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私たちの物語 - 嗜癖・依存症・過去ログ No.20
メッセージ数:400件

<400> さなえ ■2007年03月25日 日曜日 23時41分11秒
ネット依存症あり。ひきこもりに伴う耐え難い寂しさ・空虚感をうめるため過食したり顔の見えない色んな人とメールしたりする。男の子って何でこんなに立て続けに携帯メールするんだろうと思いながらやめることができない。よせばいいのに昨日など向こうのペースにのせられだらだら続けた挙句やりとりを断られた。あっちは軽くもてあそんだつもりだったのだろうがわたしは必死になってしまう。イラついて悔しかったので断られた腹いせに嫌がらせメールを沢山送りつけた。悲しくなり泣いて自暴自棄、男性不信が増す。それなのに経験のない上愛情や体温を求めるから、たち悪い。そういう自分と男性への憎しみや嫌悪、この世の男女関係全て否認したい要求から売春していたこともある。またやるかもしれない 食欲も性欲も無いロボットになれたらいいのに。どなたか同じ様に悩んでいる女性はいませんか・・・
<399> とら ■2007年03月22日 木曜日 17時23分57秒
398の続き
去年の10月、ある精神化総合病院へ緊急入院した。リスパダールによる副作用で体が硬直し、パニックになったからだ。精神的、身体的限界のため、やもえず、師匠の指示に従った。欝と対人恐怖症、ぶり返した共依存症をきちんと治すためだ。入院当初は体が硬直し、人が怖く、周りからはロボットみたいだねと言われた。仕方が無い、体が言うことを利かず、人に話しかけられるとかなり緊張する。それでも親切な女の子が二人いて、本の世界にはまっていた、俺にやさしく話しかけてくれた。俺に対する偏見は一切なく、タバコを吸うことを進めてくれた。俺にとってはショックなことだったが、少しだけ悪いことをするのがいいことのように思えた。タバコを吸うと気持ちが落ち着いた。自分の中の不良性を認めると気持ちが楽になった。世間では当たり前にことである。俺の心の中の法律では、絶対にしていけないことだった。それを破ってみたら、結構良かった。気持ちが良かった。昔、入っていたこんちき宗教Jの影響を断ち切ることになった。いえい。これでやったまともな人間になれる。世間様と同等になれる。そう思った。これがきっかけになり、人と話すことに興味を持ち出す。思い切ってやってみると簡単だった。もちろん、距離は気をつけた。境界線の感覚は体験で学ばねばならない。入院した、一日、一日が共依存を克服するための訓練だと思い、自分の心に正直になり、率直に自分の気持ちを入院仲間にいってみた。それが面白いように通る。共感してもらえる。とてもうれしかった。だんだん親しくなってゆく。お互いに精神病である。共通点が多い。会話もそれ以外の過去の経験にまで及び、かなり親密なことまで話し合い、その話し合いは寝る前まで続いた。そのたびに入院仲間からの愛を感じた。日に日にインナーチャイルドが自由になる気がする。続く
<398> とら ■2007年03月19日 月曜日 09時58分55秒
最もひどかったのが、宗教に対する共依存だった。13年もどっぷり漬かっていた。この宗教ではかなりの実力者になっていた。戸別訪問はお手の物で、宗教に関する質問なら簡単に答えることができた。でも、それ以外のことはあまり話せない。対人関係も下手である。3人目の彼女とつきある前に脱退したが、依然として考え方が治らない。そこで、宗教から回復した人の経験をネットで読んでみる。マインドコントロールに関する本や、他の宗教の本を読めと書いてある。俺は図書館に行って、そのとおりした。必死だった。
それと同時に、アファメーションを頑張った。心が元気になっていく感じがする。このときは借金が払えず、会社は倒産、借金取りに追われた。でも、不思議なことに元気だった。やがて、師匠が俺を助けるために介入し、生活保護の手続きをすばやくやってくれた。自己破産も奇跡的に通る。後は手数料を毎月、分割で払うだけだ。生活が治療を中心に回りだす、運が好転しだした。大変な生き方はやっと終わった。生活は質素なものになった。もう、PCはない。ネットはできない。車は無い。生活は車から歩く生活へ。料理もヘルシーなもので安くあがるもの考えざる得なくなった。内緒で貯金を始めた。将来に対する投資である。Aクリニックに約7年通っていたが、回復のつめが進まない。そこの医師の処方でリスパダールを飲むが、体が硬直する。心臓がどきどきし、苦しくなった
。体が動かない。欝再発、対人恐怖症悪化、共依存再発。地獄だ。そんな要素を見かね、
ししょうがまた介入、K第一病院へ入院。貯金はそこでの生活費とまかなうのに十分だった。まあ、このための貯金だったのだ。続く
<397> とら ■2007年03月19日 月曜日 09時38分34秒
かつて付き合った3人目の彼女との関係。俺は共依存からだいぶ回復し、彼女の兄貴もしくは父親をやっていた。俺は以前の彼女で共依存について学んでいたので、3人目の彼女を回復させるサポートをしたいと思っていた。彼女は無職でアルバイトもできないぐらいだった。そのとき。俺は借金をしながら、小さな会社を経営していた。彼女は電話で雇って欲しいと言ってきた。そこで、簡単な仕事を与えることにした。ネットで評判のいいサイトのマーケティングをするというしごと。彼女はパソコンができ、ネットもお手の物だった。必要経費はすべて俺もち。すぐに銀行に振り込んだ。彼女は自分でできずに、友達とインターネットカフェで仕事をしている。そこで俺はあなたの仕事なのであなたのちからでやりなさいといった。その後彼女に秘書の仕事を与える。関東へ出張した時に、彼女はすばやくホテルを予約してくれた。大変手際が良かったし、俺は感謝した。そのことをきちんと彼女に伝えることができた。また、関係を持った。ただ、彼女が問題だったのは異性との関係で、簡単に交渉に応じてしまうことだった。それでいて、心から親密になれない。俺は冷静に考えて聞いてみた。俺を本当に彼氏だと思うかと。彼女はそう思えないといった。こんなんじゃだめである。彼女は俺に父親を求めていた。年齢が7つ年下である。まだ、精神的に成長する必要があるなあと感じた俺は、悩んだ末、別れた。というより、逃げた。別れた後、親戚の家に行き、おじさんに話すが、けげんな顔をする。キネシオロジーと言う治療を受けたとき、先生に相談すると、じゃあ、自分の体に聞いてみましょうと言われ、自問するように言われた。体が硬直する。つまり、別れたいとの反応
。俺の行動は自分自身に正直だったのだ。なんかほっとした。今回は軽い共依存だったのだ。まあ、よくやったと思う。今回の経験で、インナーチャイルドが15歳から25歳まで成長したと思った。今回の経験で、自分に本当に合う女性は、インナーチャイルドが20歳から25歳の女性じゃなきゃだめ、また、自分のことを笑う余裕のある女性じゃなきゃだめだと感じた。でも、まあ、結婚する気がうせた。しばらく、独身で良いやと思った。
でもまだ、問題が残っていた。ある宗教でできたトラウマを癒す必要だった。独身時代、
俺はこのトラウマを癒すことの全力を傾けた。ネットにはまり、この宗教に関する事実を集めた。俺の思うとおり、この宗教は偽善的だった。
<396> とら ■2007年03月19日 月曜日 09時09分00秒
かつて付き合った2人目の彼女との関係の話。まあ、共依存同士だったと思う。最初は俺が子供で、彼女が母親をやっていた。俺は自己中で、うっとしいと思いながらも、彼女の手厚い世話を受ける。俺は無職で彼女は会社勤め、会社から帰ると必ず、30分、俺に電話をかけ、俺の話を聞く。おかげで、俺は精神的に成長したが、(3歳から15歳、インナーチャイルド)俺が強くなった後、俺は彼女を結構責めてしまった。彼女の感情に対する配慮ができず、彼女は俺の指摘を受けると体調を崩した。親密な関係も俺が甘えたいばかりのためやっていたと思う。彼女がしたいときはあまり積極的には応じられなかった。今思うと共依存だったのだなあ。そんな関係だったので、俺は彼女を嫌いになり、徐々に距離をとり始めた。彼女は俺より宗教をとった。そこで、俺は彼女と別れることを決意し、一晩寝ずに考えて、翌朝、9時に電話して、一言、「別れよう」と言った。
泣きたい気持ちと裏切られた気持ち、このままではだめだと言う気持ち。そんな気持ちが複雑に絡み合い、心が無感覚になった。別れの電話の後、なぜかすっきりした。こうして
共依存関係は終わった。自分自身が好きになった。彼女と関係があるときは自分自身が嫌いだった。こんな過去がある。今、依存的な女性と自立している女性を見分けることができるし、好きなる女性は自立しようとしている人か、自立している人である。もう過去はこりごりだ。この経験を通して、共依存症の女性の気持ちが良く理解できるようになったし、回復を助けることができると思う。俺自身も共依存だった。今は、あまり無いと思う。共依存は異性関係から学び、経験を通して回復すると思う。そう感じます。
<395> とら ■2007年03月10日 土曜日 19時41分53秒
現在、タバコ依存から回復中。禁煙日が金曜日。数本吸ってそのあと絶対禁煙。翌日かなり反動が来る。一箱すってまう。でも、前より吸いたくなくなってきた。自分の意思でコントロールできるようになってきた。禁煙が習慣になるようだ。そんな習慣を今作っている。友人たちにも家族にも3月でやめると言っている。これもアファメーション、自己肯定なんだ。身体的に、心理的に良くなりたい、そんな願いが強くなる。きっと、Kちゃんもそういうに違いない。タバコを吸う、女友達にも言われた。そん時、あんたもね、といってやったが。。。
 とにかく、吸いたくなったら書く、水を飲む、ほかの事に集中する。そして、だめなら吸う。これを繰り返す。馬鹿のように繰り返す。体で感覚で、やめるしかないよ。また、吸いたくなってきた。やば!!
<394> かん ■2007年03月04日 日曜日 10時06分50秒
ACと共依存であることを知ったのはほんの数ヶ月前。自分の家族も見事にあてはまり全員が同じ苦しみであることがわかった。わかった瞬間に結婚がこわくなった。今までまとまな恋愛関係はないに等しいためとこういう自分に自信がないことも事実だ。しかし、日常はなんなく過ごしているのでそれほど支障はないがたまにむなしくなり常に何かしてないと不安でしょうがなくなる。死ぬこともできないし、友達もごくわずかしかいないのでとまどう。だから、常に一人で行動し自分で見たものを楽しもうとするが心から楽しむことができない。何のための人生なのかたまに考えることがある。自分を責めすぎてはいけないが、褒め過ぎてもいけない。心のバランスを保つにはどうすればいいのか日々考えてみようかと思う。
<393> とら ■2007年03月04日 日曜日 02時00分15秒
4人目の彼女?であるKちゃんは今、体調がよくない。統合失調症でまだリハビリをしている。俺はたまにしか会えない。ラブレターで気持ちは伝えてあるし、彼女の親友を通して両思いであることは確認済みである。後は彼女の回復しだいなのだ。それまで俺は自分をさらに磨くことに決めた。いい彼氏になるぞ、きちんと仕事をしよう。趣味を楽しもう、友人たちとカラオケに行こう。
現在、かなり落ち着いて、彼女の回復を待っている。もちろん大変なときはここで書き込む。そうやって心のバランスを保っているんだ。だからずっとまっている。Kちゃんが回復するまで、彼女の笑顔を想像しながら、彼女との会話を思い出しながら、もうデートコースの下見をしてある。遊びによくO須にいく、落語、パチスロ(もうやめた)、おいしいRバーガー、その他。たくさんの人々の出会い。たくさんの人とのふれあい。生きていてとても楽しい。こんないきさつで、自分を愛し、Kちゃんを愛し、他の人を心から愛せるようになった。現在は、人がぜんぜん怖くない。むしろ、堂々としている。そんな俺を周りの人は冗談で会長と呼ぶ、悪くないねえ。いい響きだ。入院していたとき、俺は男女すべての人の相談にのった。ぜんぜん疲れない。境界線の引き方がとてもうまくなったし、簡単に人の心が読める。あるひとは、寅さんは洞察力がありますねとほめてくれる。心はいつも穏やか、でも高速で回転する。自己肯定間がとても強い。喧嘩しても口喧嘩で勝ってしまう。負け知らずになった。入院中、少林寺をK村さんから習う。簡単な護身術を身につけた。これで自分とKちゃんを守れるなあ。今はそう思う。
<392> とら ■2007年03月04日 日曜日 01時39分38秒
3人目の彼女に出会ったのは、このサイトだった。かなりべたべたされたのは、まいったが、愛らしさを感じた。最初は、気楽な仲間だった。よくお互いにレスしあった。共依存であることはうすうすかんじていたが、だんだん惹かれていたことは認めよう。あるとき、ここのチャットでタイミングが合い、こちらの電話番号を教えた。どきどきした。電話をかけた。音楽で共通点があった。彼女は頻繁にメールを送ってきた。俺は大雑把なので、すべてのメールに返事はできない。そのうち、電話がかかってきた。メール見たってね?全部に返事すればよかったんだけど、しんどかった。だからめぼしいものだけ、返事した。重要と思えるメールの返事をした。あれが思えば、共依存だったんだな。俺もそこでしんどいったんだけど、あっちはぜんぜんお構いなし、自己中だった。自分しか見えない。俺って、君の何なんだろうと正直思ったよ。でも、俺って、NOって言えない。これは俺も依存していたんだと思う。そんな感じで二人ともべったり。見事な共依存カップル。そこには本当の親密さが無かった。苛立ちを感じながらも、嫌われたくないと感じ、平気な振りをする。メール、電話なら嘘をつくことも簡単だ。そんな感じで、自分と彼女を騙した。そうすると変に気持ちよくなってくる。そうしているうちに、会いたくなり、彼女の元へ、新幹線に飛び乗って、駆けつけた。そしてビジネスホテルであった。関係を持った。そんな当たりなると、親密さも感じた。だから、共依存と親密さと両方あったんだな。だから楽しかった。でもあれこれ細かいことに世話を焼く彼女に腹が立ち、「髭剃りくらい、自分でするからいい!」と怒ってしまった。彼女はすごく嫌な顔をする。自分が見捨てられた感じがあったんだろうな。関係を持っているときも、「そこまで、親密になりたくない」とかいうし、こちらはあ????俺はもう振ることに決めた。ホテルを出た後、東京の親戚の家へ逃げた。一息つく。親戚のおじに彼女のことを話すが、怪訝そうだ。もともとキネシオロジーという治療を受けるつもりでいた。そこでも彼女のことを話すと分からないって感じで、先生は言う。そこでは、体反射で、魂の声が聞けるらしいとうことで、彼女とはソウルメイトでしょうか?聞いてみた。体はそうとは言わず、緊張している。つまり、いいえなんだ。先生は笑いながら、もう彼女との縁は切ったいいです。と言い、2年後に将来のパートナーが現れますよと俺に言うに導いた。体って、深い心と&#32363;がり、将来のことまで、体の反射で理解できるんだ。もう、彼女とは会わん。そう感じ、叔父からお金をもらい(もうお金がほとんど無かった)新幹線に飛び乗った。つまり逃げたんだ。体も調子悪くなり、心身症になった。PCに向かうのが怖い。彼女は、俺のHPの掲示板を通して怒りを言ってくる。もう限界。俺はHPを閉じた。
そんないきさつで、寛恕との関係は終わった。いや、終わらせた。つまり、フッタ。申し訳なかった。もう体がぼろぼろ。ふらふらになる。師匠が間に入り、約20000円払って(精神的慰謝料)終わった。涙が出てきた。本当の恋じゃなかったんだ。それから女性恐怖症になり、今の彼女や女友達に会うまではずっと人が怖かった。親密になるのがいや。人を愛することなんてできるわけが無いと信じるようになった。長い時間、孤独になりながら、欝になりながら、泣きながら、真実の藍について考える。心で感じてみる。無感覚。もう心がだめになっていた。ただ生きた幽霊。目的も無く、ただ生きているだけ、ご飯を食べ、トイレへ行って、寝る。性欲も無い。今思えば、EDだったんだ。だから彼女との関係も最後までいかなかった。悪いことをした。でも体は拒んでいたのだよ。共依存、対人恐怖、自分嫌い。罪悪感。しばらく付き合うことになった。ネット依存、本依存、親に依存、自分が無い。そんな抜け殻の状態が去年の10月まで続いた。孤独だった。俺のことをすべて受け入れてくれる大きな心の女性に合う必要があった。K第一病院で、N実ちゃんとJ子ちゃんに会う。彼女らは、よく、Nの事を聞いてくれた。傷ついたんだね、まさ(俺のことを彼女らはこう呼ぶ)救われた気がした。どんなカウンセリングより利いた。泣けてきた。女でできた心の傷は女でしか治せないと実感した。彼女らは既婚者、もとホステス。男の心理をよく経験から知っている。ずいぶん甘えた。心が自由になる。もう共依存が消えていた。親密でいて距離がある、楽である。I'mok,Your oK。ギブアンドテイク。そんな関係を始めて経験した。あああああ、楽だ。そして好きだけど、女友達なんだ。それ以上にはならない自分に驚いた。女性に依存しなくなった。自分がある。そういう気持ちになって、現在の彼女?との交際が始まった。といってもお互いに軽い話をするだけである。それから病気の話をした。お互いに関心を持った。俺は、久しぶり、彼女のことマジでほめた。彼女は照れる。ああ、いい関係だな。これって好きってことかな、お互いに。ぜんぜん楽で、互いに関心を持つが、境界線がきちんとあるよ。とても高揚した。心が生き返る。生きていて楽しい。ご飯がおいしい。生活に活気がある。インナーチャイルドが外へ飛び出ようとする。先生曰く、入院当初に比べて、顔つきが違うぞ、言われる。そうなのだ。俺、愛されている。そしてKちゃんを愛している。そう感じた。前の彼女との関係のような切迫感が無い。脅かされることが無い。Kちゃんは安全な人だ。彼女の中に居場所を見つけた。インスピレーションが俺に言う。この人を好きだと認めろ!!以上。現在に至る。



<391> が ■2007年02月16日 金曜日 19時49分28秒
舐めるとこまでだが、奥底ではスカトロ願望が何度か出たことがありそのときは、おもいきり、便を浴びてるイメージ、少し興奮する
<390> もえぎ ■2007年02月16日 金曜日 11時43分11秒
自分の気持ちに耐え切れないときはそれをやり過ごす方法が他に無い
悲しいね。サミシイネ。かわいそうだね。
わがままで自分勝手だけど止まらないときもある。
仕方ないのよ。
あなたを傷つけたのかも。
優しい人に当たってしまうのも悪いクセだね。
許してくれるんじゃ無いかってこころのどこかで期待して甘えてる。
母親でも無いのに。
もうあなたは許してくれないかもしれないね。
<389> zzz ■2007年02月09日 金曜日 23時38分21秒

<388> もえぎ ■2007年02月06日 火曜日 10時06分02秒
寂しさを埋める方法があまりにも少ない。
依存行動に走るのは単なるクセだ!
ゆっくり深呼吸して本来の自分に戻って
人より遅くてもいい淡々とこなしていこう。
暗い世界に引っ張りこまれるな!
ただ後ろを見なければいいだけ。
でもたとえ振り向くことがあっても自分を責めるな。
<387> もえぎ ■2007年01月15日 月曜日 14時56分55秒
孤独になると何かでごまかしたくなる。
いったいいつまでやるつもり?
私は自分に絶望してる。
建設的に生きたいと願ってもすぐに悪いクセが顔をだす。
さみしいの。ただそれだけ。それを埋める人もものもないんだよ。
こんなに生きてきたのにね。何を学んできたのだろう。
さみしさとつらさばかりが増えてばかりで。
<386> ayako ■2007年01月06日 土曜日 19時04分25秒
何だか手持ちぶさたなこんな日は…テレビもCDも心に響かない。食べてみる。でも手持ちぶさたは消えない。シャワーを浴びてみる。暫くしたら手持ちぶさたになる。Dさんを思い出す、彼の台詞や体温…もう会わない人だけど。kさんとの会話や研修の時のkさんの様子…右翼だったなんて思わなかったよ、好きだったのに。私はkさんと付き合いたかったし、抱き締め合いたかったのに。今だって無いとは言えない…寝たらどんな事になるんだろう…相手に気持が無いから苦しくなるのかな?好きな人と寝るのはどんな気持になるんだろう?気持の無い男と沢山寝たけど快感かどうかしか無かった。そういえば男に良く聞かれた「セックス以外何してるの?」って。関係ないじゃん!と思い「別に…何にもしてない」と答えてた。あの男達は私をヤリマンとしか見て無かったんだな…
<385> みゅー ■2006年12月21日 木曜日 01時37分32秒
もうどうしたらいいかわかんんくぁ印だよ。段階絵でbあったら、誤って頭下げまくって。金原円は言われてないけどそうしなきゃjいつでも気がすまんのだよ。働いてる時もそうだったベア津に世お経うされてない。生活費明け。でもなkんかあたしが原因でなんけあtっときはj分から誤りまくってあっま家族に下げてさげまくって、金はらはなきゃ。家にいらんかtった。なんで、あたしだけいつも頭下げ菜鋸南ないのか。いいちゃんは絶対そんなことしないのに。なんでだろ。あsikinnmotoutyannniなんか強迫手洗いの事バカにされたり、笑われて利、兄ちゃんとか、おかあに何か、どぐぁああーってなった時っていつもとりあえず酒でかたつけてたけど、こんんあにのんでのははさびさ。しかもすきっ腹だし。胸がいてぇ。けど、しょうがないんだ、もうどうにもなんあにんんだよ。しかも夕方にさうくなって、あんなことになって。ぎょうしゃがもっともな事いったって、いかりといっじmrのほこさきは、いつもあたしjyはん。けっきょく兄ちゃんも父ににてんだよ、あのブルジョワなははの父親みたいに、諸っ通おーdぇお買い換えたり、棒ホールにクラシカルムー漆器聴きに行くような、おしゃらさんじゃないしうたりとも。CDだけ家に並んで本物聴きに言ってないじゃん。みーh−だ。なんて兄ちゃんゆうけど。いいいものにみーはーになってなにがわるいんだ・もし、うちのじ^さんがああいう今流行ってる音楽、ジーさんの家に連れてかれるたびレコードやらオーディオが台爆音じゃなかたら、あたしたちだっててだだの、ミーハーだったかもしれないのにl。おこがましいわ。そんなの。;母親の。「あたしが持ってるもの着てるものみんな持ち始めてるって」言ってるまるではたしが流行のさきがけなのにって言ってるははおやとおんなじじゃんよ。たまたまでしょ。全部。普通で何が悪い。ふっつうじゃないでしょ。まず、wたしたちは。せめてもの「無個性の個性でもいいふつうがいい」いとつの個としてふたううになりたい。それが、あたしのまずひとつのねがいだ。ばか^!おかっかの「信じてる」が大嫌いだ!そんな小さい頃からのばくせんとした「しんじてるから」が、何度あたしのあしをとめて、先に行くにも何度も足踏みして結局家にひけかえしたことか!何を持て「しんじてる」なんだ!「なにをしんじてるんだ」
なんで、いつも通知表にあんたは自信のない子だってかいてあんの」あたしは、アンタを自信jのない子に育てたおぼえはないのに」だ。なんで。そやそうだやお。あんたはあたしを自信のない個に育てた覚えはないだろう差ね。あたしだって自身も手なんていわれたおぼえはない。でも、そうしてなきょあけない、家で、父母およろこばせてテレビの真似して利、明るくして家をあんたがいないとお通夜みたいって言われんのがいけないことだったから。学校までそんな全部全部きがまわらないんだよ。気持ちの溶融なんてないのに、小さい頃からそとも打ちも、そこまできなんかつかってらんないよあ。休むところが欲しかったのに。でも、そのころはみんなが笑って喜んでるのが、あたしにてってはうれしかたから。それだけじゃダメなの・がっこうでも先生のいいことかかれてなきゃいけなかったの・?目からは水しかでてこないよ。なんd?どうしてアンタの前置きは「あんたをがっかりさせるようだけど、とかアンタの夢を壊すようだけどなの・?がっかりさせたがってんじゃない!本当は、今アンタが寝てる間にあたしがどんな想いだどんな顔して書いてるかわかんあいでしょ。
なくと酒が抜けるとかな。なんか頭痛くてふらついてたのがまともになってきた。でも、なんで、あの事が2歳の時の事アンタおぼえてんの・?なんて。てkkり4っ津ぐらいの事かと思ってたのに。なんで。先生がいったとうり、やっぱりあたしは「赤ちゃんの時から、もう食べるの恐怖症になってたの。?動く密室恐怖症になてたの?」「みゅーちゃん、お菓子ばっかり食べてる」「それ、お家に帰ってからあけなきゃいけないんだよ」ピンクのリボン、ビニール袋の中には、おまけつくのキャラメル。駄菓子。いわゆるこどもが世ロゴ舞踊菜、たこさんウインナーとかから揚げとか、においだけで、もう気分が悪くて、出たい!早くここから出たい、出してって気も手でいっぱいだた。「白い紙皿に「みゅちゃん、おかしばっかじゃなくて、おかずもちゃんと旅なさい」きんきょのおばさんが私に面前に、たこさんウインナーとからあけどか、持って渡した。でも食べれなかった。息苦しかった。お母さんは部屋の住めっこ。助けて欲しかったのに。せまくて。それともしらなかったのかな。でも母は、知ってた。あたしがその時の事話したら「あんた二歳に時ののことおぼえてんの?!」あたし知ってんだったらなんで声かけて繰んなかったのって思った。
こらってドンだけ書いたかわかないね。きっと見た人、酔っ払いながら酒飲みながらメタくそ書いてばかだんtって。思うんだろうね。でも、きっと誰よりも一番あたしはあたしが一番憎いしだいっきらいだ。
<384> 真名 ■2006年12月09日 土曜日 20時44分29秒
★一部フラバ注意

BKくんに出会ったのは、一昨年の5月終わり。
パソコンでチャットをしたことがきっかけだった。
私はチャットをし始めた頃で、通っていた2軒目のクリニックのデイケアにはつながっていなかった(なかなかデイケアに入れてもらえない所だった)から、まったく異性と話す機会がなかった。
それで、『男の子と話したい』という単純で軽い気持ちからチャットを始めたのだった。

土曜日のある日、チャットをしていた。
いつものように。
最初はその部屋に何人か居たが、次第に抜けていって、最後に私と男の子二人だけになった。
音楽の話とか他愛のない話をしていたと思う。
歳を聞くと「15歳」だと言った。
『若〜い』と思った。
私と11歳も離れている。
それなのに彼は、「メールをしませんか?」と誘ってきた。
私は驚き戸惑った。
「またチャットで会おう」と言ったが彼は「チャットじゃいつ会えるかわからないじゃないですか」と言い、私は納得せざるを得なくなってフリーメールのアドレスを教えた。
『15歳の男の子がメールで私と何話したいんだろう?』と思いながら。
そしてその日の夜か翌日に彼からメールが来て、パソコンでのメールのやり取りが始まった。
毎日、その日あったことや他愛のないことをメールで話した。

ちょうど3ヶ月が経った頃、彼と初顔合わせをした。
土曜の昼間にファミレスでお茶を飲み、カラオケに行った。
容姿も性格も私好みの人だった。
私は恋をした。
彼も同じ気持ちだったらしく、告白されて交際が始まった。

私は幸福な恋愛をした。
今までないほどの、極上の幸福な恋愛を。
将来は結婚を誓い合っていた。

しかし、9ヶ月が経つ頃、彼の気持ちは変わった。
「もう僕は○○を愛していないかもしれない」
という残酷・非情なメールが入った。
私は取り乱して、激昂してしまった。
あれが致命的だったと思う。
もっと落ち着いて、冷静に話をすればよかったと思う。

その前に致命的が2つあった。
気持ちが膨らんだ私は彼に高価な婚約指輪をほしいと言ってしまった。
(ダイヤモンドの0.25カラットくらいの)
「やっぱりいらない」と言ったが彼は「バイトしてるし、いつかは買うものだから」と言い切って買ってくれた。
嬉しかったが、その後の私の行動がまたまずかった。
気分が高揚して、親御さんにその事を手紙で伝えてしまったのだ。
「手紙はやめて」という彼の言葉を無視して・・・
すべてが悪かった。

当然彼は親御さんに問い正される。
親御さんに私が病気だということを伝える。
親御さんの大反対に遭い、彼の気持ちも完全に決まったようだった。
後日、彼のお父さんから電話がかかってきたり、手紙が届いたり、お金が振り
込まれたりして、すべては終わった。

彼の携帯は不通になった。
私は彼の自宅に電話をかけまくった。
彼のお姉さんの携帯に嫌がらせのメールを送った。
警察に通報されて、うちに電話がかかってきた。

いつかは忘れたが彼と話すことができた。
「僕のことは忘れて・・・」と彼は言った。
ここで今、涙が出てきた。
私は心の底から彼を愛していた。
いろんな思い出がある。
しかし、尽くしすぎた面もあり、愛しすぎてしまった・・・
別れの理由を聞くと「勉強とかやらなきゃならないこといっぱいあるから」と言った。
「わかった」と私は言った。
それが彼と話した最後。

その後、私はリストカットやゲーセン通いが頻繁になった。
自分のことなんか、どうでもよくなった。
彼(Kくん)がいないことだけが、どうしようもなく悲しかった。
私は「Kくんが見ていた私」と自分自身を同化させてしまっていたため、彼に振られた時、自分自身が何なのかわからなくなってしまったのだ。
きっとバウンダリー(境界線)が曖昧だったのだろう。

絶望しきった私は、薬という薬を大量に飲み、自殺未遂した。

胃洗浄をしてもらった病院やその前後の記憶がない。
後で母に聞いて初めて知った。
入院した病院(今通っている病院)に行ったことは覚えている。
母が市立病院に相談して紹介してもらった病院だ。
パンフレットを見せられ「行ってみる?」と聞かれた。
「うん」とだけ答えた。

入院中、落ち着いてきた頃彼のお父さん宛に、お詫びとお礼の手紙を書いて送った。
そうしないことには気が済まなかったのだ。

2ヶ月間くらい入院して、退院した。

いつ、彼のことを忘れられたかははっきりと覚えていないが、たぶん今年の3月くらいだろう。
家族や先生、友人たちに支えられて、私は失恋から立ち直ることができた。
本当に感謝している。

まだ回復の途中だけど、これからもあせらずゆっくりとしたペースで着実に良くなっていきたい。



<383> 真名 ■2006年12月09日 土曜日 18時39分32秒
★一部フラバ注意

AHくんに出会ったのは24のころ。
通い始めた1軒目のクリニックで知り合った。
デイケアがあったので、過ごす時間は長かった。
いつも一緒に居ないと、強烈に不安で寂しかった。
姿が見えないと、いつもクリニック内を探して回った。
電話をかけたりもした。

クリニックに通い始めて何ヶ月か過ぎても、私は話す人がいなくて、寂しかった。
そんな時声をかけたのが、Hくんだった。
話を聞いてくれそうな人に思えたからだ。
私は母親代わりを求めていたのだと思う。

私の母親は感情的で、怒りが限界に達すると、布団たたきでお知りを叩くような鬼のような人だったので、私は子供の頃からずっと、相談らしきものをした記憶がほとんどない。

私には、「すべてを包み込んでくれる人」が必要だった。

私を愛し、スキンシップをしてくれる人が必要だった。

私は母に虐待され、精神的にも身体的にも傷ついていたからだ。
そう思う。

あと、『母は私を理解してくれていない』と感じていたので、理解者が必要だった。
必要以上に。

ノーマルな願望を必要以上意に抱きすぎてしまって、依存になるのだと思う。

Hくんとはすぐ恋人同士になってしまった。
友達期間がなかった。
もっと、話をしてから親密な二人だけの関係になれば良かったと思う。

後からわかったことだが、Hくんと私は同じACであり、境界性人格障害だった。
お互い回復し初めだったからか、同じ病気だったからか、私たち二人のつきあいは、‘‘ひっちゃかめっちゃか’’だった。
クリニックの仲間や家族に迷惑ばかりかけてしまった。

病気のせいではあると思うけど、ある日彼の(一人暮らしの)アパートで別れを切り出し、私が階段を降り始めようとしたところ、彼に後ろから突き落とされた。
私は、階段を落ち、首を傷めた。
私は警察と救急車を呼んだが、彼は自分のしたことを認めなかった。
私は救急車で運ばれた。

その後、彼と診療費のことでもめた。
私は彼を物凄く恨み、憎んだ。

しかし、次の通院(整形外科)で彼が一緒についてきてくれ、自分のしたことを認めると、涙に負けて許してしまった。

結局、診療費はうちの親と相手の親で折半することになった。
うちの父親が相手の家へ向かった。
「来てください」と言われたらしい。
その日どんな話をしたか詳しくはわからない。
父はただ「うちも相手の親御さんもつきあいに反対だ」とだけ言った。
でも、私は言うことを聞かなかった。

Hくんとのつきあいは気楽で楽しい反面、喧嘩をすると激しく暴力沙汰になった何度も。(警察には言ってないけど)。

それでもくっついたり離れたりして2年ほど続いた。
共依存だった。
どう考えても、健全なつきあいではない。

私はあることがきっかけでクリニックを出入り禁止になり2軒目のクリニックに移った。(彼が紹介してくれた)。
しかし、そのクリニックの先生を今一信用できず、自殺願望が高まった時に、元のクリニックに行ってみたのだが、非常にも厳戒態勢で追い返された。
そして私は彼のアパートへ行った。
助けてもらおうとした。
しかし、やはり大変不安定で私は物干し台につかまりながら飛び降りようとした。彼は必死で私を止め、救急車を呼んだ。
しかし、鍵を開けられないので救急隊員はドリルみたいなもので木のドアに穴を開けた。
中に入ってきた。
それから私は眠った。
翌日の朝早く、彼のお母さんがアパートに来た。
朝ごはん(お弁当)を食べながら「○○ちゃんのお母さんは、○○ちゃんがあんまり‘‘死にたい死にたい’’言うから、慣れてきちゃったんじゃないですか?」と言った。
私はその言葉にショックを受け、混乱し、傷ついた。
そして「トイレに行ってくる」と行って部屋を出、トイレとは反対側の廊下の窓から飛び降りてしまった。
彼に気持ちを解ってほしかったのだと思う。
苦痛から逃れる、自傷行為だったとも思っている。(リストカットと同じ)。
彼が私のほうまで来て、電話をかけていた。
私は救急車で運ばれ、集中治療室に入り、その後別の病院に搬送され、整形外科の病棟に入り、骨折した脚の手術を受けた。
病室の電話からほぼ毎日彼に電話をかけていた。
でも彼は面会に来てくれなかった。

その後、私は精神科の病棟に移ることになる。
親友が面会に来てくれた後、興奮してわめいてしまったからだ。
ギブスが取れ、リハビリが終わるまで2ヶ月間精神科病棟に入院していた。

退院してから、恐る恐る彼に電話をかけた。
彼は心配してくれていた。
病院に面会にきてくれたとも言っていた。
でも、温泉旅行の帰りにふらっと。
家族以外は面会謝絶だったので、帰されてしまったと言っていた。
彼にまた会おう(今までどおりつきあおう)と言われたが「昔の彼氏と思っている。もう会えない」と言った。
救急車で運ばれる時についてきてほしかったことも言った。

それから彼から手紙が来て「結婚してほしい」というような内容だったが、破って捨てた。
携帯電話を変えたため、自宅の方に電話がかかってきた。
父が出て「もう電話してこないでほしい」と断わってくれた。
気になったけれど、私も彼のことを忘れることにした。
つきあっていた時、依存(共依存)だとは気づかなかったけれど・・・
今ならわかる。
あれは真実の愛ではなかった。
悲しくなってしまうけど。

Hくんに対して「すべてを受け止めてほしい」という気持ちが強すぎた。
甘えてばかりいた。
彼は私の‘‘安心毛布’’だった。
つきあいの中で良かったところは、お互いに自然体でいられたこと。
心を開けたこと。

笑顔の似合う、優しくて心の広かったHくん。
もうだいぶ回復してきてるかな?・・・
Hくんが幸せであることを願う。






<382> 真名 ■2006年12月09日 土曜日 17時12分34秒
<つづき>

私がRくんから得ようとしていたもの(私がRくんに求めたもの)

1.「お前を愛しているよ」という明確な、強いメッセージ
2.積極性
3.明るさ(社交性) 

でも、彼は彼の個性を持っていた。
私が求めたものとは違うものを持っていた。
それなのに私は彼を変えよう変えようと、奮闘・苦悶していた。
間違っていたと思う。

私も苦しかったけど、彼もきっと苦しかったと思う。
「ごめんなさい」と謝りたい。
「ありがとう」と言いたい。
彼はできる限りのことをしてくれたのだから。
<381> 真名 ■2006年12月09日 土曜日 16時40分43秒
私は男性依存症です。
何度か命を落としかけたから、重症かもしれません。
ハマっている時は、依存なんだと気づきません。ほとんど。
だけど、後になればわかるのです。分析できるのです。
もう同じ過ちは繰り返したくないので、真剣に回復に努めようと思います。

私が依存していたと感じる男性:@RくんAHくんBKくん

@Rくんに出会ったのは、21のころ。
RくんはY駅近くの路上で、友達とギターを持ち、立って歌っていた。
一生懸命歌っているのにもかかわらず、立ち止まる人は誰もいなかった。
私と友達は立ち止まって聴いた。
友達は途中で帰った。
私は終電ギリギリまで聴いていた。
『なかなかいい歌だな』とは思ったが、遅くまで聴いていたのは、たぶん同情からの行動だったと思う。
『助けてあげたい』『力になりたい』と思った。
・・そもそもこれが「愛しすぎ」なのだと本は言っている。
私はチケットを買い、後日ライブハウスに歌を聴きに行った。
驚いたことに、彼は一人で歌っていた。
でも言ったらなんか悪いような気がして、何も言わなかった。その後も。
・・これは気の遣いすぎだと思う。
次の週もまたY駅の路上に足を運んだ。
彼に会いたかったからだ。
ドキドキしたけど、思い切って話しかけてみた。
出身などを聞いた。
彼は無口な人で「出身は・・・岩手です」とだけ言った。
無口なところやあまり表情が顔に出ないところや雰囲気が父に似ていると思った。
私はどこか懐かしさを感じた。
そして、彼に近づこうと決めた。
・・「相手が異性の親に似ていると人は懐かしさを感じ、それを‘‘運命’’だと感じてしまいやすい」。本は言っている。
実際私はそうだった。

それから私はあの手この手でアプローチした。
毎週路上に通い、毎回ライブに行った。
稼いで一人暮らしをしたかったのに、お金はすべてライブ代と洋服代に消えてしまった。
私は自分に自信がないのに、「いい女」(物分かりのいい女)を演じ、ありのままの彼を見ずに、彼を理想化し、崇め立ててしまった。
恋を宗教化した。
・・これもすべて「愛しすぎる女」の特徴らしい。
そんな偽りの自分で、話しかけたり、遠まわしに好きだとわかるような感想(アンケート用紙)を書いたり、電話をしたり、一緒に写真を撮って欲しいと言ったりした。
毎日毎日彼に近づくことばかり考えた。
『どうすれば恋が実るか?』
そんなことをバイト中でさえ考えた。
異常だったと思う。

一度だけ「今度お茶でもしませんか?」と誘ったことがある。
でも、断わられた。「忙しい」と。
しかし、ある日のライブが終わった後、一緒に帰りたくて、でも「一緒に帰りましょう」と言うのは恥ずかしいから「もう帰りますか?」と言おうとしたところ、間違えて「もう帰っちゃうんですか?」と言ってしまい、(私はその時自分が間違ったことに気づかなかったが)彼はちょっと考えてから「この後スタッフの人たちと打ち合わせがあるんで、よかったらいっしょに」と誘ってくれた。
私は突然のことに驚いた。一度も夢に見たことがなかった。
結局、どういう訳か一緒に居酒屋に飲みに行ったのは彼と私と彼の後輩の3人だけだった。
楽しく飲んで、駅まで急いだけど、終電がなくなっていた。
彼に「よかったらうちこたつあるんで(笑)」と誘われた。
私は嬉しかった。
ドキドキしたけど。

彼と彼の後輩の家は近くて、商店街の入り口まで3人でタクシーに乗った。
それからは彼と私の二人だった。

彼のアパートについて、ワインを飲みながら音楽を聴いた。
私はお酒よりも彼とそのシチュエーションに酔いしれていた。
『私は今、憧れのRくんと彼の部屋で二人っきりなんだ』と思うと、幸せな気持ちでいっぱいだった。

この日私たちはBまで進むことになる。
彼は「誰にも言わないで」と言っていた。
私は苦しかった。
本当は彼に気持ちを聞きたかったし、何で秘密にするのかを聞きたかった。
でも、私は聞けなかった。

この日を境に私の依存(愛しすぎ)は激しくなっていったと思う。
体が彼を忘れられなかったこともあるし、彼にハッキリ「好きだ」と言ってほしかった。
しかし、その後、彼から誘われる(デートなど)ことはなかった。
私からも誘わなかったけれど。
彼がしてくれたことはただ一つ、歌の中で感情を表現してくれたこと。
口では何も言ってくれなかったけど、歌を聴けば私だとわかるような歌詞だった。
そのこと自体はうれしかったけど、口では何も言ってくれないので、私は辛かった。
でも、そんなことはおくびにも出さず、私は無邪気に振る舞った。
私は自分に対しても、相手に対しても不正直だった。
・・これも「愛しすぎる女」の特徴。

今考えてみれば、彼は感情を表に出さない人で、到底私のつきあえる相手ではないということ。
私はそんな彼のありのままの姿を見ずに、相手を変えられるという幻想を抱いていたということ。
彼は無口すぎる人なので、(顔にも出ないし)、感情や考えがわからない。
だから私は不安や寂しさを感じ、気になって質問したりした。
これは相手が父の場合とまったく同じだった。

私は子供の頃に父親から得られなかったものをRくんから得ようとしていると先生に言われたけれど、本当にそうだったと思う。
今度こそは、という気持ちで無意識に父に似た人を選んだのだと思う。
(本に書いてあった通り)。
私が父から得られなかったもの、そしてRくんから得ようとしたものは『安心感』だったと思う。
「お前を愛しているよ」という明確な、強いメッセージ。
しかし、父もRくんもきっとそういうのが苦手な人だったのだ。
そう思う。

そう考えると、私が純粋に好きだったRくんの部分は、音楽の才能と繊細な感受性だったと思う。
それ以外はない。

すべてを愛してはいなかった。
依存だった。

今の私なら、自分を素直に表し、相手のありのままを見、相手との調和を図ると思う。
自分に合う人ではないと感じたら、友人という関係を選ぶと思う。

Rくんに依存して精神状態が悪くなり、精神科にかかったが、いいきっかけだったと思う。
私はいっぱい悩みや問題を抱えていたのだから、それを棚卸しする時期だったのだと思う。

Rくんの歌はいつも私にエネルギーを与えてくれたから、彼に感謝している。本当に。


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This script written by Shintaro Wakayama.