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私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.101
メッセージ数:2020件

<2020> ぺあ(FB注意) ■2007年10月28日 日曜日 01時00分11秒
お父さんがどうであれ自分の人生を生きよう。うちのお父さん分かるよ。お父さんがどんな事思ってるかさ。人はいつか必ず死ぬ。皆なにがしかあってあるから動機もあっていろ〜んな事してるんだよね。表面しか見えないから分からないけど。わたしははっきり言って今でも自分を上から見るようにしていじめに自分でさえ荷担してやれやれって自分いじめしていたあのころの、かいりした怒りや悲しみや怖い気持ち素直な思いたぶんすごい気がつかないけど憎悪としてある気がする。人を殺したくなるくらい。それを許して認めて生きるんだ。人殺してやりたい。無力な人子供ねらって心の力殺して暴力振るわれ人生送らせてやりたい。支配して逃げられずその人の現実の世界の人間関係からは巧妙に見えないようにまさに「透明化」させて。見るもの聞くもの全部否定しいじめて見るもの聞くもの嘘だよばっかじゃねえのってそいつと現実世界を切り離してそいつを孤立させたい。現実認識をゆがませて自信なくさせるの。私がされてきた事だから。正直な思い書いた。いいの。あるから。いいの。そんな思い私書いて生き延びてきた。いいのいいんだよ、そのくらいの怒りを持っていて当たり前だ。許してあげるの。マグマのようなもって行き場のない怒り。私はエネルギーってきっと人は良い方向にも悪い方向にも使えると思う。だから私はエネルギーを大切にするの。こんな事書いて誰かが弱い人ねらったらどうしようとか私のせい?とか心配もある。でも私は私のめっためったの壊したい感情はこの生育過程で持ってきたものだから、たとえ周りが私をどう見ようとも、私は弱い部分に漬け込まれどれだけ孤独だったか。無理はしない。でも確かにあるこの弱いもの殺してやりたい感情は私のもので。私にとって筋の通った持つしかなかった持たされてきた感情なの。負けない。周りの勝手な意見には負けない。ある感情だから。あっていいよ。どれほど苦しかったか分かりますか?私は誰かの魂を殺す方法分かるよ。でもそんな破壊してやりたい思いをくい止めてくれているのは家族での旅行で泊まった旅館のにおい、大好きな友達だった犬、どんな私であっても優しくしてくれた人たち。ある感情どんな感情でさえ私の大切なもんだからさ。成り立たせてくれる。いつか全部抱きしめたらまた全体で私成長できると思う。こんな思い、反社会的な思い抱えている人がいたら、それOKだよって全部抱きしめてあげて欲しい。いいの。当たり前だよ持って
<2019> ぺあ(FB注意) ■2007年10月27日 土曜日 09時53分18秒
皆から避難されると思った。役目ではない私から家族は皆引いていくと思った。いじめられても私は家族ののしかかりを背負い、「問題ない子」なふりして高校時代までずうっと演技して生きた。そうして24でお父さん自死しちゃった、躁鬱だったって初めて知らされた。それだけ。頑張り抜いたけどがんばって過去の意味の分からなかったこと解明しようと大学時代自分の気持ち無視して勇気を意識飛ぶくらい出してきたけど、私は父の自死最後とめなかった。変な空気を最後は飛び壊せなかった、頑張り続けたあの出来事は傷として残って今やっと事実知って、泣けないこの家で書いてる。私この家から精神的にもうでたい。なのに未だに父の自死姿をみた母と姉に罪悪感を持ち(だっておかしいって感じていたのに私は言わなかった笑って見ていた何が起きても見てやろうっていう凄みみたいな覚悟していたのよそれくらい一週間前変だって思ったの)心配でたまらない。いつもいつもこうやって生きるしかないのかな?父の自死をとめなかった私のせいなんかなあ?
<2018> ぺあ(FB注意) ■2007年10月27日 土曜日 09時44分06秒
ホームレス状態だった、私の心は。誰とも心からはなせない。特に家族には。私は父も母も彼らの関係も心配でたまらなかった。家離れた時もそれが心配だった。父は明らかに母を憎しみの目でみていたしいっつもいらついていた。私はそれを和らげて笑いで和ませる役。私はこの家族こそ当たり障りない世間一般で太鼓判を押された話題しか振りまけなかった。寂しかった。家にいても格好付けるだけ。大学もそうだった。彼氏くらい親密な人がいないと認めてもらえない、あまりに他者と心が離れていて体だけでも誰かと親密にならなければ生きられないくらいだった。寂しかった。フリしかない子供時代だった。印象操作しかなかった。こう見える中身はなくとも、こう見てもらう…それだけ。離れていた。たとえお金もらっても心はホームレスみたいだった。人はいても、書くのはもうつらくなってきたけど、ぴったり言えるのは、中学生のホームレス心がね、ほんとそんな感じ。ただただ誰とも気持ち通い合わせた会話ができない、格好悪い姿も見せられない、格好付けるだけ、いつも家族にも「見せて」彼らがどう思うかまで責任とって肩いからせて(表向きはふつうなふりして問題ないふりする)生きていた。真剣な姿も本音もこの家族の前では鼻で笑われ吹き飛んでしまう。つまりそんなのないの。寂しい寂しい家族は格好付けて、しかも家族の中で姉より下でいて姉のプライドを傷つけないよう遠慮して自分出さない場所。自分出せない場所。母よりもからかわれ役に甘んじて母を満足させないていけない自分の能力なんてのばせない場所。父の母に向けられた怒りや憎悪を和らげてお父さんを一人にしない役。私が学校で笑われながら誰一人真剣ではなく笑いながら、「冗談だよ〜ただかわいがってるだけ。いやって言わないからやってんだよ!まじめだな〜全部遊んでるだけふざけてるだけ」こんな言葉の下つねられ椅子を下げられ、いやなことされ、足引っかけられ気まぐれにストレスをぶつけられいたずらされ耳に蟻まで入れられた。こんないじめに小学校3年あたりから5年あたりまでされていたけど、誰かに相談できるはずもなかった。私にはだあれもだあれもいなかった。ただ一人で耐えて問題なく笑うだけ。いじめられるような人間未満な惨めで汚らしい子、そう私は固定された目でこれから事あるごとに母に話題のネタにされるのも驚いた姉や父の罰悪そうなにやにや笑いも見たくなかった。母は弱いからって漬け込むと思った。
<2017> ぺあ(FB注意) ■2007年10月27日 土曜日 09時21分22秒
泣きそう、今。でも泣けない。この家では泣けない。母しかいないけど私は泣けない。教育実習でのあの一斉にされた避難(こんな感じ)の視線、担当教師の怒りのオーラと周りの子がそれに感づいて一斉に私から引いていったあの最後の日。今でも悲しい。怖い。それなのにあの先生あれから鬱になっていたらどうしよう?だとか心配している私。あの先生休職したら私のせい?自殺したら私のせいかもって。私を標的に小学校時代いじめていた子(甘えていたともいえる)のお兄さんが早くに亡くなってお母さんが車で崖から飛び降りたって聞いた。関わる人が自殺者だらけな気がして。私は他者の責任背負って生きざるを得なかった。見ない振りの母と気分障害を隠したい父そのくせ私には「お前は分かってくれる?」みたいな目で期待して。私は何か変って分かっていた。いつも大の大人の責任おわされて生きてきた。もちろん子供にも。あの担当教員自殺していたらどうしよう?怖いよ怖いよ私のせいであの学校でうまくいっていなかったらどうしよう?どうしたらいいの?もう5年も前なのに怖くてたまらない。怖い。私のせいなんだ。全部。私が怒らせたから。私があの先生の怒り煽ったから。私が何もかも自殺したら私のせい。仕事やめてお金に困っていたら全部私の責任なんだ。全部全部全部全部私のせい。実習で担当した子供私のこと「ひそひそ」みていたもん。きっと担当教員自殺したんだ。で私避難していたんだ。きっともともと肩にすんごい力入っていた人だったから鬱で休職したんだ。私のせい私も荷担した?子供がきっとあいつに避難の目向けたんだ。だから鬱で、で子供は私のせいだと非難したんだ。これは全部私の小さな頃からこのいえではぐくんできた、他者の悲しみ苦しみを私が背負いきれないのに背負って人の責任おっかぶさって非難を甘えも甘んじて受容する性格からでた、想像の話し。現実は私が思うよりひどくないし担当教員は元気だと思う。でも現実は私の父親が自死した。これは現実。別に実習が原因だとは思わないよ、してやりたいけど。子供の頃から、変だって感じていたから、誰もふれたがらなかったけど。でも実習に行ってなかったらあんなに一斉に非難の目避難の目に晒されなかったら、あのとき父に「お父さん変だよ!」ってそんな事いえる空気なくても、でも今までの場違いでも勇気出して言いたくない過去のいじめとか言えたんだから、言えたかもしれない。もう少しだったのに。躁鬱を初めて知った。
<2016> ぺあ(FB注意) ■2007年10月26日 金曜日 23時06分58秒
 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと自分に許してこれなかった怒り、悲しみ、色んなマイナスな思い、何よりも怒り、憎悪・・・
 どこに出せばいいの?誰に出せばいいの?受取ってとはもう言わない。でも今でもどうしようもなくきっと自分が思うよりずっととぐろを巻いて生きている、持っている。
 電車の中で思いっきり何かをぐちゃんぐちゃんぐちゃんに世界を何かを思いいきり死ぬほど壊して殺してぐちゃんぐちゃんにしてやりたい。怒り。ずっと忘れてきた。自傷でとばしてきた。思わないように自分に課してきた。
<2015> ぺあ(FB注意) ■2007年10月26日 金曜日 22時59分17秒
 生きているの苦しいな・・・・
ちょい前まではこういう事さえ自分に許せなかった。
 うち「問題ない」家だからね。私「恵まれているからね」私こんなこと思っていたらおかしいから。性的な虐待受けた人とか、もっともっと虐待受けた、レイプされたもっと大変な人いるだろう?お前はなんて恵まれた人なんだって・・・思いこんできた。
 生きているの苦しいな・・・。
 そう思えて楽になれた。
 電車の中でパニック起すくらいしか自分にもう許せなかった。生きている。でも私は何やっても頭出すだけで押さえつけられる、苦しくても何やってもだめだった。もう出口のない思いは知識で得たパニックにして出したかった。それくらい苦しかったの。
 どうして〜しなさい!っていう先生みたいな人に乗せられてきたんだろうな?いっぱいいっぱい言われたの。「もっと人に話し聞きなさ〜い!!!」姉から「あんたただでさえばかじゃん」「もっと努力違う方向に使えば!」私はあの人にはおかしい、自分よか大したことない、下んない人っていう押さえつけされてきたからね(たとえ自分の思い込みもあったにせよ、そう思わされてきたの、今やっとはなれて楽になったほんと・・・)「もっと冗談分かれよ」「もっと自分を出せ!!!」「こうすればああすれば」「人を上下で見るから障害を持っている人とばっかり付き合うんでしょ!!」そんなこと言われていた。
 思い出すだけで、何であんな発言する人にずっと「嫌だ一緒にいると自信なくなる」っていう感覚を殺して、関わって「友達」やってきたんだろう?まあ、母や姉のからかい「男子と話せないこと」を見返したくて男友達作っていた節はある。
 母や姉過去の教師同級生に言われたことを見返したい!すごくわたしにはそういう想いがあるんだ。
 先生役とばっかり付き合ってきた。自分のままではだめ、未満、見聞きしたことはばかばかしくて大したことない、相手が絶対的に(将来成功約束してくれるくらい)正しい、相手の方が周りから受入れられているから正しい、相手の批判をそのまま受入れてしまう、私のことなんて何も知らないくせに言う勝手な説教(しかも年下のくせに)・・・
 もうもう本心は怯えながら言うけど・・・
 そういう変に押し付けてくる自分は正論であなたを正してあげる、あなたは今のままでは、まだだから・・・ってこうすればって勝手に決め付けてくる、そういう人とは年齢も性別も関係なく付き合いたくない!!!!!
 そういう人と関わってアドバイスされたことはすべて役に立たなかった。(立った事もあったけど、それでもその人のいう事すべて正しいなんてないし、その人が責任とってくれるわけないからね。そういう人こそ自分の状況変われば、時立てばすぐに意見かえる自分の言ったことなんて全く覚えていない無責任な人なのよね。友人にそこまで求める私も厳しいかもしれないけど)
 父が自死してやっとふらふらして自信のなかった感覚が正しかった、それなりに私はとても感づいていたんだって分かった。
 お前はおかしい、もっとああしなさいこうしろって言い続けた先生役の友人たちは、私のふらふらした感覚をもっとふらふらにさせた。自信なくさせた。私っておかしいんだ・・・そういう子と話すと見聞きするものをそのまま受取ってはいけない、「冗談分かれない」自分だから、「未満な私だから」まだまだ相手の決め付けたところまで届いていない私、変な自分・・・見聞きしたものは見聞きしているものではない、他者と自分は違っている、自分はおかしいんだって思わされるの。自信がなくなるの・・・・。
 あいつらのせいかもしれないって思っている。父の自死をとめられなかったのは。あのお節介な先生役やってきたうっざいあいつらのせいだってどこかで私思っている。思っていいよ。でも何であんな人と付き合っていたのかな私。でもそれでも許してあげたい。周りが「いい人」っていうから、男の友達くらいいたほうが親や姉を見返せるから。そんな理由。だけどね。
 あいつらのせいだ。少なくとも自信はなくなったな、あの子たちといて。
<2014> ぺあ(FB注意) ■2007年10月26日 金曜日 22時03分34秒
 電車の中でね、私今は平静な気持ちでも、すごく思い出すの。怒りもああいう場所で出てきてしまうの。我慢に我慢を重ねて生きてきた。
 意識飛ばしても一応父と祖父、母を喜ばせるような名のある大学へ行ったこと。よく受かったなって思う。私。受験勉強する前にカウンセラーか病院行った方が良かったって思うくらい、おかしかったのに。私なんて予備校の机にかじりついて、意識とばして雑念恐怖みたいなのあったし、自傷思考もあったし、それでも勉強した。苦しめば苦しむだけ、神様が見ていて、勉強の成果もあがると思ったんだ。おかしいよね。ほんと。そして雑念が襲ってきたりしたらそれも私のせいだと思った。休みたいだとか怠けたいだとか、ちょっとやめたいだとかおなかすいただとか・・・そんな感覚さえ私自分に許さなかったもん。許したらホームレスになるかと思っていた。そういう「努力さえすれば成功する」という考えは祖父と父のこの家庭ではぐくまれたの。父もまるでそうだった。いい大学、いい企業に入って・・・・形だけ整えているそんな感じね。でも精神的にバランス崩して、それでもすべて自分のせいだと責め続けて生きていた。大きな仕事を前に必ず身体が不調になることとか、うつっぽくなることに父親が一番自分を「甘えている」って自分を責め続けていた。お父さんのあの怒りの目は忘れられない。でも、それが躁状態だったなんて・・・・お父さんが亡くなってやっと知るなんて・・・・なんかうけるね。もうあきれて悲しみなんか通り過ぎて、うけるよほんと。
 私に何ができただろうか?
 でも私ね、さっき思った。私のやってきたことってこの家族にそっくり。「形だけ整える。中身は置いてきぼりにして」まさしくそうだった。友人関係も。恋人も。そして学校でのことも。勉強も。生き方そのものが。
 失敗のこともそうだね。
 でも、それでも私は肩書きがあるんだ。父も祖父もいっつも「肩書き」ばっかり大切にしまくっていたな。それが私いやなんだな。いやなの。どうやって生きてきたかも分からないくらい私は周りがすべて「いじめっ子」に見えて、中学から自傷思考して周りの心が動かないように周りに影響されないように、意識を浮かして、飛ばして、生きてきたの。
 そしたら高校くらいからとまらなくなってしまって。安全な場所だと頭でわかっても、とめられなくなって・・・今までのどうしようもない誰にもどこにも向けられなかった怒りや悲しみ憤り不安、自分の気持ちとして許してこなかったこんな鬱積した溜めてきた鉛のような重たい思いが、自傷という形で一気にそっちの方向に向かって噴出していった。
 自分を笑う。他者に良い様にされても自分も笑って自分の意識を切り離して上から「もっとやれやれ」っていじめっこに言うようにして生きている。でもそんな自分に怯えているもう一人の自分もいたけどね。
 乖離していたんだろうか?
 でも乖離して自己を守って生きてきた人の手記を見ていると、何か分かるの。すごい分かるの。初めてこんなに自分と同じこと書いてあるのはって私思ったもの。
 父親が20代半ばで自死して、そして父が躁鬱気質だったこと初めて知って、祖母もまたそうで、自死未遂していたことも知って・・・やっと「やっぱりね、だからか・・・ふ〜私合っていたんだそうだったんだ。私のこの感覚でよかったんだ、ちっとも私は異常ではなかったんだ、合っていたんだ、合っていたんだ、合っていたんだ、私は間違っていなかったんだ、正しかったんだ」って思ったの。それは分からない世界に放り込まれて、それでもいじめを甘んじてうけて自分の性格のせいだと思い込んで、頑張って生きてきて、性格も思っている感覚も直そうとしてきて、それでも他者からお前はこれが足りないだとか、お前は人と違う、お前はおかしい、変わり者、もっと〜しなさい、もっと分かって・・・こんな一杯のぶつけられも、うけて、おまけに怒鳴られてまたいじめを受けて・・・こんな中で表だけ「問題ないように」生きてきて、人を殺したくなるくらいの感覚を持って生きてきたこの感覚が、初めて正しい方向に他者に受入れられる方向に向けられる「いいんだよ、あなたは合っていたんだよ」という肯定感覚を与えられたことにもなった。
 私のような人がいるかどうかわからない。この世にはもっと辛いことなんて沢山あるのも分かる。それでもずっと見られたくないという父の無言の願いを受入れて、それでも「分かって〜」というような甘えもされて、必死で背負いきれないものを必死で自分の背骨折れる寸前まで背負って生きてきた子供の私。やっと意味が分かったのは父が自死したから。こんな人他にいるのかな?他の子どもがうらやましかったな、だって自分のことだけ考えていればいいから。自分の感覚や怒っても「倒れないでいてくれる」大人がいる・・・それが子供の健全な発達にどれだけ必要なのか分かる。自己が確立するんだ。怒っても本当の見たまま聞いたままのこと言っても、共有できる人がいる、倒れないでいる家族両親がいる・・・・。自分のことだけ考えて遊んで生きて育ってもいい・・・・。だったら受験だって学校生活だって楽しかっただろうな。挫折だとかそういうのもまた自分の地に足つけた成長の一つとして自分のものなんだから、楽しかっただろうな。
 私はいつも父が母も「倒れて壊れてしまう」ことに怯えきって、それは他のクラスメイト大人、先生にも広がっていった。こういう私に野生の勘なのか、子供でも人でも「助けて〜」というストレスフルな子集まったな。運の悪い時は、すんごく暴力的な子もきた。その子には身体に危害加えられた。勿論、当時はそんな犯罪用語みたいな言葉なんか使えずに、「笑って流していた大したことの無い」ことの一つだったんだけどね。
<2013> ぺあ(FB注意です) ■2007年10月26日 金曜日 21時35分07秒
 今日、この習い事はいわば私の「リハビリ」のようなものなんだ。
決まった予定の場所に公共機関を使って行く・・・という。
 でも今日も途中下車して歩いて帰ってきた。
 イライラは電車の中で爆発するの。逃げ場ないからね。実習のあの日に近い状況だからね。皆の一斉に見るあの目。「精神病だこの人」そんな一斉の視線の暴力。
 「外に出たいのに出られない、出るとしたらそれは家で皿をすべて叩き割ったり、リスカしたり、過食ですべての食べ物吐き出したり・・・」そんな感覚ずっと家族に持って生きていた。「おかしい」そう思っていた。表はとっても「明るい問題ない」家族。その一員として、生きていたから。
 あの日、お父さんのおかしさ、他者から一万光年も離れたところにいるような姿で周りの他者に合わせて笑っている父を見て、まるで子供の頃のいじめられた頃の私を見ているようだった。がけっぷちで笑っている。周りに人は存在するのに、それは存在するだけで、私の周りの人と私は何万光年も離れているような、誰も存在しない。そういう感覚。愛知県で10数年前にいじめで自死された男の子の遺書を見たとき、「これは私だ」って私思った。誰もいない・・・そういう感じ。それを私は父に見たの。私もそうだったから。でも、何言っても暖簾に腕押しなこの家族には、問題見ない振りして、見過ごし見過ごしきた、この家族には言えなかった。
 教育実習で、校内放送であんなこと言って(言いたくないのに、私は問題起きると自傷で解決できると思っていた節がある)全校生徒からすごい目で見られたあのショックと、嫌な感じ、いじめのあの頃と全く全くおんなじだと思った。集団のさげすみ、暴力、異端者を排除しようというあの全体からのあの非難の目・・・・。家族も同じよ、問題あるって騒いでも逆に「あの子精神的におかしい」っていう固定した視線で一斉に見られる。勿論父もそうだった。
 言えなかった。
 「お父さん変だよ」って言えなかった。
 言えなかったよ。いえないよね。思い出していた、教育実習でのあの「過去の意味の分からなかった状況を大人の目でわかってこのもやもやや、自信のなさを洗い流して新しい自分になりたい」という目標と、それを煽るように聞こえた実習担当の教師の「力すべて出し切りなさい」だとか「あなたがきて子供が明るくなった、もう俺どうしたらいいのか分からないよ」という言葉。最終日にあんなに怒鳴られて私そう今こそ言わないと!って過去の自分の話しをした。勇気出せなかったからずっといじめられたことも言えずに、ずっとひきずるはめになったと思っていたから。大学時代は勇気を出して言いたくないこともすべて言うことを自分に課していた。自分の感覚なんて無視していた、ただ「勇気を出して」生きることだけを自分に強いて、過去の自分を意味の分からない世界を理解しようとしていたんだ。
 衝動的に言った校内放送での「中学校時代私友人あまり好きじゃなかったです」「でも今幸せです」(昔ね、中学生の頃かな、道徳か何かの授業でいじめで自死を考えたことある外人の女性が旦那さんを横に今は幸せで、あの頃そんなことしなくて良かった、そう言っているビデオを見て、私は自分もそういうことを皆の前で言ったら、その外人みたいに幸せになれる気がしたんだ)なんて永遠にとめどなく言ってしまった。其の後の皆の突き刺さる視線「この人頭おかしいんじゃないの?」という通りすがりの生徒の視線、教師陣のあきれた視線、担当教員の最後まで怒鳴りつけられ、クラス全員の前で「この授業分かる人手挙げて!」という怒鳴りつけ。職員室まで来て「次の研究授業失敗するよ!!」というあの先生の目、怒りのイライラのピークのオーラ。いじめられて、おどおどしていて皆にイライラされて漬け込まれて、家族にも誰にも笑われていたあの頃と全く同じ。今度は気が強くなって皆に言われたように「おとなしく」もしないで大人になっていっても、私はああやって自分の神経ずたずたにされるだけ。誰かのために頑張らないとって思っていた。いじめられた子がいるならばその子のために私救わないとって激高したような思い抱えていた。でも、でも、私ってこうなんだ。何やってもどこに出て行っても、学校って私を殺す場所。私を吹き飛ばす場所。それで私中学校の頃から自傷して自分守ってきたんだっけ。
 お父さんの自死する前、見たんだ。おかしいって思ったんだ。でも、もう言わなかった。そうしてやっぱり死んじゃった。とめなかったって責めている。もしも実習なんか行かなければとめられたかもって思っている。
<2012> ぺあ(FB注意) ■2007年10月26日 金曜日 21時10分47秒
 今日、初めて習い事に行ってみた。お料理教室だ。疲れた。ほんとすんごい疲れました。女の方が担当でついたんだけど、何か、私の中には「明るい子」演じないと・・・とか、「ふつうの子」の反応を頭で探っていた。相手に不快感じさせないように・・・だとか。相手がサービスするほうなのにね。疲れてしまった。でも、学校時代をまざまざと思い出した。「ふつうの子」の反応をいっつも演技して頭で探って、相手を喜ばすために、傷つけないために、おまけに「変な子」だとか思われないように、ものすごい細心の注意払って生きていたな。まるで「普通の子の反応学」を頭で考えて、やっているようだった。私のありのままはおかしいから、変だから、「神経質な子」だから。いじめられてからは、ありのままでは他者の暴力のスイッチに触れる「弱くて汚い子」だから、そう思っていた。おどおどしている私に、子供は漬け込んだな、本当に私は「見ていてイライラする!」って言われたり、「お前が結局全部悪い」って女子のおしゃべりの端はしで言われてたもの。
 気の使いすぎで疲れた。疲れた。つまらなくても、話しきちんと聞かないといけない。でも飽きると、自傷に走ってしまうのよね。それをまた「変な気持ち悪い人」って思われないように頑張ってしまう。
 大学時代にね、「OOさんって目が笑ってなくて、最初の頃ほんと怖かった」って言われていた。そうなんだ。私は他者の中にいても、意識飛ばしてたの。あまりにも何やってもいじめられて、いいようには絶対に扱ってくれなくて、他者は私を「大切な人間」とは決して思ってくれなくて、隙見ては馬鹿にされる、集団でエスカレートしていじめにいたる、なんか見下される、そして男性には「変な目」で見られる。自傷して意識飛ばしていた。そうやって意味の分からないこの世界でバランス保って、予測可能の中で生きるしかなかったんだ。
 
<2011> ぺあ(FB注意) ■2007年10月25日 木曜日 11時40分52秒
不安。仕事がまだ決まらないのが不安。やりたい仕事あるけど出張があるのが怖い。特急電車は乗れないから。たぶん。新幹線も無理。だって取り返しつかないでしょ一回のればさ。それが怖い。いろんなこと思い出すと息ができなくなるくらい苦しい。私の中の出せなかった怒り何してもお前はまだ足りないまだ足りないとぶつけられてきた悲しみ、自分のままじゃ「未満」だめでも何やっても人から怒鳴りつけられ笑われ批判され、こっちが傷つくと言われ、勝手に決められ。生きてはいけない。生き潜めても。息殺しても。そうじゃないああじゃないって言われるだけ。生きてはいけない。私いじめられて当たり前だからさ。こんなとぐろを巻いた思い殺してきたけどそれでもとどまる思い。爆発しそうなの。つらいの。責めてもだめ、努力してもだめ。いじめの風景は終わらない。人は怖い。男の人もきらい。女もいや。おばあさんとかみてると落ち着く。見下す人の視線に敏感なんだ。人は分かるのよ、私のように不安定な子を。一斉にみられた私は「おかしい」あの視線に負ける取り込まれる何やっても私はだめな汚い女なんだ。ただ私のままでいいってただ言ってほしかった。それだけ。お金も心配。仕事しないと。でも金心配なんだ。不安なんだ。やりたくなくてもできる仕事からやればいいのかなあ?
<2010> ぺあ ■2007年10月24日 水曜日 10時54分39秒
 大学時代のことを思うと、少しつらい。恥ずかしい。私は、それまでの「暗い、目立たない、おとなしい、たいしたこともない」自分、おまけにずーっと小学校からいじめられていて、人に怯えきっていた、他者から見下されている、どうにでもしていいと思われている他者から大切にもされない、人間としてさえ扱ってもらえない汚い、ただのストレスの刷毛口、きれいな周りの女の子とはまるで違う、「汚い女」から脱却したかった。
 いつか、姉や母を見返してやりたかった。
 いつも「男子と話せない〜」「いっつも人のいいなり〜」「何でそんなにへこへこしてんの?」と姉にも母にも言われてきた。二人で私を「弱いやつ!」って笑っていたし、友人から大切な存在として全く扱われていない私を母は「笑っていた」姉も。
 そんな自分汚い汚い自分を私をどうしても、底上げしたかった。
 恥ずかしい思いとか全部無視したな。
 「明るく大学ライフ楽しんでいるように見える」ために入った部活。男子と話せないことがいやで、無理になれるために、男子の部屋に誘われれば行った。見返してやりたくて。自尊心底上げするために、好きだっていってくれた人(どう考えてもその人自身問題あって、セックスもとめている人とか。友達いないとか言ってくる孤独を訴える甘えてくる奴とか、彼女いても遠距離だから手じかで付き合いたいとか思っている奴とかばっかりだった)をつなぎとめるために、奔走し、自傷し、どうにか彼氏作ろうとしていた。
 見栄。家族に見栄はるために、生きていたみたい。
 そうして、過去の汚い自分にして、押さえつけられ続けた、皆私よりもランクの「上」だったあいつら同級生に分からせたかった、見返したかった。
 それだけ・・・

 今、生きるの楽になったな。他者から当たり前に大切にされるようにもなった。前みたいに見下されたり、こいつ何やってもいいって思われて、ずーっと嫌なからかわれ方集団でされたり、「ああしなさい、こうしなさい」ってうっさい先生役みたいな人もいなくなった。この先生役みたいな人ってずーっと私を「社会で適応できなそう」だとかサークルやめるか相談すれば「いじられ役が嫌なら自分で別の方法作って試してみたら?今やめるのはもったいない。続けなよ」(相談した私もばかだった。誰にでも「いい人」って言われていたそいつに私は自分の判断ではなくて周りの評価でその子に相談していた)「もっと冗談わかりなよ」(そいつの発言がかちんときたのに言われた、今思えば私が冗談通じないできそこないの友人もできないへんな子なんじゃなくて、そいつのただの自己弁護なんだね・・・)「もっと人の話し聞きなさい」(年下なのにそんなこといっつも言われた。)でも、今思えば私はずっと子供の頃から、父が「壊れない」ように「そっと」生きてきたから。それは家族にもそうで。そして他者にもまるで同じ世界観をもって接していた。「この人は傷つきやすい、私なら大丈夫。守ってあげないと。何でもこの子の世界観を受け止めて、受容して、この子が落っこちないように生涯消えない傷負わないように、私が支えないと」そう思ってた。その子の見ている世界を肯定するのが、私のお役目だった。そうやって生きてきた。だって、他の子はかわいそう、何も分かってない、私よりも傷つきやすく、知らない子達・・・そう思っていた。今もきっと・・・。そしてまだ自分を「傲慢な奴」って責めてしまう。「自意識過剰なんだよ!」って怒られたサークルの人の言葉とか今でも反芻してしまう。
 私の考えを、その相談にのってくれる人が分かるわけないんだよね。何であんなに強く「こうしなさい」だとか、「お前は人の話し聞けない」だとか、「社会的に適応できなそ」とか「冗談分かれ」とか言われないといけなかったんだろ。こういう人沢山いたの。自信なくてさまよっていた頃。
 先生みたいに迫ってきて、私はそのたびに心がふらふらになって、「私の見聞きしたこと」は間違っている、正解じゃない、他者とはふつうの子とは違うんじゃないか・・・心が不安で自信なくてふらついてしまうの。
 おせっかいな人もまた同じような効果を私に与える。「何であんたはいつも辛そうなの!!もういい加減にして。こっちも辛くなるんだよ。全部再体験するから!」(言わなければ良かった・・・)私はいつも大学で「辛い今までのことを解消する」という目標を掲げて、言えば浄化するっていう本の文言を絶対に正しい真理だと思って、言いたくないこと、言えないこと、恥ずかしい思いを捨てて、言ってきた。それが勇気だと思ってきた。勇気がないから、いじめられたことも言えなかった、そんな「汚い」自分を責めながら。
 ずっとずっともやもやがあって、晴れなくて、そのために何でもやって、そうして、他者からものすごい攻撃されて、傷つけられて、私も傷ついて、ここまで生きて、無理することなんか当たり前で生きてきて・・・・そうして24で父が自死して、やっと分かったんだ。お父さんが躁うつ病だったこと。祖母もそうだったこと。祖母は自殺未遂も何回かあったこと。やっとやっと、分かったよ。急に態度変わっていたあの頃の父も、常に寂しそうなこと、あの頃の私も「取り持ち役」を必死でやって生きていたこと。ずっとずっと。父には「精神病にかかる人は弱い人」っていう思い込みがあって、大企業での出世の足かせになったことも父には「恥」としか思えなかった。子供には「立派な」姿しか見せたくなかったんだって。
 先生役してきた人、お節介な人。あんた何様?なんなの?何が分かるの?いい年した大の大人もいた。何で事情っていうものが人にはそれぞれあるって分からないの?私を見下していたの?「かわいそうな不幸そうな私」をどうにかしたかったの?理解できないものが怖かったの?
 本当に今でもあの頃の言われ続けたあいつらのこと許せない。心が言われてふらついた。自信失った。そういう人としか一緒にいなかった。私を受容してくれる人を私は多分、「世間的につまらなく、心閉ざして暗い子」だときったこともあった。
 今でも大学時代の友人(ではないけど)先生、許せないな。それだけじゃない、過去の人たちもまた許せないよ。
<2009> かえる ■2007年10月23日 火曜日 23時52分48秒
自分の意見は常に正しいと思ってるであろう人。私はその人を観察してみると〈この人は必ずしも声高に主張してることを実践してるわけじゃないじゃん〉ってすごく思う。口だけなら誰でも言えるさ。もっともらしいこと言ってるけど私からしたら〈なんでそんなに断言できるの?語尾に「…思うけど。」とかつけたらいいじゃんか。〉と内心思う。威張り散らしてるとまではいかないけど…。正論を説く人にはそれにみあった態度で示してほしい。もしくは、もうちょっと謙虚さを持って話してほしい。
<2008> ぺあ(FB注意) ■2007年10月23日 火曜日 11時53分45秒
私もし父が自死しなかったら私がしていたかも。あの日外面保つ日、自分の思い手首にぶつけるしかなくてそうじゃないと私には思いの存在この世から消せなけて。新幹線のトイレで家族親戚に嘘顔見せて笑った後、たぶんカッターで手首の血管切ったと思う。怒りやくやしさ憎しみ訳わからなさ、恐怖、いじめられたことの悲しいこと他者への不審怖さ、どんなに向かってものれんに腕押しの家族、悪循環のこと、一斉に向けられた「精神的におかしい」という非難の目子供たちの。わからなかった。ただただ自傷して生きてきて、自分を汚いモノだという信念をもって生きてきた。家族の中で「優しい明るい問題ない」家族の中で私は「笑う」家族への不満やACだと思ってること、訳わからなさ、いじめのことは自分に向かっていった。私が何か間違っている、私がおかしい、私の感覚はふつうの一般の他者と違う。こんなにしてもらって私はなんなんだ?私は実家に帰れば、うちは大好き家族いいって思った家族への不信感を後ろめたく思って、一人になればもやもやや他者とはどうしても親密になれない、何か外側だけ「明るく」生きているように見える、自分の思いはさておき楽しいかどうかなんていう思いではなく、既成概念を押さえる、一応食事一緒にできる人「友人」いる、外側だけ正解をふつうを押さえて、そう見えることだけに重きをおいて、中身は置き去りにして生きてきた気がする。中身の私はうずくまって泣いていた、意味分からずいつも「恵まれている」「お前のせいだ。」「お前はずるい」と言われ続けた子供時代、他者のストレスのはけ口として他者の思う私を他者の思惑から飛び出さないように自分を削り続けて生きてきた子供時代。二重人格さながら生きて生きて、お前はなんてうそつきで汚い女なんだと責めて家族にも誰にも悪い悪いって思うしかなかった。でも消せない。どんなに誰にいっても頭おかしいだとか甘えてだとかあんたの性格変えなさいだとか言われても。この世から消したくなくて、あの日私電車の中で笑わないといけなかったあの日逃げれなかったあの日皆に隠れてトイレで手首に訳分からないこの抱えてきたものを自分の手首にぶつけたいって思った。ぶつけて安心しよ?そしたら演技続けてそつなくこなせるから、誰にも気がつかれずにこの私の怒りやいろんな思いに。でもその一週間前に父が自死した、死んだ。死んだ。死んでやっと父が躁鬱病だったこと知った。合ってた合ってた合ってたそう思った。
<2007> ぺあ(FB注意かも) ■2007年10月23日 火曜日 11時26分44秒
エリザベス・キューブラー・ロス他が書いた本を読んだ。自死した人が、死んだ後もこの世で学ばなければいけないことを学び続けないといけないだとか、悲しいこと書いてあった。あんたがたには経験ないからわかんないんだよ。私は正直に書けば、父が自死したことに、躁鬱だったことに「やっぱりね」と思った。そして楽になった。だまされているふりして生きてきたけど、これでやっと自分のことだけ考えて自分の感覚信じて、世界をつかんでいきられる、彼氏だってできるかもしんないってうれしかった。正直な話、楽になった。人殺ししそうなほどの思いあったから、なぜなら世界と自分が離れていて孤独でいつも責められて訳分からずに生きていたから。周りのふつうの子がうらやましかった。周りの子でいつも人を遠ざけ鬱っぽい私に気持ち悪かったり、なんで?って聞いたり、自分で変えろってお節介されたり、その子を傷つけたり、いっぱいいっぱいあった。私も自分の感覚をしかとしていきるしかなかった。家族の中で外面保つために。寂しかったよ。私には殺人犯したくなる人の気持ち分かるよ。世界との間にガラスあって笑っているけどその人は意味も分からず自分信じられず、他者から一万光年も離れて生きている、きっと。どうか落ちないでほしい。傷ついた人がどうか誰かを傷つけないで、自分の中にいる傷ついた子供を許してあげてほしい。怒りや自傷もすべてひっくるめてすごい思いも、持たざるを得なかった自分を許してあげたい。私はロス博士の本結構読んだけど、自死もそう、迫害受けた人もそう、病気もそう、本人じゃないと分からないよ。お父さんのこと私知ってたもん。勝手に自死した人はどうだとか周りの人は後々まで苦しみを生きているより死んだほうが楽になって良かったと思った罪悪感に苦しむのだ、とか書かないでほしい。あんたに研究者に何が分かるのよ!どれだけ子供の私が意味不明な世界の中で他者が壊れないように子供のいじめに耐えて自傷して周りの不満を和らげて生きてきたんだよ?あんたに何がわかるのよ!あんたなんかに。父が自死してほっとしたよ解放されたよ楽になったよ、それの何が悪いのよ!あんたなんかにはしんでもわからない。私にもっと家族の関係自分で何とかしろだとか過去にいじめた人とかあんたに何か分かるのよ!あんたなんかにはわからないよ。
<2006> ラビット ■2007年10月23日 火曜日 01時28分33秒
あぶないな。この感覚は自分を見失いかけてる。現実感覚がなく感じることなく生きてる感じがない。不安や緊張感も感じにくくなってる。これは回復していることではないなと思う。
体からの疲労感だけは感じる。
<2005> かえる ■2007年10月20日 土曜日 17時03分55秒
協調性…あたしには無いや…あたしはあたしの世界だけで生きてる。まわりを拒んで固くなになって他の侵入を許さない。自分にとって心地好いと感じる人達だけと交流をもち、ちょこっと自分自身をさらけだしてみる。職場で見せかけの取り繕った人間関係がどこまで続くのか?違和感ばかり感じて不信感を拭い捨てられない。…友達でさえ。完全にはわかりあえないと思うし、密度の濃い間柄なんてそう簡単には築けない。それでも、心の奥ですごくわかりあえる相手を探し求めてるから、見付からない今がもどかしい。全部切り捨てて、とことん冷たく、一人で生きてく強さを私は持ってない。中途半端に相手に頼る。依存する。こんな自分はいつか…手痛いしっぺがえしをくらう気がする。優しくなんてなれない。自分のことで手一杯なんだよ…。
<2004> ぺあ ■2007年10月19日 金曜日 15時50分28秒
今でもいろんなことが怖い。少しのバランスさえ保つことが大変な感じだ。人と関わるのは恥をかく連続だし誰かのこと傷つけるからいやだ。父のことばっか他者のことばっか言っているけどほんとは、まず自分のお世話みて自分が幸せでいることが一番大切なんだよね。他者が怖いのもあるし、ほんとは一番私が自分よりも自分差し置いて私をどんな時も思って好きで私に一目おいて尊重し、大切にしてくれる人を探しているのかもしれない。この世に悲しいことは五万とある。でもそればかりじゃない。悲しいと思って見ていたことが、悲しいことではさしてなかったりして。私はやがて死ぬんだから皆人は死ぬのだから、やることやって楽しく生きて好きな人に会って死にたいものだ。
<2003> ゆうこ ■2007年10月18日 木曜日 22時58分41秒
私の中には大きな穴があいていて私はそれを埋める方法を知らない。
知らないから何も選べない。本当にわからない。何も思い浮かばない。
私は自分が少し変わったと思っていた。
人間関係もつつがなく、幸せになったと思っていた。
でも実際は何も変わっていなかった。私の中に私の欲しい物は何もない。空っぽ。
怖いような苦しいようなよくわからない。でも涙はでる。
私は私が満たされてないことを自覚している。
<2002> ぺあ(FB注意) ■2007年10月18日 木曜日 15時37分44秒
悲しいことを悲しいんだって堂々と主張するくらいまで、肯定できたら。それを他者の中で。そうしたら、いつか父親の自死も受け止めて、理解して、現実や関わってきたものを受け止めることが出来るようになるかもしれない。
 父は、他者のせいにする人じゃなかった。だから、私は救われているとこ沢山ある。それに、父の性格は今ようやく全体像として理解できたから。お父さんの嫌なことは、精神障害者とか、他者から見られたり、見下げられたりすること、会社でうまくいかないことを「またか」って誰かに言われたり、自分の友人に見られたり、思われたりすることだから。
 まだ父親と自分がだぶってだぶって、涙しか出てこない。これを友人に「見下しているから、泣くんでしょ」って言われたけど、そうじゃないの。そうじゃなくて、やっぱり父に私は子供という無力な存在だったけど、「幸せ」でいてほしかったんだと思う。ずっと、父の寂しそうな背中見ていたから。私も寂しかった、とても。誰かにまた「うらやましい」って妬まれそうで、本音かくの怖いけど。
<2001> 秋 ■2007年10月17日 水曜日 20時09分42秒
甥っ子が自分の使ったペンのふたを当たり前に閉めていた。
私は、今でも使ったペンのふたもしないでそのままで
やりっぱなしだというのに。

妹である母に怒られて、甥っ子は泣いていた、、が
怒られた後、一人でふて腐れてた。
納得がいかないように見えた。
いま5歳なのだが、もう自我が芽生えたり、
感情をストレートに出す彼が羨ましくて、そして
歯痒くておばとして愛おしく思う。

子育てって毎日発見の連続だろうね。
でも、私には無理。
感情の押し付けになってしまいそう。
私のコピーロボットになんかなって欲しくないし、
子ども苦手だから。

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This script written by Shintaro Wakayama.