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コミュニケーション不全症候群

著者:中島梓
出版社:筑摩書房
ISBN:4480855963
定価:1,700円

文庫版
ISBN:4480031340
定価:640円

「自分自身でありつづけること」の出発点――私の90年代への、多少の思い入れとともに

思えば私の高校生時代であった90年代は、あの幼女連続誘拐殺人事件とともに幕を開けた。本書の中で言うところの「おタク」という言葉が人口に膾炙するきっかけとなった、あの事件だ。それまでの、小中学生だった私がたとえば学校のクラスなんかの、大勢の中での自分の位置づけを査定して分類する言葉は「ネクラ」があっただろうか。「ネアカ・ネクラ」ブームの。…ともかくも私は小学生終わるまでには母親にネチネチなじられた通りの「社交性のない、暗い、コミュニケーションのできない子」という自己イメージを確立していて、中学生の終わりには“女子”に対する周囲の視線の変化や、父親の体罰なんかの後ろに見え隠れする「女への支配構造と暴力」を明確に言語化できないまま感じ取って猛烈なハイテンションの中で生きていた。それはひらたく言っちゃえば、クラスの女子の中ではちょっと浮いてる非主流派オタク系のグループに属している、いつも本とか読んでて何考えてるかわからないっぽい女の子で、それでもって過食症気味なもんだから、まあちょいとデブ気味で、オシャレにも構わないというか構おうにも選択肢がないというかオシャレに構うこと自体を嫌悪してるのかもしれないんだけど…ともかくそんな感じの女の子が私だった、ということになるわけで。

マンガ 子ども虐待 出口あり』の中で信田さよ子氏が「悩みを抱えた人は、“私のことが書いてある”1行を探してあらゆる本を読む」と言っていたけど本当にそのとおりで、なんだかよくわからないモヤモヤ〜ッとした「こんな暗くいじけた自分を変えなきゃ!」みたいな気分の解決を求めて本書を手に取ったものだった。

「ダイエット」「おタク」「少女たちの少年愛趣味」…筆者が「コミュニケーション不全症候群」と呼ぶものを端的に表わしているとされる“現象”の名を見ただけで、私の中にはピンとくるものがあった。「ダサいおタク」の側から体重=身長−120の「アイドル・モデル(と同じ体重)」の側に立ってみんなに受け入れられたいという気持ちがあったからこそ私はダイエットを試み、またダイエットしてない時間も「やせた体」の理想で頭をいっぱいにしていたわけだし、みんなに受け入れられたい(というか、受け入れられなきゃ私には居場所がない)という気分はあるけれど「友達100人できるかな〜」の世界に疲れたから、人間よりもモノや本や漫画を相手にしている「おタク」である方が、たとえ周囲の非難には見て見ぬふりをして砂の中に頭を突っ込んでいようが、ともかくラクだった。そうしてもやっぱり自分が「女」として生まれた限り、さまざまな「受け入れられるための選別」、あやふやな、矛盾に満ちた、どういう基準でもって決められているのか皆目分からない選別の目から逃れられないことに勘づいていたからこそ、光GENJIが登場したとき、彼らが空想世界の擬似恋人っていうよりも「自分があんなふうな少年でありたい!」と思ったし、『小説JUNE』やなんかのボーイズラブ世界、一切の選別もオンナの競争相手もなにもなくはじめから私たちの仮の姿である主人公の美少年のためだけに用意されたやさしい世界の中で、ようやく安心して「愛」に感情移入することができたわけだ。

そう、キーワードは「みんなに受け入れられること」=「私の居場所」。

しかしそんなにまで――おタクやボーイズラブ趣味は一応「マイノリティ」として見られているにせよ、ダイエットや「好感度ベストテン」は相変わらず「みんなの関心事」でありつづけるような世の中で、誰ひとりとして、他人も同じように「私の居場所はどこにあるの!?」という叫びを発しているのに気づかないのはなぜなのか。みんなが「かまってくれ」「私に居場所をくれ」と泣きわめくばかりだったら、いったい誰が「かまう側」「居場所を与える側」なのだろう。そうして、社会がこんなにまで「受け入れられること」を求める人々ばかりであふれ返ってしまったのは、いったいなぜなのだろう…そう筆者は問いかける。

世の中がそんなふうになってしまった原因として筆者が挙げているのは「過密化」と「選別化」なのだが、私にはどうもちょっとこの点がピンとこなかった。たしかに一定の密度以上に人が密集してしまった都会の満員電車でイライラするというのはわかる。地球規模でこれだけ人間のアタマ数と情報網が発達すれば、収入、エリート度、美人度その他あらゆるヒエラルキーでもって人々がつねに査定されて競争に晒されるようになる、ってのもわかる。だがしかし――中学2年の夜、過食の真っ最中に私は一度、ふっとひらめいたことがあった。「これって…今私はデブだけど、もし私が「ヤセが美しくてデブが醜い」というそのモノサシ自体を屁とも思わなけりゃ、ぜんぜん苦しむこともなくなるわけだよね…?」その考えはそのあとすぐに「でもそれって、周りから見たら“負け犬”って見られるだろうし…」で打ち消してしまったわけだが――つまり、過密だと言っても過疎の農村だっていっぱいあって物理的な居場所がまったくないわけじゃないし、そのヒエラルキーのモノサシ自体を「屁とも思わない」という選択だってある中で、どうして人々がそんなにまで「選別の合格品となって受け入れられること」へのこだわりから抜けられなくなっているのか。その辺が本書では説明不足というか、いまだ言葉が生煮えだったような気もする。

本当に「最後の居場所は“他人の人気”の中にしかない」ならば…どうしてカレン・カーペンターは、あれだけ世界中のファンの心の中に「居場所」を獲得していながらなおも「受け入れられたい」がためにダイエットで命を落としてしまったのか。片田舎のイタい女子中学生なんかではない、世界的に成功した大スターでさえも…どうしてこんなにまで、「受け入れられたい」という底なしの欲望によって苦しまなければならないのか。このどれだけ達成しても決して満たされ得ないかのように見える渇きの正体は何なのか。問題の核心はまさにそこにあったと思うのだ。

このコミュニケーション不全症候群という時代の病――「愛されたい」「受け入れられたい」と渇望しながらいつの間にかすぐ近くにいる「愛し、受け入れてくれる」可能性を持ったはずの他者というものを見えなくしてしまう病について、筆者が出した処方箋は、「自分自身であれ」という、おぼろげな光のような言葉であり、筆者が手塚治虫『どろろ』の百鬼丸になぞらえて描く「自分自身を取り戻すための、困難な勇気の要るたたかい」はまだあまりに漠然としていた。だがあの時代――「ダイエットブーム」「ネアカ・ネクラ」「好感度調査」「抱かれたい男」etc. といったまぼろしの居場所査定に日本社会が踊り狂ってきた、その一端に綻びが見えはじめたバブル崩壊の時代に、たしかにこの本は「コミュニケーション不全症候群」という問題提起によって「本当の自分を取り戻す」戦いの最初の烽火の役割を果たした、そんなふうに思う。

(2003/01/01 蔦吉)

タナトスの子供たち - 過剰適応の生態学

著者:中島梓
出版社:筑摩書房
ISBN:4480863184
定価:1,700円+税

「やおい」とACの接点――「お前でなきゃダメなんだ!」、たとえ“何も生み出さぬ愛”であろうと…

「やおい」についての本…なんか妙なところでオタク女カミングアウトするハメになったな私…なんて思ったりして。
ちなみに「やおい」とは、ほぼ9割がた女性の作者によって書かれ、女性の読者によって消費される、男性同士が主人公のかなり美化されたラブロマンスのこと。普通の少年漫画やアニメの男性キャラ同士をカップルにしたパロディ同人誌が「ヤマなし、オチなし、イミなし」なんて自嘲的に呼ばれたのが語源、とされていて、今ではどこの書店の漫画・ティーンズ小説のセクションにも「耽美」「ボーイズラブ」「女性向き」…と、「やおい」とは呼び名が変わるけど「女性向けの男性同士のラブロマンス」のコーナーが設けられているくらい、「やおい」は一般的な現象となった。

この評論はもともと@niftyの前身であるニフティサーブで著者が主宰していた『天狼パティオグループ』に掲載していたものをそのまま単行本化したということで、文章中にしょっちゅう「(笑)」とか「(爆)」とか顔文字とか、あんまり意味のない「ピー(放送禁止用語に入る電子音ね)」とか「**(伏せ字)」とか、ネット文体そのまんま入ってて、もうちょっとどうにかならなかっただろうか、これ1,700円出して買う方の身にもなってくれないかなぁ…と辟易してしまうところも正直いって少なくない。「やおい」の個々の作品論となると「…作品論ってよりアンタ、個人的萌えでもって喋ってないか?」と言いたくなることもあるし、論理展開にしても、「それはちょっとザツ過ぎるんでない?」と思うところがちょくちょくある。しかし、今の時代における「やおい」の意味付けについては、本書は大筋ですごく的を射ているように思う。

思えば、「やおい」はきわめてしばしばAC的なテーマが見え隠れしているジャンルでもある。竹宮惠子『風と木の詩』のジルベールの生育歴は性的虐待のエピソードに彩られ、その美貌によって学院じゅうの少年や男性たちを誘惑しては弄ぶ彼の姿は、売春などを繰り返し「セックスの力」によって男性への無意識の復讐に走る性虐待サバイバーそのものだ。栗本薫(本書の著者・中島梓の別名義)『終わりのないラブソング』にしても、親に愛されず、自尊心というものをまったく育てられずに不良少年たちの性的玩具として日々を過ごしていた主人公の少年・二葉が、補導・少年院送りという「底つき」の中で愛を知り、冷たく硬直した家を捨てて自分の人生を切り開いてゆくという物語に対し、『小説JUNE』連載中に多くの摂食障害や引きこもりやリストカッターの少女・女性たちから共感の手紙が寄せられたそうである。

しかしそこまであからさまにAC的でなくても――多くのほのぼのとした「従来の少女漫画のパターンと何ら変わらない」、つまり男と女が「攻め(イニシアチブを取る側)」と「受け(求愛される側)」の美少年なり美青年なり、要するに「どっちも男」になっただけのように見えるやおい作品も――なぜ女じゃなくて男同士でなければならなかったのか。

それはやおいが、「女」という、「選別の対象であること」をいっさい抜きにして成立する愛の世界を虚構の中に作ろうとする試みであるからだ。「女」だから「若い娘」だから、「商品」として「獲物」として、あるいは年増で「多少難あり」でも「一応、対象の範囲内」として愛されるのではなく、「男でも女でもダメだ、お前でなきゃダメなんだ!」という「純粋に私が私であるがゆえに愛される」世界。そう見たとき、従来の男と女のパターンを律儀に踏襲したパロディというよりも、寂しかったインナーチャイルドと彼を抱く力強く優しい保護者の、きわめて自体愛的な、しかし確かに癒しに満ちた物語としての「やおい」の姿が見えてくる。

そしてそれは――女の身で“ホモ漫画”なんか描いたり読んだりしていること、「ちゃんとした、現実の、ノーマルな」男女の愛や生殖に拒否的であることは、今まで「少女(にとどまりたい女性)の成熟拒否」として語られてきた。それは思春期の、未熟な、ゲンジツを見てオトナになることを拒否したいっときの気の迷いで、「成熟した女性」としてドッシリと収まるべきところに収まればなんの問題もなくなるはずだ…と。それはスージー・オーバックが『拒食症』の中で指摘した、従来の識者による拒食症の女性たちの語られ方とほとんど変わるところがないようにさえ見える。

だが近年40代、50代の家庭も仕事もある“成熟した女性”たちがクリニックを訪れ、長年の摂食障害について声を上げはじめたように、「やおい」小説・漫画や同人誌を生産・消費する女性たちの層も、30代、40代、50代の仕事や家庭や子供を持つ“成熟した女性”たちに確実に広がっている。現代社会の論理の中で成熟した妻・母・オバサンとして「収まるべきところに収まった」はずの女性たちが、かたや自分の身体を戦場として、かたや虚構世界の中でゲリラ的に「私の居場所」を求めて闘争しているという事実は、従来の論理どおりの「女性の成熟」について根本的な問いを社会に突きつけている。

すなわち、「女はある意味、全員がアダルトチルドレンではないか?」――本書の著者も、『アダルトチルドレンと少女漫画』の荷宮和子氏も発言していることだが、あるがままの自分として肯定されるより先に性的対象として選別の目にさらされ、一個の規格品として完成することが求められ、「自立」「男女平等」の建前をよしとされながらもあらゆる場所で隠微なダブル・スタンダード(二重規範)に縛られる女性たちの成育歴は、きわめてAC的であるといえる。だとしたら、「女だから、じゃなくて、あるがままの私として愛されたい!」という欲求を虚構世界において形にした「やおい」は、女性である私たち自身を抜き去った奇妙な世界で達成された、女性の性的主体性ということの、最初のささやかな勝利なのではないか。そう筆者は問いかける。

同じサブカルチャーを扱った前作の評論『コミュニケーション不全症候群』の、これは続編として出版されたということで、帯にも前作の「私の居場所はどこにあるの?」に対応して「私はここにいる!」――「ここにいる」、すなわち、やおいという「何も生み出さない愛」の虚構世界が私たちの「足場」でありうるのだ、という宣言である。やおいでも現実世界のゲイ・レスビアンでも同性同士の愛、イコール生殖の可能性がないから「何も生み出さない愛」と早急に結論づけるのもどうかと思うが、「エロス(生命への欲求)」――成熟、生殖、健全、ノーマル、成長、生産性、立派さ、優秀さ、etc…へ価値を置くあまりに、私たち人間の死をはじめとする「変えられないもの」が見えなくなり、おかしくなり始めた現代の「嗜癖する社会」において、「男でも女でもない、たとえ生殖の可能性がなくたって、生産的でなくたって、「タナトス(死への欲求)」だったって、私が私だから愛してほしい!」という女性たちの叫びは、確かにこの社会を方向転換させる大きな可能性をはらんだ「足場」といえるのではないだろうか。

(2003/01/08 蔦吉)

宗教なんかこわくない!

著者:橋本治
出版社:マドラ出版
ISBN:4944079052
定価:1,456円

文庫版
出版社:筑摩書房
ISBN:4480034951
定価:680円

「子どものしでかした犯罪」としてのオウム真理教事件

日本という国ではどうも、さきの太平洋戦争にしても全共闘運動にしてもなんにしても、「あれは一体なんだったのか、私たちにとってどんな意味があったのか」ということを徹底的に考えることなく、なんとなしに水に流して、その後遺症のシワ寄せを食らっている弱者ごと「なかったこと」にしてしまうパターンがあまりにも多いような気がする。そんな中で橋本治という作家は、『貧乏は正しい!』『ああでもなく、こうでもなく』等のシリーズで「バブル経済」を、そして本書で「オウム真理教事件」を、地に足のついた感覚できちんと総括している数少ない誠実な人だと思う。

本書の約半分は「日本人にとって宗教とは何か、いつの間に“宗教=何やらコワイもの、タブー”になってしまったのか」という歴史的な考察、そしてあとの半分は「子どものしでかした犯罪」としてのオウム事件についての考察である。このうち、私自身が興味をひかれたのはもっぱら後者の方だ。事件と同じ頃に出版されたAC関連の本だったと思うが、あるカウンセリングルームで、ACの人がオウム事件のニュースを見ながら「わたしも自分の家族を脱出できるんなら、オウムに拉致でもなんでもされたかった」とこぼしたエピソードが印象に残っている。私も当時同じことをぼんやりと考えていたからだ。

坂本弁護士の事件の頃、オウムを取り上げるのも早かった毎日系のTVワイドショーだったと思う、TV画面にはまだサリン事件の強制捜査が入るずっと以前、上九一色村の教団敷地のギリギリ周辺のところで、ほとんど兵士に「投降」を呼びかけるように、教団の建物の中にいる青年たちに向かってハンドマイクで声を張り上げる親たち。「○男!帰ってこい!…この母が、この、足の悪い母が言うんだ!」とマイクに怒鳴る、親たちの一人である足の不自由らしい初老の女性。それは「東大安田講堂」や「よど号ハイジャック」「あさま山荘事件」と、ほとんど重なり合うような光景に見えた。いままでどおりのうるわしい「親と子」「あたたかい家族」「ムラ社会」の予定調和の何が不満なのかさっぱりわからないまま、“足抜け”しようとする子供をやみくもに引き戻そうとする「親の側」と、予定調和に違和感を表明して“足抜け”したはいいが、そこから先この世界に居場所を作るすべがなく、“立てこもって漂流しつづける”以外の道を見つけ出せない「子の側」と。

日本の社会というのは基本的に「自分の頭でものを考えなくてもいい社会」だ、と著者は言う。その中で、「自分の頭でものを考えるようになった子供たち」が大人になってゆくための道はあるだろうか。…あの空気清浄機の名前からオウムのメンバーが自分たちをなぞらえていたにちがいない『宇宙戦艦ヤマト』にせよ、『ガンダム』のホワイトベースにせよ、「子供・若者だけの世界」をつくり上げてどこまでも正義の漂流の旅に乗り出してゆくっていうのは、子供から大人になってゆく過程で多くの若者が見るひとつの夢なのだろう。だがその先、漂流するばかりで世界へと根付いていく道が――大人になってゆく道が開かれていなかったら、どうなるだろう?

「自分の頭でものを考えなくてもいい社会」で「自分の頭でものを考えるようになってしまった子供」は当然孤独になる。そこで「思想」以外のもうひとつのファクター――「愛情」という、子供から大人になっていくために避けて通ることのできないもうひとつの要素に対し「ちゃんちゃらおかしいぜ」と完全に背を向けてしまうなら…あとに残されるのは、閉じた子供部屋の中の、暴力の寂寞しかないのではないか。たぶん、それを「実力査問」と呼ぼうが、「総括」「内ゲバ」と呼ぼうが、「ポア」と呼ぼうが。

松本のサリン事件や、強制捜査が入った後のオウムのマスコミへの対応を見ていて、「日本企業のパロディのようだ」というのもしばしば聞かれた声だ。何を訊かれても能面のような顔で「広報を通してください」。ドキュメンタリー映画の写真だったか、水俣病訴訟で会社の門前まで来て、水銀のために引きゆがんだ手足でものすごい苦悶の表情を浮かべて迫る原告に対し、「自分は会社の命令でここに立たされているだけだ」と言わんばかりにまったく表情を崩さない被告企業社員、という写真をどこかで見たのを思い出す。「会社の命令だから、じゃない。人として、あんたは何とも思わないのか?」…サリンを撒こうと水銀をたれ流そうと腐った牛乳を使い回そうと、自分たちの組織、そして自分たちの「敵」という大雑把な構図以外の現実はまったく霧の中にかすんでいるように想像もつかない。そんな感性がいつの間にか蔓延して行き詰まりを迎えた日本の会社社会。オウム事件とはそのグロテスクな戯画でもあったように思う。

著者はまた、「自分を圧殺した家族や会社というものに対して加害者でありたいという気分が、いまの若者にはあると思う」とも言う。家族も会社もただ自己をたたきつぶすことを要求する密室となった中で、オウムには「最終解脱」という「自分を活かしてくれる」大義名分があった。あのパーティションで個人用に区切られたサティアンの修行部屋を「テレクラみたいだ」と言った人がいたが、「自分を活かす」ことだけを考えていられるオウムもまた、「孤立したエゴイスト同士の密室」という意味で、企業社会とコインの裏表をなす「密室」であることに変わりはなかった。

それが宗教であろうが企業であろうが「家族愛神話」のもとに虐待の密室と化した家族であろうが、私たちがこの圧殺の行き詰まりから「カギを閉めた子供部屋」のエゴと暴力の寂寞というもうひとつの行き詰まりへ迷い込むことなく「大人になる道」を見つけだす希望があるとするならば――著者の言葉を借りて言えば、「日常生活の中にノーマルな人間関係があること」、恋愛や信仰の“濃厚な愛情関係”だけが人間関係とカン違いして飛びつく前に、人間としての当り前の想像力が、「関係がある」と思う気持ちがあること。ただのありふれた人間関係からコツコツと積み上げていく愛情が、日常生活の場にあること。それがきっと、ACがオウムに拉致されることを夢見ずとも家族の外の世界に居場所を作り出すことのできる希望であり、少々大げさに言えば「今の行き詰まった日本社会が再生できる」希望でもあるのだろう。

(2003/08/13 蔦吉)

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