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私たちの物語 - 心の持ち方・感情・過去ログ No.100
メッセージ数:2000件

<2000> ラビット ■2007年10月17日 水曜日 02時08分38秒
緊張感か何か自分で自分の感情を押さえ込む感じたえず何かに圧迫されているような感じがしてのびのび生きるということがわからない。何かに追い込まれる感じ。お風呂や音楽、仕事で車を運転している時、ずっとつきまとう。父親とそっくりの行動をとっている自分に気付く時、なんかもうどうすることもできないんかなと思ってしまう。
<1999> みゅー ■2007年10月17日 水曜日 01時29分19秒
最近、よく外に出る。外に出ると昔から、ひとりで「人間ウォッチング」っていうか、「みんな何着てるのかな」とか、ひとりで、なんかつまみながら「ひとりのヒトって少ないなぁ」とか思ってた。
今日も外に出た。外に出ると体重増えるみたい。昨日、おとついと、おかかが、いなくてよ、やっぱり、あたしは「ひとりぼっち」になった。
けど、自分から外にでれば「ひとり」。
「ひとり」と「ひとりぼっち」は全然違う。いつか「父親」が一度、先生に会った時「お前の先生が、運動しろって言ってたぞ」「先生、ほんとに、そんな事言ったの?!」「そうだ。先生はウソつかないからな。」「じゃぁ、今度、病院ん行ったら、先生に、そう言ったのか聞くからね」
先生の答えは、しばらく「え〜?う〜ん・・・」って、感じで考えた後、「「もう少し「外出」を、した方がいいかもしれませんね。」とは言ったけど「運動しろ」とは言った覚えはありませんよ。第一、今のあなたに運動なんて、とてもじゃないけど勧められませんよ」「やぁっぱりぃ!あのヒト、自分の「常識」とか「ものさし」でしか物事見ないから」

趣味的な外出って、やっぱ、こころの栄養にはなるみたいで、ちょっといい感じに体重計の針は上昇してる。「父親」も、お母さんも、あんまり面白くないみたいだけど。でも、帰りの電車待ってる間、「やっぱり、早く仕事したい。また接客販売の仕事に戻りたい」。時間的に、ぱらぱらペーパーワ−クの仕事してる人たちの帰宅時間にOL風の女性に、サラリーマン見てて、違和感と、くやしさを感じた。
「あたしは、ダメダメ。キツイ仕事と分かってても、あたしは接客が好き。力仕事するには、もっと体力がなきゃ、続かない!ちくしょう!」って、その場で、すぐ酒飲みたくなったし、死にたくなった。

田舎の、ばあちゃんち行きてえな。ばあちゃんは両家で初めて女孫が生まれて唯一よろこんでくれたひと。おかかの実家は初女孫でも、あまし喜んでくれなかったから。ひとりで新幹線。乗れるか。乗れるっしょ。たぶん。動くね〜。あれ。こわいよ。でも、専門の時、あの国行くために、あの学校選んだんだもん。だから飛行機あんな長い時間乗ってったんだもん。
ばあちゃんに会って、田舎メシ食って。栄養つけて。自立していこう。新幹線は止められる。地面の上だから!!
<1998> ぺあ(FBもしかしてあるかも) ■2007年10月16日 火曜日 21時24分34秒
 頑張って生きるのが当たり前だった。頑張らなければ、少しでも怠ければ、ホームレスまっさかさまだと思って生きてきた。何でこう思ってきたのか分かるけど、今は。私の中のインナーチャイルドが、「え?頑張らなくてもいいの?」って驚いている。頑張らなくても生きていていいの?誰かに悪くない?って思っている。
 大人になるって辛いことの多い人生になることだと思っていた。背負って背負って、背骨が折れるくらい背負って背負い続けて、それでも歯を食いしばって忍耐我慢って言い続けて、頑張り続けることこそが、大人になることだとおもって生きてきた。もしかしたら、父と祖父の教えそのものなのかもしれない。今、父の顔が浮かんだもの。運だとか縁だとか、この世には目に見えない、ことが沢山あって。それでもうちの父の家系では「努力」だけがこの世で大切なことだって、言われ続けたから。頑張りなさいって。私は自分の心なんか殺して努力し、疲れた気持ちに鞭打って、頑張り続け、外見を整えて生きてきた。まさにうちの家族そのものだった。それが父が自死して、すっかり変わって、私は楽になった。でも、やはり悲しいんだ。頑張り続けた、祖父は高齢で頑張っても足動かなくなって、病院に入院して、一人で死んだ。なんか、もうだめかもって思った気持ちを私は流して、家族と最後の見舞いをして、病室去ったけど。おじいちゃんもお父さんも家族なのに、どうしてこうも皆一人なんだろう?こんなによそよそしいんだろう。祖父は私たち家族が帰った病室でどんなこと思っていただろうか。頑張り続けて、それが最高だと教え続けた祖父。一人で死んだ。一人で死んだ。父は其の後すぐに転職し、単身赴任をし、仕事に熱を入れて、それで仕事に行き詰った日に、死んだ。自死した。大企業を定年した後、そう状態で、祖父の介護していたのだろうか?頑張ることこそ、この世で一番のことって言い続けたのに。私、なんだか笑っちゃった。おじいちゃんもお父さんも時代を象徴していたんじゃないだろうか。でも、でも、でも、悲しい。
<1997> ぺあ(FB注意) ■2007年10月16日 火曜日 20時39分27秒
 父が、躁鬱の気分障害であった。私は何でも他者の意向を受け入れ、他者の望むことを、「うんうんよしよし」って受入れる。「今まで辛かった分、私があなたの辛さを止める役になるから。今までの分、私が取り返すから」ってとにかく、甘やかすというか、今まで辛かったこと前提で、優しくしまくる。
 こういう人間関係って無理あるよね。しかも私は子供だったし。
 今でも、世の中すべての人が辛くてたまらない幼少期送った気がする。かわいそうで失敗する穴へ向かう道へ進んでいる人だらけな気がする。
 そうして何でも受入れようとする私がいる。
 多分、男性(かわいそうな感じの)がいれば、その人の性的欲求さえ満たしてあげようとするんじゃないかって思う。
 そのくらい私は相手に自分を投げ出すの。相手はかわいそうだから、辛いから。
 そうやって生きてきた。
 相手がつぶれそう。いつもそう思ってきた。相手が強かったら、自分のことだけ考えて生きられたらどんなにいいだろうかって思い続けてきた。
 それなのに辛そうな人が「助けて助けて」って救い求めて「分かってくれる」私のもとにくるから。
 いつかこういう考えを手放せる日くるのかな?人って強いって実感として分かる日くるのかな?多分、弱かったのは父。脆いと感じていたのは父。なんじゃないのかな。お父さんとおばあちゃん。そんなこといったら、プライド高いあのお父さんが激怒するのが分かるけど。
 いつか手放したいな。自分のことだけ考えられて、他者が弱いからって遠慮しないで生きてこられたのびのびして、幸せに躊躇なんて一切しないで、思いっきり生きている子が、素敵でうらやましい。ほんとに。そういう子実際にいたの、大学で。本当にうらやましかった。私は介護なんて目指しているけど、本当はそういう幸せな人に囲まれたほうが自分のためにいい気がする。幸せや楽しみ上手、生きるのが上手で、能力があって、素晴らしい人に囲まれたほうが、私が生きれる気がする。介護とか精神疾患とか他者の無理解に苦しみ人にまたひきずられるのかなあ?前もあったから、障害を持った人に一方的に好かれて、勝手に遊園地の切符買われたり、後輩たちの前で「一緒に寝たんだ」とか全くの嘘言われたり・・・・。また私は何でも許して、かわいそうだからってまたひきずられてまた幸せに遠慮して生きてしまうのかなあ?
 介護なんてやっぱり合っていないかな。
<1996> ぺあ ■2007年10月14日 日曜日 22時16分11秒
幸せになるのは怖い。誰かに悪い。不安。今でも学校のクラスの中にいるようで、能力も周りをそっと伺って小出しして平均レベルで誰からも嫉妬とか不快感もたれないように調節していないといけない気がする。日本の集団社会は怖いって思ってる。
<1995> ぺあ(FB注意) ■2007年10月12日 金曜日 22時21分21秒
 ACかどうか分からなかった。きっと私は恵まれているんだって思っていたから。他の辛い思いして、もっと辛くて悲惨な家庭を思い浮かべては、私はその人を背負って、その人の嫉妬を受け止めて、生きるべきだと思い込んでいた。
 父親の自死はそんな思いを吹き飛ばした。
 やっぱりね・・・それが感想だった。やっぱりね、私のこの感覚合っていたんだ・・・そうだったんだ・・・・って。
 今まで散々、他者から私の感覚や自信に疑問を持つような気持ちにさせられるような、ことばっかり言われてきた。感覚も自信もなかった。だって、この家おかしいんだもん、何かが・・・・。それはこういうことだったんだ。分かったよ。もっと恐ろしくて怖くて自分が汚くなるような真実が隠されているのかと思っていたけど、こういうことだったんだね。
 お父さんが好きだった。でも私も父にかわいがられていたけど、でも本当には愛されなかったのかもしれないな。私のこと受け止めてくれなかったんだろうなって思う。
 さっきも包丁見ながら、刺したくなる思いがした。子供見ても私はいたぶれるのよって思う。正直な思い。父が死ぬ前も何度も包丁で家族や私の友人を刺したくなるような思いした。孤独な世界に住んでいて、意味分からないもやをぶっ壊してくて、でも留まらせられた。殺人しちゃうかも。家族って男の人には大切だから、弱み見つけて誘拐でもして殺したくもなった(するわけ無いけど)でも、弱みを見つけたかったし、見つかるとこうすればいいのかって思っていた。
 定年で退職した父をいたぶってやりたかったし。正直な思いなの。
 全部、これ子供の頃私は他者から、実際に誘拐されたりしたわけじゃないけど、でもされてきたことなんだと思う。私の弱みに漬け込まれ、いたぶられ、孤独と絶望においやられても、尚は家族は真剣には絶対に見ては、聞いてはきれなかった。笑うだけ、からかうだけ、面白がるだけ。喜んでいじめられるのを見ていた。
 意味分からなかった、でもいつも学年変わるたびにされてきたから、きっと私によっぽど他者をいらつかせる何かがあるんだって思わされ、自分を汚く惨めに思っていた。本当に本当に私の感情はいつも無視され、踏みにじられ、そして面白がられ、いたぶられ、笑いのねたで、私なんて本当に至上最低な人間なんだと思っていたよ。
 されてきたことなのよ。この暴力性は。でも、どうして過去のいじめっ子に向けられないで、私の大切なものに、私を大切にしてくれるものに向かうんだろう。
 家族は向けてもOKだと思うけど、好きな人や友人、無関係な職場の上司にまで向かったの。いじめられた子はいじめた子には向けられない。悲しいこと。それでも感情のからみつきが未だに15年も前なのにその子に私はあって。多分、その子がお兄さんを20代で亡くし、もともと精神的な不安定なお母さんががけから車で飛び降りて亡くなったらしいから。そういう話し聞くと、私の恨みのせい?他の子もいじめていたから、そのこたちの恨みのせい?って怖くなったの。
<1994> ぺあ(FB注意) ■2007年10月12日 金曜日 22時06分08秒
 ずっと、私は小学校時代の行方不明者のポスターとか掲示板に貼ってあると、その子のCG画像で今の顔とかいうのが、失礼ながら子供心に気持ち悪くって恐ろしくって、高校時代自傷の道具として「私はその子を殺した」って使っていた。小学校時代あまりに色んな思いを抑圧し、殺し、怖くて不安な思いも意識を乖離させるようにして、溜め込んでいた、そして「何とも思っていない平然とした顔」でやりすごしていた。
 本当は耳の中にありいれられて、怖くて耳が聞こえなくなる、脳に回ったら・・・とか考えて怖くて。お父さんの背中やおとうさんの寂しさ、怒り、人が変わったような憎悪を母に向けること、普通の家庭の中でそう見えている家庭の中で孤独で寂しかった。
 父がいなくなって、やっと私の思い正当なものだと分かった。それまでは、高校時代から「何でいっつも疲れているの?」「家族なのになんでそんな心配するの?」慢性的な私の抑うつ感を友人は感じるらしく、その場その場で友人はできても、私の異常さに気がつき、「浪人だから、大学落ちたから・・・」とか「お母さんと仲悪いから」とかその場その場でそうやって理解したみたいだけど。それでも、離れていった。大学では、「いつも辛い辛いって辛そうで、こっちも辛くなる」「自分で変わんなさい」って一杯言われた。「あんたがおかしい」「よくもそんな年で親を責められるね」「いい加減にしなさい」「虐待受けた人は自分で変えたんだよ」私の責任だった。感情にも自信ない。高校まで意識飛ばして周りの目のために生きてきたようなもんだから、中身がないのね。だから、周りと私が合うかどうかも自信ない。
 父が自死だったけど、それでもなくなって本当に楽になったな。おまけに他者に同情してもらって、嬉しかった。お父さんを助けないとって焦らなくなったからかな?何なんだろうな。私の今までを考えれば、本当に不条理で弱いから自信なく、他者の責任取るのを当然のようにしているから「弱い何やっても怒らないから、見ていていらいらするから」いじめられた。辛くて自責感と罪悪感に襲われれば「気味悪がられて、疲れられて」友人から離れられた。今までを振り返って正直に気持ち話し、教育実習でもいいたくもないけど校内放送でも正直に話したら「お前幼稚園児じゃないんだから・・・」「冗談分かれよ」「あなたは本当の友達いない」「お前にできるの〜?」「自分で変えなさい」「もっと人の話し聞きなさい」「〜しなさい〜しなさい。そうすれば悩みもなくなるんじゃないの?」「何で何に一体悩んでいるわけ?」
 一杯一杯言われたな。何やっても理解されなかったし。家族にも「うまくいっているふり」(マイナスな感情の交流なんてなかった、問題ないようにするんだ)の壁を壊そうとした。正直な思い手紙に書いた。「あいつはおかしい、就職活動うまくいかないから」っていう風に見られる。いじめの話しが出るたびに、私の方へ視線が集まる、ぎこちなさげに、ちょっと受けている感じで、そうね、異常な目で興味半分で見る感じだったな。
 父が何か言いたがっていた。「お前(実家に帰りたくなくて祖父の49日の夕食会を土壇場で父に行かない!って跳ね除けた。そしたら父は「あっそ」っていい、何かもう色んなことがごちゃごちゃになってパニックになっちゃえなれなれって私の中で大騒ぎになったことがあった)があの夏の時、お姉ちゃんすんごい心配したんだよ」とか、「お前って怖いな」とか、言ってきた。
 無視した。
 もう十分私はこの家の壁を壊そうとして、壊そうとして、自身も意味分からないこの世を理解しようとして研究もして実習にも行った。でもすべてものすごく傷ついただけだったから、もう父の遠まわしな発言も「何言いたいのか知んないけどもう遅い!」って破棄した。
<1993> ぺあ(FB注意) ■2007年10月12日 金曜日 21時32分54秒
 大学時代から、それまでの、自分への自責感罪悪感から、大切な人なのに・・・後ろで階段歩いているのを、おしゃべりして二人で歩いていた時に、落としてやりたい気持ちに襲われた。大切な好きな人(そいつには二股かけられていた)に対しても、階段から突き落としてやりたくなった、恐ろしかった、自分が、大切な人の為にも早く私なんかから解放してやりたかった。二人で屋上上った時にも、彼を突き落としたら・・・どうなるかなあ?ためしに考えるんだけど恐ろしい、自分の中の暴力性が、「強くなった今」(強くというより始めて大切にされたんだろうけどね)暴れてきそうだった。
<1992> ぺあ ■2007年10月11日 木曜日 21時51分42秒
 思い出したんだ、この間。そういえば私は、子供の頃から大学卒業するあたりまで、ずっと、他者って失敗コース歩いている「可哀想な」人たちだって思っていた。私が気にかけて助けてあげないと、失敗すると思っていた。皆無防備だから、失恋とか死んだり、病気になるんだって、ホームレスになるんだって思っていた。
 他者には人間って感覚がなくて、我慢とかさせてはいけなくて、忍耐もなく、辛いこと(待ち合わせに待ったり、我慢したり)をさせてはいけない、「赤ちゃん」のような存在だと思っていた。私だけが彼の彼女の代わりに背負って、我慢して大きなごみばこに彼女たちのものを背負って入れてもらって我慢し続けて生きるべきなんだって思っていた。私ほどの忍耐して生きさせてはいけない。だから、私と同じような忍耐をする人、同じ感覚で生きている人なんて絶対にこの世にいないと思っていたんだ。
 ここにきて、他者の気持ちに最後まで最後の最後まで、気にかけて、責任もって、すごく下手に出てくれるというか、優しくて他者の責任を負ってくれる人を見たのは初めてだった。視覚障害を持った方でそういう優しい方はいたけど。冗談言ったり、一方的にがーがー言って、「傷ついた」と私が言えば、「こんなことごときで?」「はあ?お前いい加減にしろよ、ありえない」「冗談分かりなさい」「そんなつもりじゃないし!」そういう風に言う人しかいなかったから。そういう人ばっかだった気がする。
 「社会常識無い」「社会で適応できなそう」「もっと人の話し聞きなさい!」「冗談通じない!」「OOと似ている、ほんと冗談通じない。もっと冗談わかれよ」「OOちゃんにそんなことできるの〜?」卵焼き作ったら「OOちゃんにもできるんだ」私のやったことに対して「そんなこと誰でもできるし」大学で言われまくった同じ年か年下によ。本当に私は「明るい」人間になりたくて、どれほど無理して自分作って、其のたびに人格のない人に捕まって、言われたい放題だったことか!!!!
 「そんなつもりじゃなかった」「本当にOOちゃんって突っ込まれるの嫌なんだ〜、皆をまとめるためにいじり役作っただけだ」とか、本当に本当におごっている態度とられまくった。そんなことばっかりだった。何で?何でなんだろうね?気が弱いから子供時代はいじめられて、「もっといやならはっきり言え!」ってすべての人から言われて、今度は気が強くなれば「適応できない〜」「わがまま〜」「おちょくってやれ〜、あいつ何言っても傷つかないキャラだから、絶対」とか言われまくった。
 人間社会って本当にどつぼにはまると、だめですね。変な人とは深く付き合わない。大切にしてくれる尊敬できる人を付き合う。きちんとそれをしないと、かすばっかりくっついてくるね。人間を平等に見るのは当たり前だけど、それでもやっぱり魂のレベルが低い人っているよな〜って思う。なんていえばいいんだろう、どう考えても人格的に劣る人、性格いやな奴、まあ、レベル低いやつ。品格の無い人っていえるかな?そういう人とは手を切って、もっと自分がのびのびと自由な気持ちで楽しく一緒に過ごせる人としか普通は付き合わないよな〜。全くもって人付き合いが広いようで下手くそだった私だ。
<1991> ぺあ(FB注意) ■2007年10月10日 水曜日 11時06分37秒
 思えば、子供時代安心して生きられたことなんぞ、ほとんど無かった。学校に行けば、私の弱さを食い物にしようと狙う子供の餌食だった。一生懸命頑張っていることや、ちょっと自分に酔って植物に話しかけていると、姉にめっちゃめっちゃ馬鹿にされていた。
 今、新聞読みながらまた心のどこかで自傷していた。今回は、目の下のふちのところをがりって手でひっかくようなことを想像するんだ。気持ち悪い、でもそれが、常に他者に与えられている私には、自分で自分のやりたいタイミングでやるほうが、数千倍も良かったの。
 自傷始めたのは、学校で不安定な状況を自分で支配するためなんだ。でも、とまんなくなっちゃった。自分で自分を支配するなんて、できることじゃなかったのかな。ハイヤーパワーにもし任せたら私はやっぱり仕事なんかできない、最低まで落ちてしまう気がする。電車だってハイヤーパワーに任せたら乗れないかもしれない。それでも仕事したいよ。でも自傷は子供の頃のように今だとまらないんだ。
 がつってやるイメージ。
 安心したかった。でも、いつも警戒心をピークにして、学校では生きないといけなかったし、家に帰ったらまた別の警戒心「父の機嫌を探る」「母の悲しみを見つけては父とぶつからないようにする」皆に「明るい私」以外の自分の情報を絶対に見つかられないようにする。根掘り葉掘り母から聞かれそうで恐怖だった。学校でいじめられまくっているの。あの子に耳にありいれられたの。今日もあの子にぶたれて「ば〜か」って笑われたの。怖かったの。あの子達3人に椅子を座ろうとしたら思いっきり下げられて、しりもちついちゃった、本当にびっくりしたし、本当に痛かったよう。怖かったよ、怖かったよ。
<1990> ぺあ(FB注意) ■2007年10月07日 日曜日 22時36分48秒
 私の中には「幸せになってはいけない」という私の欲望押さえつけさんがいらっしゃる。
 私の中には男言葉を使う男がいて、「俺はよう・・・」「ふざっけんな」って私が怖くなるような人がいる。
 私は未だに自傷をとめられない。そうやって、自分を危険な、恐ろしい現実から身を守って生きてきたから、ついでに期待をすぐにつぶされたりすることからも身を守ってきた、きてくれた。

 私は未だに右耳が痛む。痛いのは、弱い人を見たとき。痛むのは、大好きなものをなでる時。痛むのは怖いとき、駅に行ったとき。どうしたらいいのか分からない時。
 今は、父の部屋で父にあげたガラスのつぼ押しを性器につっこむ想像したり、右耳に突っ込む想像をする。痛いし、気持ち悪いし、悲しいし、辛くて怖い。こういう感情を他者に他者の意のままに他者の気まぐれで学校の中にいるときに、され続けてきたから、私は14の時から今のまままでやっている
<1989> ぺあ(FB注意) ■2007年10月07日 日曜日 21時33分15秒
働きたい。それで、今日、散々引き伸ばして締め切り直前に書類提出した。
郵便局に行く予定が、電車の中でまた身体がしびれてきてしまった。「怖いよ怖いよ怖いよ怖いよ怖いよ」って私の中で泣いている、もう怯えきっている子がいて、怖いよって。私はもう我慢ばかりして生きてきて、何にも感じないようにして、私の中の怯えきっている子を殺すような生き方をしてきた。

 無視して、意識ぶっ飛ばして、演劇なんかやって、面白くないばか集団の中にいて、「華やかな大学生活送っているふり」いつもの通りしていた。

 私の中に怯えている子が怖いよって言うから、もう一駅で降りちゃった。郵便局は後10駅。無理だね。だから、そこのコンビニの方に適当に500円もの切って買って、速達って赤ペンで書いて、ポストに投函。
 もう知りません。後はどうでもよか。あ〜あ、こんなんじゃ、そこの面接だって無理かも。予定決められると、それだけで「もういやもういや、どこまで私はがんばればいいのようぅぅ!!!!!!!!」っていう私の中の憤り、悲しみ、パニックが襲ってくる。
 結局、どんなに祖父と父が言うように「頑張れば不可能なことは無い、できないのはお前の頑張りが足りない。」っていう教えにそって、心の傷を癒すために、大学に行って、言いたくもない過去を言いたくもない場所(研究室)で言ってきて、解消させようとしても・・・・人から気持ち悪がられ、避けられ、教授には「あなたのこういうところがいけない、何で自信ないの?なんとか自分で家族の関係変えなさい」とか散々言われ、友人にも「もっと人の話し聞きなさい!」「もっとこうしなさい。もっと言いなさい」ばっかりだった。
 頑張った。やりたくもない実習に行って、担当に意識とぶほど怒鳴られた。それなのに、まだこの家族でひきずってきた「私がもうすぐ自殺しそうなほど辛いあなたを背負わないとね、苦しいね分かっているよ」役を、ひどいことされているのに、それに目をつぶって、やってきた。言葉にはできないよ。境界線のなさ、常に相手が崩れそうな不安、相手の責任をおっかぶさる毎日。
 で、卒論で結局何もできなかったから、したくもなかったけど、最後もう一回のリベンジで「泣いた」、そうしたら過去の傷も癒え、意味の分からない世界も分かるかと思った。そんなことしたくもなかった。でも、泣いた。案の定ひかれた。家族にも言った「私の自立なんか望んでいないでしょ?」って。当たり障りの無い会話はもう無理だった。そしたら、父に「あいつがおかしくなった」だって・・・母から聞いた。姉にも母にも「あの子就職うまくいかないから狂った!」っていう目で見られた。
 もう無理だって思った。もうこの家族に本音は通じない。
 そして、当たり障りの無い「明るいふり」をしていって・・・姉の結婚式なんかまじ行きたくなかった。遠くであげるとか行って、あの新幹線に家族とのるならば、私は「笑って嬉しいふり」をして、憎んでいる姉への憎悪や怒りこんな感情持つことを許さないけど、それでもでてくる思いは腕に持ってきたカッターで思いっきり刺して、刺して、刺して、この腕にぶつけようと思ってた。そうしたら、なくなりそうな誰も認めもしない私の思い、形になるから少しでも。
 でもその一週間前に父は自殺した。
 そして私は自殺って知らなかったので、父が死んで結婚式に行かなくて済んだことだけに最初ほっとした。
 それでも、今出てくる思いは、あんなに頑張ったのに、あんなに親の目のために「ふつう」演じて、心殺してはりついたような笑い浮かべて、子供時代を難なく変な風に周囲や特にここの同居する祖父母に知られず、いい大学に入ったことだけ祖父は知って死んでいったから。あんなに頑張って、それでも自分の中の意味の分からなさ、自傷の意味を知るために、あんなに恥かいて、教育実習なんかに行って、それでも待っていたのは父に死なれること、父の躁うつ病をはじめて知ることだった。
 もう私の中の子供はもう嫌って泣いているんだと思う。
 そのくせ、父が亡くなって、本当に楽になったとも思っているし、母は「何にも見ない振りして」生きる天才だから、「ばかじゃん、ざまあ」って私は思っているし、姉にも同様に思っている。
<1988> ぺあ(FB注意) ■2007年10月07日 日曜日 21時11分52秒
 右肩が痛くて、何か悪い病気かな・・・って思っている。10月は乳がん予防月間で、ちょっとひきつり感があって、心配・・・。私の想像力はすごくて、ぴきぴき痛むだけでも、あ、もう回ったなとか思ってしまう。
 昔はもっとひどかった。身体的に虐待を学校で受けることも多かったし、私の健康への恐怖感もあった。
 子供の頃って怖いものだらけだったな。
 そのなかで私は寂しそうな父の背中にも、この家族形態にも、注意を払って当然のようにして生きてきたな。
 寂しかったな。
 そんな気持ちさえ、命かけて働きかねを稼ぎ、心を殺されている父にそれでも世話焼きのようにしてくれる、父に悪くて、そんな思いも「贅沢だ」と殺してきたけど。
 自分の思いを殺してきた。現実は自傷でとんだ。だから、自傷する前は14歳だったけど、其の頃から「耳の蟻」のことで頭いっぱいだったし、それに幼い頃に皮膚に良性の腫瘍ができて、それをとる手術とレーザー光線で焼いているから・・・私は小学校5年の夏(あのくそ女に耳にありいれられてからすぐ)休みに、皮膚にできた赤いポッチみたいなできものを見て、「ああ皮膚がんになった」と思った。そもそも良性の腫瘍かどうかも分からなくて、姉に「あんた両親見つけてなかったら手遅れで死んでいたよ」って言ったんだ。だから、姉の勘違いなのか、両親の説明不足なのか、私はずっと3歳くらいの時、皮膚のガンの手術受けたんだと思っていた。でも、母は「それ良性だよ」って言ってくれたけど、父は飲みの席で「この子のあの皮膚のできものにはびっくりした」とか大騒ぎしていたから、よく分からないのよね。
 そういうことも、私の身体への異常な心配と重なっていたのかな。
 今は、乳がん疑っているなんて・・・・私って進歩ないな。それでも、まあ、死を恐れるから怖いんだし、それでも怯えているよりは検診したほうが早いって言うのも分かってきた。
 生きているだけで大変。まったく、悩みもなく、腕白に遊んだ経験のある人(実際にいる彼が)本当にうらやましいよう。
 でも、そういう人から勇気ももらえるが・・・・
 
<1987> ぺあ ■2007年10月06日 土曜日 00時02分32秒
すみません、下記の1986番の書き込みはFB注意です。
<1986> ぺあ ■2007年10月05日 金曜日 18時22分50秒
自閉症だったわたしへという本の著者が書くように、私は人生は味わったり感じたりするものではなく、ふりをするためのものだと思っていた、というくだりは、まさに私だった。おまけに他者のストレスを軽減させ救世主としてピエロとして振る舞い続けることだった、まさしく。私は仕事がしたい、自信もつくし、でも私の中の子供は「耳が痛いよ、怖いよ。痛いよいやだいやだ休みたい」とパニック寸前なくらいに騒ぎ立てている。大人な私はずっと、私を守るたてとして私がいじめられたあたりから10つになって、「鼻変形人」に耳にあり入れられたあたりからいてくれて、私にどんなにつらくても、今は学校行って周りにあわせようね、とか、この家族も学校も守りはしてくれないから、もう少しがんばるんだよって支え、いじめられたら意識とばして耐えたけど、そんな私でさえ「愛しているよ」って包んでくれた。 その大人の私が仕事はしよう、自分のためにがんばろうって私に言う。でも私の中の子供は、もういやだいやだいやだがんばっても父の棺桶の死に顔みないといけない現実しかなかった、もう無理もういやどれほどがんばっても実習ではまた共依存になり怒鳴られ意識とばして耐えた、もういやだよと泣いている、いじめ研究どんなにがんばって過去の恥さらしを大学でしても、教授には、何でぇ自信ないのぉ?とか言われ、皆に白い目で見られる、思い出したよ、私卒論書いているときもあまりの自信のなさに意識とばしていた。前の二股公認させた彼氏が4つ下の一年とできてラブラブな姿やあの子の名前頭一杯にして、過去のつらいこと暴露しないといけない論文を冬に一人で、自分は頭おかしいんじゃないかと思いながらパソコンに打っていた。終わった後の要約でさえ私は自分の書いた論文の題名さえうろ覚えだった、私は適当なんかじゃないんだ、上から見ていて誰かの反撃やからかいばかにしから身を守るようにして、あの真剣な私はうそだったんだよって言えるようにして生きているんだ。大学受験でさえ、殺人事件の犠牲になったこどもの名前を頭の中でかけ巡らせながら自傷しながらうけた。私いっつもバカにされて当たり前だったから現実参加を心からするのが怖いの
<1985> ぺあ(FB注意) ■2007年10月05日 金曜日 17時51分55秒
恐ろしいことに、私は意識さえとばせば他者からなにされても受け止められるし、崩れないし、私は抜け殻だからなにやられても自分の感情はないから、相手の意のままにはならない、と思っていたんだ。意識が完全にとんで上から私を見ていたのは、私の意識が私から飛び出して上から見下ろしていたのは、22の時、婚約者いるけど好きだと熱烈に言われ、突然キスされた時。また23の時、教育実習で最終日に担当教員から授業後にクラスの子供全員の前で、「授業わかる人て挙げて」と審査され、ものすごい怒りをぶちまけられた時。「やめなさ〜い!あんた次の研究授業失敗するよ!!!ふざけんな!」ってすごい怒声が聞こえた。私は意識飛んでいた。上から子供と立ち尽くした私を私は意識飛び出して見ていた。抜け殻の私がいた。10歳からたえず学校でいじめの脅威にさらされて、守ってくれる場なんかなかった、喜んでばかにし大笑いする場はあったけど。泣きたくても泣けなくてトイレで声を押し殺し、後で家族にばれない顔に戻れる程度にだけ泣いて毎日泣いて、おもいっきり泣ける場がいつかあることを夢見て、またいつか私自身を誰かが大切にしてくれる日がくるのを夢見て、気が強くなれて私を笑い物にしないで、私の大切な心を侵犯されない日がくるのを夢見て生きてきた。ずっと。物心つく頃から安心なんかしたことない、繕うことだけに全身全霊傾けて、暴力を私が悪いと思わせながら子供の暴行を甘んじてうけ、自傷しか守る方法はなかった。こんな風に育ったから意識とびやすいの?私が意識とびやすいってことは私はあの薬剤師のいうようなセロトニン不足の脳をしているんじゃないだろうか?今電車やバスが私怖いの。あの一斉に私を見る視線は実習の頭おかしい人間を見るこどもと教師の視線だよ。怖いの。一度決められたら逃げ出せない、私のコントロール下にない、そしたら私はまたおさえて暴力と一斉の集団の憎しみを背負わないといけない、自傷してとばすしかないよ。
<1984> みゅー ■2007年10月05日 金曜日 16時36分55秒
何日か前にTVで「乳がんについて」特集やってて、真面目に見ちゃった。前は「別に死んだってかまわないし・・・」とか「別に誰も悲しまないっしょ」、「あたしがいなくなった方がいいんぢゃん」とか思ってた。
「自分で出来るブレストケア」っていうのTVのとうりにやってたら、押しすぎたのか胸痛くなっちゃった。したらね、なんか、からだが「ぶるぶる・・・」してきて腰ぬけた。「ガンかな。やだよ。死ぬのこわいよ。」って思った。

「死ぬのこわい」とか、こんなに震えて、腰ぬかすほど思ったことって今までなかったかもしれない。今までは「あたしなんて死んじゃえば〜?」って思うこと多かったし、実際、死ぬこと目指してたし。
そのTV観た後、夜ゴハン食べるのに、おはし持つ手、震えるし、ナベのふた、ガラガラ落としまくるし、しまいには「さっきの観て、腰ぬけて、手も震えてんだけど」って、お母さんに弱み、はいてしまったよ・・・。

お役所も不親切になったもんだな。前は市役所に「乳がん、子宮がん検診」の登録したら2年は検診期間があったし、しかもサービス料金でO.Kだったのにね。
「ほとんどタダなのに、半年以内に行けってのは無理でしょ!」って真面目に怒ったし、「今年も逃してしまった・・・。でも無理だよ・・・。せめて1年は設けてくれないとさぁ・・・。」って自分自身にも怒ったけど。
「生きてる」って、こうゆうことなのかなぁ・・・。

外からは、小さい子供達の遊ぶ声が聞こえる。みんな外で遊びたいんだよね。子供はみんな、外かけったりしたいんだよね。
子供は大きな声出して笑ったり、アニメのこと話したいんだよね。みんなきこえるよ。すごく平和だと思う。これが、ずっと変わらない子供のあるべき姿なんだと思う。あたしには、なかった姿。でも外の子供達の声は、すごく平和。
<1983> ぺあ ■2007年10月05日 金曜日 11時12分36秒
大学前にしてようやく、人として大切にされて当たり前になって、私は驚いた、感動した。
それを大学の人にいったら、ものすごい驚かれた。今までどんな扱いうけていたの?って本当に驚かれていた。
<1982> ぺあ(FB注意) ■2007年10月05日 金曜日 11時10分52秒
 私って、びっくりすると、意識とばすの。
びっくりするだけで、「びっくりした!」って相手に言えばいいのに、私は意識飛ばして、にっこり現実世界で笑ったの。
 好きじゃなかったのかな?私。何で彼(二股公認で好きすき迫ってきたうざい男)にキスされたときに、いやだ!とか言わずに、にっこり笑っていたのかな?恐ろしいことに私の意識は飛んで、飛べば、もう何されても私は怖くなかった。だって、私はいないから。私は、意識とばしてもう抜け殻で、そんな私に何やっても怖いものなしだから。いや、自分さえ自分にいじめっこに「もっとやれやれ!」って思っていた気がする。
 果てしないいじめ(からかい子供の怒りのエスカレートするものが私には見えた、それも子供は伝染しやすいから皆に伝わって、こいつ何やってもいいよ〜って言われていた)、いつ爆発するかわからない子供の暇もてあました思い、弱くて何も言えない者かどうか見定める視線。私大学入試の日、私という存在を見て「こいつは弱そう」っていう目で見ないで、私に道を教えてくれた大人に感動したもの。私って大切に扱われて当たり前の時きたんだって本当に感激した。
 思い出した。思い出したよ。私には何言っても世界が通じず、私は子供たちからの暴力を意識飛ばして、耐えてきたんだ。また、家族の中でも、意識飛ばして、親代わりをしていたんだ。お母さんのお父さんのお姉ちゃんのいらいらを和らげるために笑わせる、おばあちゃんのおじいちゃんの寂しさ埋めるために、元気なふりをする。
 正直な思いは死んでも出せない家族だった。なぜなら、私は私は、いっぱい欲しいもの買い与えてもらえるから、ずるいから、お金もらっているから、こんなにおこずかいも、旅行もスキーも連れて行ってもらっているから。お前は何が不満なんだ、俺がしぬほど頑張ってこれだけのことやってやってんのに!お前は何が不満なんだってずっとそういう視線で父に父の怒りや悲しみの想いが転化されて、私に向かってきたから。
 おとうさんが毎日ずりさがりそうな姿勢でテレビ見ているのが悲しくて、「毎日テレビばっかり見るな」って私言ったんだよね。失礼な話しかも知れないけど。そうしたら、父は激怒して、私がテレビを見ようとしたら、コンセントの電源から抜いた。私のお風呂も湯沸かし器の電源を切った。朝ごはんを母が学校行く前に用意していたら、「もうあいつにはご飯やるな!」って言っていた。目が怒っていた。こういう父だった。私はいつもここでは感情の交流はないと思っていた。高校で私が友人に家族と喧嘩して、もう私切り捨てられるかもっ、ずっと許しても仲直りもできないかもっ泣いて言ったら、その子は「家族なんだからありえないじゃん。平気に決まっているジャン?」ってものすごい不思議な顔をした。
 私が好きじゃない男に勝手にキスされたとき、私意識飛ばしたの。思えば、ずっと自分の意識軽く飛ばして、感情感じないようにして、ピエロみたいに公共物のように笑い続けた私は。そんなにこにこしている私を好きって言ったのが、その二股公認迫るうざい男だった。
 私意識が飛びやすいって恐ろしいことだよね?訳分からなくなると、とりあえず私は自分を消して、周りの舞台に顔だけは合わせるの。そうなの。ずっと、そうやって生きてきた。そういう自分を消そう消そうとし、周りを大切にする私の弱さを見抜く人は沢山いて、そういう人に目をつけられては心をいじられ、いっぱい境界線を犯されてきた。
<1981> ぺあ ■2007年10月04日 木曜日 21時51分02秒
きっと、ここに書き込みしまくっていること姉知ったら、開口一番「暇人!」って言うだろうな。「ひまでいいね〜」ってイヤミたらたらに言うの。それがもう頭の中を駆け巡り続けている。お前はひまじんだな〜って。

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This script written by Shintaro Wakayama.