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The Power of Focusing: A Practical Guide to Emotional Self-Healing
著者:Ann Weiser Cornell
出版社:New Harbinger Pubns Inc
ISBN:157224044X
定価:$13.95 |
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(邦訳)
やさしいフォーカシング
著者:アン・ワイザー・コーネル
訳者:大沢美枝子、日笠摩子
出版社:コスモス・ライブラリー
ISBN:4795223742
定価:1,890円 |
自分のキモチのみつけかた。
* わたしの体験談 *
わけもわからず手にとった本書。
フォーカシングしてみたよ。
そしたらイキナリ泣いちゃったのよね。びっくり。
なんつーか。
自分のキモチ聞いてこなかった。 そのことに気付いた。
フォーカシングって、自分がどんなふうに感じているか?を
アタマではなく、自分のカラダに聞いて会話するやりかた。
10年位かなぁ〜? 私はずっとお腹が痛かったのよ。
内科医院に行っても治りはしなかった。
本書を読んで、やっとお腹の痛み。その声をフォーカシングで聞いたの。
・・痛みは、ぽつぽつ話し出した。思いがけないことを話してくれた。
一緒に泣いて・・・そしたら身体がぽかぽか温かくなった。
痛いの飛んでっちゃった。
お腹は「私の声聞いてよっっ」って、ずっと叫び続けていたんだなー
。。。身体は答えを知っていただなんて!
これからは、またお腹が痛くなったら、またフォーカシングすればいいのよぉぉ。
・・あなたは私が何のこと言ってるのか?さっぱり???でしょうけど。
まぁ、やってみて!
身体の声が聞けない時もあるけど、
声が聞けると、体があったかくなって気持ちいいのよぉぉ。
(2004/10/11 ひこうきさん) |
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...trotzdem Ja zum Leben sagen
- Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager
著者:Viktor E. Frankl
出版社:DTV Mchn.
ISBN:3423301422
定価:7.50 EUR |
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(邦訳)
夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録
著者:V. E. フランクル
訳者:霜山徳爾
出版社:みすず書房
ISBN:4622006014
定価:1,800円 |
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(新訳版)
訳者:池田香代子
出版社:みすず書房
ISBN:4622039702
定価:1,500円 |
人は何によって生きるのか
夜と霧、という邦訳タイトルが、夜陰に乗じ、霧にまぎれて人々が強制収容所へと連れ去られたナチス時代をあらわしているものであることは言を俟たない。映画『シンドラーのリスト』や漫画『石の花』などにも描かれた、ヨーロッパ各地の強制収容所へ送られた人々への、人間の尊厳に対しての言語に絶する暴力についても、ここで多くを語るまでもないだろう。著者もまた名を成していたユダヤ人精神科医であったが、ダッハウの強制収容所へと送られ、夫人と生き別れとなり(そして二度と生きて会えなかった)、20世紀の“人類の尊厳に対する最大の犯罪”、収容所生活を体験する。
しばしば人が極限状態の中で現す驚くべき勇気や崇高さは、美談として語り継がれる。同じナチスによる強制収容所であるアウシュビッツで、見も知らぬ囚人の身代わりとなって餓死刑を受けたコルベ神父の話や、あるいは百年戦争下のフランス・カレーの7人の市民たちの話、救命ボートに乗ることも拒否して沈みゆくタイタニック号のホールで賛美歌を演奏しつづけたバンドマンたちの話など。極限状態というのは、人が試される「審判の時」だ。
だからこそ、と言おうか――収容所の中で人々が見せる勇気や崇高さと同じくらい、同じ環境下での人間の愚かさ(と言ったら酷であろうか)、どのように一人の人間が“壊れて”いくのかということに関する記述が私の興味を引いた。囚人同士の密告。盗み。裏切り。主に娑婆で犯罪を犯したことのあるユダヤ人囚人で構成されたカポーと呼ばれる囚人頭たちによる、同朋であるはずの一般囚人たちへの虐待。仲間を求める社会的動物であるはずの人間が、生き延びるためには仲間を裏切らねばならないという状況。この収容所の中で仲間のパンを盗み「今は醜いブタでも」、戦争が終わって解放されたあかつきには「尊厳ある人間」として陽の下を歩けるのだろうか。
そして“壊れる”というのは他人に対する道徳の崩壊だけではない。収容所に連れてこられて日も浅く、まだそれほどの飢えにさいなまれていない囚人は、不安と恐怖こそあれ、いずれここから生きて出るのだと思っている。しかし収容所での日々――過酷な労働の中で毎日のように誰かが飢え死にし、あるいはガス室と銃殺への“選別”にかけられ…そんな日々の中で剥ぎ取られてゆくのは「希望」にほかならないことを悟る。一秒、一日がとても長く、一週間がとてつもない速さで過ぎてゆくという「時間の逆説」――トーマス・マン『魔の山』で描かれたそれは、安閑としたブルジョワ階級の結核患者が集うスイスのサナトリウムの中だったが、贅沢なガラス張りの日光浴室であろうと、重労働の果ての蚕棚のようなベッドであろうと、社会的存在であった自分が社会と切り離され、いつここから出られるという見通しもないまま死の影だけがいつも漂っている空間、一切の希望が剥ぎ取られてゆく空間で、それは起こる。
そうこうするうちに、ついに一切の希望を失った囚人は、もはや看守が号令をかけても、蹴っても、動こうとはしない。顔をネズミにかじられても反応しない、“人間であることをやめた人間”、生ける屍の最終形態となって、ついに物理的な生命も失ってゆく囚人たち。あるいは、飢えと疲労にさいなまれつつも生き残った囚人たちの間に、まことしやかに噂が流れる。「今度のクリスマスに連合軍が助けにくる」「あと14日したら戦争が終わる」…鉄条網で外界と隔てられた収容所で何の裏付けを確かめられるわけでもない。信じたいという気持ちだけが膨れ上がり、「なぜだか分からないけれど絶対そうなるんだ」という裏付けのない確信=幻想となって囚人の心をつかむ。そして、“予言”の当日、いつもと変わらぬ一日が終わって見てみると、予言を信じてあんなに元気だったはずの当の囚人が、まるで魂の力が途切れたかのように、床の中ですでに死んで冷たくなっている…。
ナチスの強制収容所が人類に対する犯罪であることに変わりはなく、それを“必然”だなどと言う気はない。だが、著者の見たまま描かれた囚人たちの記述を読むにつれ、人間に許された自由とは、そして逃れようのない運命とは何だろう、本当に人間が持つべき希望とは何なのだろう、と考えさせられる。戦後、助け出された著者や他の生存者たちは言う。「もっとも良き人々は、還ってこなかった」と。わが身のパンや生命を差し出して人を助ける聖人は、確かに生存のチャンスはより少なかろう。しかしまた、生き残ったのは必ずしも筋骨たくましい若者ばかりではなかったという。ときには助け出されたときの自分たちを滑稽化した「収容所ジョーク」まで考え出してともに慰め合い、ときには生き別れになった家族や愛する人の幻覚を見ながら、本当に自分たちに残された希望と、人間としての価値を見失わなかった人々――彼らの全部が生き残ったわけではむろんないが、体力の差を越えて生き残った人の中には、そのような人々が多くいたという。
本書の中でも触れられているが、解放後の収容所PTSD――まず飢餓状態から解放直後の本当に歯止めがきかない異常な食欲、そうして何年か経ったのちも社会の中に自分の居場所を見出せず、抑うつと憎しみという収容所での感情状態に嗜癖している「収容所症候群」――の爪跡は深い。『心的外傷と回復』や『魂の殺人』などにも事例として登場する、助け出されたユダヤ人の親たちの、自分の子どもたちに対する虐待の「再演」を読むにつけ、ルカの福音書にある「我らを試しに遭わせ給うな」という祈りの言葉はこういうことなのか、と慄然とせずにはおれない。だが、いや、そうであればこそ、心の片隅でつねに、「人は何によって生きるのか」――本当に「人間として生きる」とはどういうことなのか、それぞれが問いを抱え、日々答えを出していかねばならない。そのためにも、本書は時代を超えて読みつがれるべき本なのではないだろうか。
(2004/10/11 蔦吉) |
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The Road Less Traveled
- A New Psychology of Love, Traditional Values
and Spiritual Growth -
著者:M. Scott Peck
出版社:Simon & Schuster Books
ISBN:0684847248
定価:$14.00
(縮約 朗読CD)
出版社:Simon & Schuster
ISBN:0743527305
定価:$30.00 |
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(邦訳)
愛と心理療法
著者:M・スコット・ペック
訳者:氏原寛、矢野隆子
出版社:創元社
ISBN:4422110837
定価:1,900円 |
心理的自立への道と、「魂の成長」ということ
M. スコット・ペックといえば数年前に話題になった『平気でうそをつく人たち』が有名だけど、欧米の書店で「Self Help(日本のカテゴリでいえば“ポピュラー心理学”が近いと思う)」の本といえばこれ、というくらい、本書は売れつづけているらしい。
内容は精神科医である著者のさまざまなクライエントとの出会いをもとに、神経症とは何か、人格障害とは何か、愛と依存との違い、そして「魂の成長」ということに関して論じたエッセイの集まり。第一章ののっけから「Discipline(規律)」とくるものだから、なんだかすごくアメリカ的な、上流階級WASPの清教徒的な道徳至上主義!?みたいな感じがしないでもないのだけど、よく読んでいくと、「自分を律すること(self
discipline)」、自分のことを本当に考え、自分のためになる大きな利益のために目先の楽しみを後回しにできるという能力は、本当に自分で自分を愛していないかぎり出てこないのだと分かる。そして自分で自分を愛する能力は、親や周囲の人々から本当に愛されていると――口先だけの言葉ではなく態度によって伝えられてはじめて、健康に発達する、と著者は言う。
その能力を欠いたために――本人に悪気はなくとも、たまたま不運な子供時代の出会いが重なってそのように成長したのだとしても――自分で本当に自分のことを考える能力、真実に直面する能力を欠いたために起こってくるのが、神経症などをはじめとするさまざまな症状なのだという。C.G.ユングは「神経症は正当に悩むべき苦悩を体験しないことによる置き換えである」「人が自らの内部の影に直面するのを避けるとき、それは外部から運命となって襲いかかる」という言葉を残した。著者のカウンセリングで、真実に、正当に悩むべき悩みに直面して回復してゆく人々、心の奥底の“影”が吟味にさらされる恐怖から、ついにカウンセリングの予約をすっぽかし、音沙汰もなくなってゆく人々。いつの世にも人間は、より高いものに向かっての成長したいという欲求と、都合の悪いことや苦痛は何も見えない子供部屋のまどろみの中にとどまっていたい欲求との間で葛藤しているのだと、思い知らされる。
本書のエピソードの中で印象的だったのが、テッドという30歳の青年のケースだ。彼はすでに両親をなくしており、大学を出てから7年間、職につかず森の中の一軒家に住んでいる。友達もほとんどいない。親の遺産だけはたっぷりあるおかげで引きこもり生活が何の問題もなく成立してしまっている、という状況なのだが、テッドはおおよそ「何かをやりたい」という欲求そのものを持つことができず、日常生活の小さなことに対しても決断ができない。大学時代に失恋に終わった恋にそのきっかけがあるのではと精神分析に乗り出すが、どうもそうではないらしい。何回かのセッションのうちに、テッドの見た夢、そして友人が死んだ日のこと、小さい頃の、教会での思い出…。
テッドがどのように変わっていったかは「読んでのお楽しみ」ということにしたいのだけど、人生とは「あの時のあんな小さなことが」と思うような小さな、微妙なターニングポイントがいくつも折り重なってできているのだということ、そして不運な出会いが重なり、生命の流れがせき止められて「魂が死んでいる」かのような現在にさえも、過去のターニングポイントにひとつひとつ立ち戻る勇気さえあれば、ふたたび自分自身の生命の流れと触れ合うことは可能なのだと。そのことを改めて認識させてくれる、そんなストーリーだった。
余談っぽくなるけれど、「魂の成長」ということを考えるとき、やっぱりずっと進んだ先には「宗教」がかかわってくるのだろうか。『トーマの心臓』でもないけれど、魂の仮死状態の中に心を閉ざしてしまったことのある人間というのはとくに、ふたたび生命の流れへと還ってくる過程で、生きることそのものの神秘、というものを自覚せずにはおれないのかもしれない。テッドの物語の結末にも「神」がからんでくる。そうして本書の著者もメソジスト派の洗礼を受けたキリスト教徒であり、本書の後半1/3も「神」についての話である。
(2003/08/11 蔦吉) |
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