曜日 12時48分26秒
 今でも怖い。
電車が怖い。もう決まっている運命に乗り合わせてしまうのが、もう逃げられるのができない事が怖くてしょうがない。実は、父がいなくなる少し前から、姉が不安障害になり、私にパニック障害と基本的に同じなんだと聞かせらた。そのときから私の中で、電車の中でぱにくるのは、Okなのかもってどこかで思った気がする。そして父に反抗したかった社会人一年目の夏に祖父の1回忌行かない!って反抗した8月13日だった。当日、ドタキャン。そしたら父に「あっそ」って言われたの。その時世界がぐるんぐるん回った。「あっそ」だって。そして、私はこのもやもやとどうやっても世界に飛び出せない自分の周りの膜をひっぱがそうと懸命だったでも、どんなにしてもできない、過去のいじめの研究しても大人としてがっこうへ実習へ行っても、何やっても出ない、出られない・・・・父に反抗することは、研究室の教授の「あなた自分で家族の関係変えなさいよ。先輩で子供時代虐待受けていた人がいたけど、彼女は自分でお姉さんとお母さんとの関係を変えたんだよ?」っていわれた。
 弱っていた私はその通りだと思った。
 反抗すること=出られる。
 「あっそ」
 父の声。もう実習があってから、私はこの近所に帰りづらくなっていた。テレビ放送で校内のね、「過去の人間関係は友人好きじゃなかった、でも今色んな世界知って幸せです」って私全校生徒の前で言ったの。そしたら、全校生徒中の「頭おかしい人」という子供のぶしつけな目。怖かった、ただただ、あの引いた目、おかしな人を見る目、笑う目・・・・中学生全員が怖かった。
 そういったら私は少しは幸せになれるかな、少しはこの訳の分からない膜から出られるかなあって思ったの。でも出られなかった、ただただ、人からものすごい目とあきれた先生方の顔、担当教員の私への意識乖離するくらいの怒声しか待っていてくれなかった。
 ずっとずうっとずっとずっとずっとずっと、ただただいじめられる、なぜかいじめられる、人の刷毛口になってしまう、自分。
 そしていつしか自分の中にいじめっ子を入れてしまったことで、世界と自分とに距離があいて、何もかも信じられなくなってしまったこと・・・・家での不幸そうな人たちのため息と私への期待の目・・・・・

 ずっとずっと「がんばる」ことで何かいつか、できるはずって思ってきた。

 でも、何やってもできない。父にでさえ、「あいつおかしくなった」って母に言ったらしい。その時、父が躁鬱だとも知らなかったし、自死する前だったけども、「お前だろうが!」って私思ったのよ。
 父が自死したのは、姉の結婚式の一週間前。でも私も限界だった。姉なんか死ぬほど嫌いだったし。でも嬉しそうな顔を実妹だからしないといけない。母の「幸せ像」を実家の母親家族に見せたい、見栄を私ものすごく汲んでいた。ほんとは地獄だったけども。お金には不自由しないけども、いつもいつも自死しそうな精神不安定な父を心配し、父の怒りが母に向かわないように必死でなだめて笑わせている、学校では人が自死するのが怖くて強くいえないからいじめられ、ストレスの刷毛口とバッシングされまくっている私。
 手首にぶつけようって思った。本当はもう新幹線も乗れないくらいの恐怖だった。家族には嘘顔見せないといけない。でも確かにお金には不自由しないし、何でも頼めばやってくれた本当に贅沢だったかもしれない、休みには旅行にも連れて行ってくれる・・・・・「いい子供時代」でした。そう自分に思いっきり死ぬほど私は強いた。友人だけじゃない、全員に私は「恵まれている」って言われ続けた。で、私もそう思わせようと、かすかな違和感を壊して思っていた。
 でも、でも、いつも本当は世界と自分の間には膜がはっていて、私はそのままの私では生きられなかった。
 姉の結婚式で新幹線に乗る前に私は隠れたトイレで手首に自分のもやもやいかりすべてをぶつけるつもりだった。
 そして、家族の前親戚の前では嘘顔で嬉しそうな顔、周りの求める顔を演技するつもりだった。
 もう私自身も限界だった。
 一週間前に父が首で自分を締めた。そして朝10時に出て父を見た母が発見した。血がいっぱい流れていたそうだ。で、警察がきた。そして司法解剖されて、そのまま葬式は姉が全部取り仕切った。私はただただ結婚式これで行かないで済んだって心の底から思った。
 うそつき家族。
 今でも母は父の自死を実家にはいえない。「私は幸せな結婚したと思われていたい、旦那は立派な人だった(大企業を出ていて、しかも再就職もまた大企業だし、大学も一流だから)と死ぬまで思って欲しいんだ」らしい。
 こういうことだった。
 それでも私はうつ病でパニックでお薬飲まないといけないんだろうか?前に父の自死の前に私自分がどうしても自傷傾向にあったし、膜が取れてくれないから、クリニックにいったら「精神的な病気は無い、でも子供時代から神経過敏だったようだね。パキシルで気持ちやわらかくしてみたら?友達もっと増えるよ」って言われた。
 電車にもう乗りたくないって思って今ひきこもっているけども、この間クリニックいったら、すごい私を見下すような探るような先生で、しかも私の父の事も聞いてきて、そんですぐに薬出してきた。SSRIと抗不安薬だった。はああ・・・・私、やっぱり未だに乗りたくなくって・・・・出て行きたくなくって・・・・・・。私、神経過敏じゃなかったじゃないですか!父のことものすごい過敏に気がついていたじゃないですか?それでも人の自死をとめられるなんてもう思いたくない。自殺反対だとか簡単に言わないで欲しい。生きるのがそれだけ大変なんだし。母は父が自死を未遂して、寝たきりにならなくって良かったああって言っていた。悲しかった。私の母親もただただ見栄なんだろうか?父は自死を完遂できる人だって言っていた。確実に。

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