心の持ち方、というのは日に日に変わるので、それって躁鬱っていうものかしら、とも思うのだけれど,実際は自分が誰とも関われないことへの恐怖からなのだとおもう。それでもいっぱしに何かになろうとしているんだから、怖い。何か、というのはなろうではなくて、ならなければ、に近い。私はそれで幸福ではないし、でも色んな心の葛藤を誰かにおしつけるわけにもいかない。抱きしめてくれれば全てが解決するのにと安易に思ってしまう自分がいる。ジショウ行為だとか、キョショクだとか、そういうことにたやすくなっている。ヤクブツとかも。でも、それがなんにも解決にならないことも知ってる。心にはてがあるものは、世界の果てにいかねばならぬ、という文を、いつも心に抱えている。そうだ、果てにいきさえすればいいのだ、と。でも地球は丸いので、どこにも果てがみつからない。いっそサバンナでもいって地平線でもながめていたら、果てがみつかるのかな、とも思う。今はなにを本気でやればいいのか。何を求めて生きたらいいのかわからない。それでも生きているのだから社会に出なくては行けないし、生きているのだから社会を観じなくては行けない。活きているということでは、まったく無意味な自分だとしても。心の中は秘密裏だな、とつくづく思う。誰にも悟られてはいけないし、普通な顔をして電車に乗り、買い物をして、そしてテレビをみる。でも心の中では果てを探している。もう、どこへも、果ていがいどこへも行きたくはないということに、誰も認めてくれないから。もし。一緒に果てにいきませんかという誘いがあったなら、それは多分果てではなだろうから、断わるだろうけれど、←えてしてこう言う誘いにろくなものはない。心の果てを知っている人に聞きたい。あなたが果てを見出しているのはなんなのか。私は誰にでも優しい。誰にでも心を開かない。それは果てがどうしても抜けないからだ。共有できる果てなどない、とかんじているから。衝動、というのがでも、一番怖い。そこには闇があるから。弱くなると闇が近づいてくる。また、誰にも話しては行けない話がでてしまいました。いきつく果てしのない物語になってしまいました。でも、思うこと。世界に果てがないのなら。わたしは何恐れることなく明日を迎えられるのに。
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