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輝ける子

著者:明橋大二
出版社:1万年堂出版
ISBN:4925253069
定価:1,200円

「子は親の鏡」子供の生きづらさは、大人自身の生きづらさ

学校にいけなくなった我が子がいたから、この本にめぐり会えた。

とても傷ついている自分がいて、傷ついたまま、子供に接して、
子供は傷ついている事すら解からず、動けなくなっていた。
「こげぱん」になっていた・・・責められて、責めて・・・

我が子の為と買った本でしたが、

最初から、最後まで泣きながら読んだのは、私は私のままでいいと言う事が解かったからです。
私の心が救われるだけで、反抗的に責める我が子が、とても可愛く思えてきました。
焦がした「ぱん」に気が付かずにいた私が本当に悪かったと真から思えました。
今では、学校に行けなくなった我が子「こげぱん」にとても感謝しています。

そして、がんばっている、すべての人が幸せになるためにこの本にめぐり会えたらなぁ・・・と願っています。

(この本と巡り合えてこの文を書いてから、10ヶ月後に本当の自分の弱さに気付いた・・・親の呪縛がある事も・・・)

(2004/02/03 hako2oさん)

子供たちの復讐

著者:本多勝一
出版社:朝日文庫
ISBN:402260820X
定価:840円

警鐘は20年前、とうに鳴らされていたけれど…

「“進学校”なんていう称号は、その高校の3年間という「いま・ここ」になんの魅力もないと自ら白状しているようなものだ」という言葉を、昔どこかできいたことがある。
私の行っていた高校というのも、いわゆる片田舎の公立進学校というやつだった。本書の事件を起こした少年たちが通っていたような全国区で名の通った私立の進学校とは比ぶべくもないが、ほぼ勉強の出来・不出来それのみによって自分のアイデンティティがおびやかされざるを得ない特殊な環境というものの痛みは、今も忘れることはない。公表こそされないがどのクラスが“精鋭”でどれが“ボンクラ”かは周知の事実だった成績順のクラス替え、「有名大学進学率を上げるために」予備校並みのカリキュラム外補習と模試また模試、大学の実態や文化なぞ分からない割にそれだけは時々刻々と入ってくる偏差値の輪切りランキング情報、そして秀才の座という「なけなしの分け前」をおびやかす存在にしか映らない級友たち…。大学へ入って受験から開放されたときには、それはもう、ちょっとした「戦争トラウマ」の後遺症状態だった。広島の原爆投下後、生存者の人々が何もする気になれず、職にもつかずぼんやりと日々を過している状態で、当時は「原爆ぶらぶら病」などといわれたそれが今でいうPTSDの症状だったそうであるが、私もそんな感じで大学不登校となったものだった。「五月病」とは単に手近な目標がなくなったゆえの無気力だけでなく、「受験戦争PTSD」も確実に何割か含まれている気がするのだが、どうだろうか。

『開成高校生殺人事件』(1977年10月)と、『祖母殺し高校生自殺事件』(1979年1月)。本書でとりあげられているこの2つの事件をかいつまんで言うと、前者は小・中学校と優等生で名門進学校に入学した被害者の少年が高校以来勉強についていけなくなり、家に閉じこもって親に暴力をふるうようになった果てに、精神的に追い詰められた両親によって就寝中に殺害されたという事件。後者は名門の学者の一家に育った少年が、勉強部屋へ通じる専用のドアまでも作って自分に密着し「勉学に励め」とプレッシャーをかけてくる共依存的な祖母を殺し、その祖母と「非エリートである一般大衆」への呪詛にみちた遺書をのこして自殺した、という事件である。

…と書いてみれば、なんだ、「引きこもりの暴力息子に耐えかねた親の子殺し」に「キレた少年の殺人事件」じゃん!と、2004年の今、私だって言ってしまいそうだ。「引きこもり」「キレやすい子供」「17歳」etc.…と、『現代用語の基礎知識』に出てくる新しい言葉ばかりは年々登場するけれど、これらのことの本質はなにも変わらない、昔からあったことを、新しい言葉でさも新しい現象のように言い換えただけではないか。「突然変異でできた新種の現象」ということにして、ノウハウも対処法もありません、お手上げでございます、と騒いでいれば、大人が何もしないでいても責任は問われないからなぁ…と勘ぐりたくもなってしまう。

じっさい、本書のルポを読み進むほど、「今の子どもたちの事件と、本質はまったく同じこと」という確信は強まってくる。本多勝一氏といえば「左翼系!」なイメージが強く、本書での氏の主張も、この受験社会をつくり出した旧文部省をはじめとする政府への批判や、「もっと登校拒否をしよう」という不登校支持のメッセージが中心なのだけど、ルポの方は裁判記録や、関係者、教育・心理学者、警視庁少年課の職員、作家、漫画家から現役高校生に至るまでの幅広いインタビューなど、緻密でバランスのいいものであると思う。

ただ気になることは、ルポにほとんど登場しないのが、「他の当事者」――その当時引きこもりや心身症や暴力に悩んでいたであろう親たちや子どもたちである、ということだ。書かれた当時のことを考えれば、今のように問題に対する認知もセルフヘルプの概念やネットワークもない中で当事者として名乗り出ろ、などというのはあまりに酷であったかもしれない。名乗り出ればすぐに「母親の愛が足りないからこんなゆがんだ子に育ったんだ!」「甘えてないで自立しろ!」などという無責任な外野からの批判の石つぶてにさらされただろうから。しかしルポの中でも目立つのはもっぱら「識者の声」の方だ。それも、「昔はのんびりしてたのに、いつの間にかこういうヘンな世の中になってしまった」、という。じゃあその「のんびりした世の中」を「ヘンな世の中」に変えてしまったのは誰? 本当に政府と大企業と文部官僚だけのしわざなワケ? てか、「今の社会が悪い」って、あんたという人間だって「今の社会」を構成している一部だよね?…という疑念がわき起こってきてしまうのだ。昔、『カイワレ族の偏差値日記』を読んだときにも同じことを考えたものだった。「この受験社会で、子どもたちは傷つき、苦しみ、血を流している」って、だったら「この受験競争からおりる」って選択肢もあったわけでしょ? 「この受験社会」はまったく私の力の及ばない責任外、とでも言うわけ? 加担する人間がいるからこそ偏差値競争もお受験産業も繁栄してるのに、何言ってんの?と。

というか…その当時からつづいて、今もある、そういう風潮――大人たちの側の、「この社会が悪い、自分たちにはどうにもできない」「どこかに問題を一気呵成に解決してくれる処方箋があるはず」という態度こそ、この20数年間も問題を放置してきた元ではないか、という気がするのだ。「識者の意見」だけ聞いて、このゆがんだ社会で子どもたちはこんなにも苦しんでいる、とだけ言っていればいいのだろうか。ワイドショーかなんかで「少年の事件」が取り上げられるのを、「当事者」になってしまった気の毒な人々、として他人事のように眺めて。学校制度や受験体制が悪い!と言ってみたって、だからといっていきなり自分の子をイギリスのサマーヒルスクールに入れちゃったり、もろ手を上げて不登校支持なんかできるのは、しょせんインテリである程度お金も地位もあるような一部の親だけだし、自分たちは一介のしがないサラリーマン家庭、わが子はせめて人並みの“勝ち組”にするために、尻をたたいて塾通いさせ…というのが“平均的な日本の親”の意識なのだろうとは思う。だが、本書の「開成高校生殺人事件」で息子を絞殺するにいたった父親もまた、裁判官に「どんなふうにお子さんを育てたかったのですか」と訊かれて、答えている。「せめて人並みに」、と。

時代と社会のゆがみをもっとも敏感に感じとって反映するのは、その中でもいちばん弱い層であり、またいちばん鋭敏な感受性をもった人々である、とよくいわれる。それがたまたま自分の子どもであった、ということは誰にでもまったくないとはいえないのではないか。人間、誰もがつねに強く賢い人々ばかりではない。だが引きこもりや不登校や心身症になり、あるいは事件を起こした自分の子どもを通して、自分自身と社会のあり方について問われる、ということは誰の上にも、“しがないサラリーマン家庭”の親の上にだって起こりうるだろう。子どもというのは、大人と社会の鏡だ。容赦なく、直球で問いかけてくる。そしてそれに応えるのは親ばかりの責任ではない。私たち大人はみんな「このゆがんだ社会」を構成している一部だ。

本書の当事者の少年たちと同じ世代で、かつて「受験戦争」をくぐり抜けてきた「偏差値秀才」の「モヤシっ子」たちが大学卒業・就職して、こんどは言われたとおりのことしかできない「マニュアル人間」などと揶揄されたものだった。いわく、○×式の偏差値競争の弊害だと。だがそれは、「この偏差値社会はゆがんでいる」と声高に言う側もふくめて日本の大人たちというものが、ついぞ子どもたちの問いに本気で向き合わなかったこと――「この社会」の一員として、さまざまな「模範解答のない問い」に答えることから逃げつづけてきたことの、反映にすぎなかったのではないか。かつての「受験地獄」は少子化によって過ぎ去り、「ゆとり教育」、学級崩壊、親の貧富の差による学力格差…の時代となった今、20数年前に書かれたルポルタージュを読み返して、そんなことを思う。

(2004/01/04 蔦吉)

「ひきこもり」だった僕から

著者:上山和樹
出版社:講談社
ISBN:4-06-211072-5
定価:1,500円+税

「政治的問い」としての引きこもり

「AC」と「引きこもり」の分布図がどのくらい重なるものか分からないのだけど、私にも大学入ってACを自覚した直後、たしかに引きこもりの物理的条件をほぼそろえた「下宿の引きこもり」、つまり大学不登校だった時期がある。昨今では「ちゃんとした」会社づとめしてるプチ引きこもりだとか、主婦ヒッキーだとか、なんかあれもこれも「引きこもり」だったんじゃん!って、「引きこもり」という単語が出てきて以来、皆が気づきはじめているような気がするのだ。物理的な程度のスケールは色々あるけれど、ひとつの「精神のあり方」としての「引きこもり」という状態に。

本書の著者はそれを「政治的問いかけ」という言葉で表現している。「ここまでしないと許してもらえないのか」という、「現実」「社会適応」に対する恐怖に近いイメージ。引きこもりを「いいご身分でございますわねぇ」的な猫撫で声でもって横目で見ている人々。「できれば社会なんかに出て行きたくない」という彼ら自身の願望を端無くも体現してしまっているのが引きこもりなのだ。「許してもらえる」まで自己をたたきつぶして社会の「それなりの居場所」にもぐり込むことが果たして「社会参加」なのか、という著者の問いは、森鴎外『青年』の一節を思い起こさせる。

――いったい、日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一生懸命にこの学生時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にありつくと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先に生活があると思うのである。そしてその先に生活はないのである。現在は過去と未来の間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。――

インターネットを通じての出会いをきっかけに、著者は家を出て塾講師のアルバイト代月7万強で友人と借家暮しを始める。社会参加とは、それなりの居場所にもぐり込む“カイシャ参加”のことではなかった。それは世界に対して自己の立場を表明し具体的に取り組んでゆく「政治的デビュー」であり、親の目や社会的アリバイを超えた一個人としての「精神の肉体関係」でなければならなかった。そして友人と始めた地域通貨立ち上げのプロジェクトや、引きこもりの親の会などでの活動が、著者自身の「政治的デビュー」となってゆく。

好きな人ができて同棲し始めたりして、引きこもり状態から脱け出していく人は多いが、「精神の肉体関係」は含蓄の深い言葉だなと思った。性関係に限らずさまざまな分野で、社会的アリバイとしてでもなく、子供部屋のお客様としてでもなく、一個人としてのプライベートな領分で(仕事ではない、という意味じゃなく、仕事であったとしても、精神的に親や権威に立ち入らせないという意味で)「何か強く惹かれるもの」との出会いがあること。おそらく、それが精神的に家から離れていくことのカギなのだ。

ACにとっても、物理的な引きこもりの要件を満たしていない「精神の引きこもり」にとっても、学ぶところの多い一冊だと思う。

(2002/07/15 蔦吉)

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