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Le Petit Prince

著者:Antoine De Saint-Exupry
出版社:Harcourt Childrens Books
ISBN:0152164154
定価:$20.00
フランス語朗読CD付ペーパーバック
出版社:Gallimard-Jeunesse
ISBN:2070516660
定価:£11.75
(邦訳)
星の王子さま

著者:サン=テグジュペリ
訳者:内藤濯
出版社:岩波書店
ISBN:4001156768
定価:1,000円

愛蔵版
出版社:岩波書店
ISBN:4001155613
定価:1,600円

見えぬものの瞬き

子どもの姿、というのは、純粋な自己の魂の象徴であるとよくいわれる。
ジョン・ブラッドショー『インナーチャイルド』の「ワンダーチャイルド」や、河合隼雄『無意識の構造』で紹介されているユング心理学の元型「始源児」の話などは、自由な心や創造性・可能性の大きさの象徴としての子どもの姿について説いている。しかし同時に、無防備で何ものにも属さないゆえの子どもの危うさ、というものについても無視してはいない。「ワンダーチャイルドだけになってしまうのは、ただ、今をふらふらとさまようだけになってしまうということです。それはとても怖いことです」。…そういえば、あれは昔読んだ『夢占い辞典』だっただろうか。宇宙から地球を眺める夢や、蝶(荘子の話やユング心理学で言われる魂(プシケー)の象徴である)になって舞う夢というのは、自己の魂のひじょうに高い成長をあらわすと同時にしばしば、自分の死期や肉体的危機の迫っていることを告げることもあるのだという。すべてを削ぎ落され彼岸への距離がせばまったとき、人は時としてそのような純粋な魂の像との奇跡的なコンタクトを果たすものなのかもしれない。

この本の語り部である航空家の飛行機が故障して不時着したのもまた、サハラ砂漠という、美しい無機質と死の世界である。なのに、というか、最初から物語は、生命の危険も安全もどちらも存在しない夢の回廊のようでもある。故障した飛行機のまわりで右往左往する彼の前に、突如として一人のふしぎな男の子が現れる。
「ね、ヒツジの絵をかいて…」、と。

この男の子=王子さまにさんざん文句をいわれ、最後に「これは箱だよ。あんたの欲しいヒツジはそこへ入っているよ」と言って航空家が描いた箱の絵も、その前の回想にでてくる「ゾウを呑み込んだウワバミの絵」も、物語全体をつらぬく基調音――「ほんとうに大切なことは、目に見えない。心で見なければ見えてこない」という言葉へとつながってゆくのだが、「目に見えない大切なこと」とはいったい何だろう? 「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」…思えば砂漠も、夜空の星も、無機物の沈黙のなかにどこか人を惹きつけてやまない。

その砂漠の上空に瞬く星々とは、王子さまの故郷の惑星であり、王子さまが地上に降りるまでに立ち寄った、王様や、うぬぼれ男や、呑み助や、実業屋や、地理学者や、点燈夫の星でもあった。それらの星々に住まう人々の、なんと私たち地球の人間に似ていることだろう。みんなそれぞれの惑星に一人きりで住んでいて、みんな、自分がどれだけ偉いか、どれだけ立派に見えるか、どれだけ恥ずかしいか、どれだけお金や知識やものを持っているか…「自分」に閉じ込められている人々でもある。ただひとり、点燈夫をのぞいては。交互にほとんど間もなしに昼と夜が来る小さな自分の惑星で、1本のガス燈の火をつけたり消したりしている彼の行為だけは、遠くはるかな「他のだれか」に向けられたものだった。

「他のだれか」――それこそが、王子さまと著者のほか、キツネや、かりうどや、本書に登場する多くの登場人物たちにとっての、「美しいもの」の美しさの源になっているように思える。王子さまの星にも1本のバラの花があった。ずっと愛されていたい思いから、王子さまにわがままを言いつづけたバラの花。「たった4本の小さなとげで自分を守れると思っている」、誇りよりほかに頼るものがないか弱さゆえの、幼い誇り。バラの花のわがままを真に受けて星をとびだしてしまった王子さま。それでも、やってきた地球の庭に何輪も咲きほこる他の多くのバラではない、「ぼくの、あの花」だからこそ、これほどまでに美しく、懐かしい存在だったのだ。それはまた、「あのバラの花」そのものが美しく価値がある、というのでもない。ほかでもない、王子さまとバラの花との間の思い出=関係があった、ということこそが、遠くにあるバラの花を、そしてその花の住まう星を、宇宙を、輝かせているのだった。

それは目で見ることも、聴くことも、手でさわって確かめることもできない、姿のないきらめきである――私たち、「政治やゴルフやネクタイの話」ばかりせずには世間を渡っていかれなくなった大人たちにとってさえ、人生の美しいもの、楽しいことの奥にかならず隠されている、「心でなくては見ることのできない」輝きである。何も身につけないむき出しの魂と、その魂を結びつける糸だけがすべてだった、それゆえに世界は輝かしく、また残酷で、鮮烈だった、あの子ども時代にはそこかしこに見ることができた光。しかし、悲しいかな、その純粋な魂だけの時代が終わることによってはじめて、子どもはゴルフやネクタイや政治をふくめた生者の世界に生きる「ひと」となるのかもしれない。

しかしながらまた、子ども時代はその終わりによってはじめて永遠となり、姿のない魂の輝きもまた、雑多な事物の向こう側にあってなお、永遠に私たち人間に微笑みかける、そういうものなのかもしれない。最後のページにある「この世でいちばん美しくって、いちばんかなしい景色」を、主人公がずっと憶えているように。大人の世界に生きてなお、忘れさえしないならば。

――おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

(2004/01/28 蔦吉)
※おまけ。

(左) 星の王子さま 日記帳
ISBN:4002200043
定価:1,000円

(右) 星の王子さま ポストカードブック
ISBN:4002200051
定価:1,000円

発売:岩波書店

Die Unendliche Geschichte

著者:Michael Ende
出版社:K. Thienemanns Verlag GmbH & Co
ISBN:3522128001
定価:16.82EUR
(邦訳)
はてしない物語

著者:ミヒャエル・エンデ
訳者:上田真而子、佐藤真理子
出版社:岩波書店
ISBN:4001109816
定価:2,860円

「そこへ至る道ならば、結局はどれも正しい道だったのです」

この物語をもとにした映画『ネバーエンディングストーリー』は完全に原作者エンデの意図からはずれた「単なるおとぎ話」的な終り方となってしまったけれど、映画でもってこの物語のはじまりを知った、という人も多いのではないかと思う。主人公の名はバスチァン・バルタザール・ブックス。小学生で、両親は離婚し、歯科技工士の父親は家であまり彼にかまってはくれない。「でぶで、エックス脚で、めがねをかけている」容姿を級友たちにからかわれている。多くのいじめられっ子のステレオタイプのごとく、のろまで、オドオドとして、いじめのターゲットになってしまう自分を自分で嫌っている。そしてそのことがまた、多くのいじめられっ子の例にもれず、心から自信をもって自分を守ることができない卑屈さとなって表れ、いじめのターゲットから脱け出せないでいる。

そんな彼の唯一の救いは空想の世界に遊ぶこと。ある日、いじめっ子たちに追いかけられて逃げ込んだ古本屋で、不思議な一冊の本を手にする。互いに尾をくわえた二匹の銀の蛇とあかがね色の絹の表紙がついた、その本の題名は『はてしない物語』。本をひらいて読みはじめるやいなや、バスチァンは自分の空想と寸分たがわぬふしぎなその本の物語世界「ファンタージエン」から呼ばわる声に引き込まれてゆく。今までにない、まるで宿命のような確信をもって、不気味な学校の屋根裏部屋へ本をこっそり持ち込んで読み進むバスチァン。空想世界の彼の分身である、オリーヴ色の肌の少年戦士アトレーユと冒険を共にし、ついにファンタージエンの女王“幼ごころの君”の呼びかけに応えて、彼はファンタージエンの危機を救いに物語の世界へと入ってゆく。

そこまでが――夢の世界から幸運の白い竜にまたがって地上に降り立ち、いじめっ子たちを見返してやる、という白昼夢めいたエンディングが映画の方の終わり方だったのだが、原作ではそこから先が、いよいよ物語の核心になってゆくように見える。どこか美しく妖しい神話的な象徴にみちたアトレーユの遍歴が一応の終止符を打ち、めったにファンタージエンを訪れなくなった「人の子」、幼ごころの君の護符であるあの二匹の銀の蛇「アウリン」をさずかってファンタージエンに降り立った全能の王子バスチァン。地下深く涙で洗い出した銀でみごとな銀細工をつくる醜い常泣虫(とこなきむし)アッハライたちを、彼はファンタージエンの危機を救った「名づけの力」という人の子の「魔法」によって、冗談と陽気な浮かれ騒ぎだけに生きる道化蛾シュラムッフェンに変身させてやる。華々しい物語のスタートには、聴こえるか聴こえないかほどの小さな軋み音が影のようにひっそりと響き、それがしだいにはっきりと聴き取れるバスチァン自身の危機になってゆくにせよ――いやそれだからこそ、この部分が物語にとって欠かせない核心部分なのだと思う。

かつてファンタージエンに訪れた危機とは、「虚無」がひろがりつつあること――ファンタージエンの領土も生き物たちも灰色の虚無に呑まれて消えてゆき、虚無をとおって人の子たちの現実世界へ迷い出て、人の心に毒を流す「嘘」に変わり果ててしまうことだった。それは人の子たちがほんとうの物語や空想、「夢を見ること」に見向きもしなくなったこと、幼ごころの君に唯一新しい名を与えることのできる、つまりファンタージエンの生き物には持ちえない「ことばの力」を持った人の子がファンタージエンを訪れないことが原因だった。人の子の「ことばの力」こそがファンタージエンの生命を再生する源であり、その中では全能の魔法だったのだ。だがファンタージエンで人の子バスチァンが、全能の力に酔いしれてその権力を振るうごとに少しずつ失っていったのは、「望み」――何が自分のほんとうに求めるものなのか、熟慮し、見きわめて、前に進むという、人の子として生きてゆく上で欠かせない「正気」にほかならなかった。閉じた擬似世界の中で権力をふるいつづける者は、ついに自分と対等な仲間のだれも存在しない世界、自分ひとりのおもちゃ箱の、寂しい王国の狂気の中へと自分を閉じ込めて終わるだろう。もう最後の一かけらも「望み」うる力が残っていなければ。

そのことに気づいたとき――ファンタージエンの果てで、ついに「望み」を使い果たして狂気の中へ自分自身を閉じ込めてしまった人の子たちの住まうグロテスクな「元帝王たちの都」で自分の未来を目のあたりにしたとき、バスチァンのほんとうの冒険行――ファンタージエンから自分の世界へと帰る道をさがす旅がはじまる。全能の王子の華麗な衣もなくし、まるで追放の罰を受けたワイルドの『星の子』のように、よろよろと、醜く、か弱く、ちっぽけな自分ひとつに、途方もない課題と危険を背負って。その旅はいままでの剣と魔法の華麗な遍歴に比べてどんなにみすぼらしく哀れに見えようとも、よりいっそう胸に迫ってくる。チャンスは一度きりの、自分自身を賭けた、まさしく人の子の「試練の瞬間」であるからだ。

その後のバスチァンの運命と大団円については詳しく書かないことにするが、なぜバスチァンは一度ファンタージエンへ旅立つ必要があったのだろう、そして狂気の淵まで行って戻ってくる必要があったのだろう…と考えるとき、すべてを失ったバスチァンを迎え入れたファンタージエンの「変わる家」の女主人・アイゥオーラおばさまの言葉が思い出されるのだ――「そこへ至る道ならば、結局はどれも正しい道だったのです」と。あるいはそれは「後になればなんとでも言える」たぐいの結果論にすぎないのかもしれないが、それでも思わずにいられないのだ――ひとたび孤独と狂気の牢獄に迷い込んだ人間だからこそ、その死の世界から生還するという試練をくぐり抜けたとき、自分の生きる世界の輝きについてより深く知ることができたのだ、と。そのときこそほんとうに、「悩みも恵み」――タナトスの淵に沈みかけたことも、それは悩む力があったという、大きな祝福でありうるのだ、と。

(2004/01/28 蔦吉)

Momo

著者:Michael Ende
出版社:K. Thienemanns Verlag GmbH & Co
ISBN:3522119401
定価:12.15 EUR
(邦訳)
モモ
- 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 -


著者:ミヒャエル・エンデ
訳者:大島かおり
出版社:岩波書店
ISBN:4001106876
定価:1,700円
愛蔵版

出版社:岩波書店
ISBN:4001155672
定価:2,800円

「時間とは何か」、そして「人生とは何か」への素敵な冒険――「ミチハ ワタシノナカニアル」

「スローライフ」なんて言葉が取り沙汰されたりして、時間、ってものにこの頃注目が集まっている。時間というのは本当にふしぎなもので、たとえば人生80歳までなら同じ時計で測っただけの時間がどの人にもあるはずなのに、まったく同じ時間をある人はのんびり過ごしていて、ある人はしょっちゅう「時間がない、時間がない」とこぼしていたり、また『魔の山』のサナトリウムとか、『夜と霧』の強制収容所のような、隔離された自分が社会にとって何者でもなくなってゆく環境では「1分、1秒がとても長く、1週間がとてつもなく素早く過ぎ去ってゆく」という「時間の逆説」も起こり得る。

物語の主人公モモは、街の円形劇場の遺跡に住みついた小さな浮浪児の女の子である。現代社会がそもそも浮浪児というものの存在をゆるさなくなっているのだが、このとりたてて変わったところのない浮浪児モモの特別な能力とは「あいての話を聞くこと」。モモに話を聞いてもらっているうちに、なぜか人々は自分を取り戻し、子どもたちは素敵な遊びのアイディアが次々と浮かんでくる。モモ自身はなにも相手にはたらきかけるわけではない。気の利いた質問をするわけでもない。ただ、そう、耳を傾けてじっと待つのだ。「…なんであれ、時間というものが必要です。それに、時間ならば、これだけはモモがふんだんに持っているものだからです」。

そんなモモと、円形劇場の近所に住む貧しくも温かな人々の周りに、ある日「灰色の男」たちがじわじわとしのび寄ってくる。時間貯蓄銀行の外交員を名乗る彼ら灰色の男たちは巧妙な詐術で、人々に「時間節約」の幻想を信じ込ませ、人間の生きた時間を盗み取ってゆく。その灰色の男たちの一人と、モモとの出会い。彼らの正体とたくらみを直観で見抜いてしまったモモと、灰色の男たちの、奇妙な追跡と逃走。30分先の未来を予見するカメのカシオペイアに導かれ、モモは時間を司るふしぎな老人、マイスター・ホラの「どこにもない家」へとたどりつく。

時間とはいったい何なのだろう。つねに人間の手の中にあるのはとらえどころのない「今」しかない。1秒後、0.1秒後には「今」がすでに「過去」となる。それをいうならたとえば、私たち人間が音楽を聴いて美しいと感じるのはなぜなのだろう。いつでも薄いオブラートのような「今」の切片にひとときに鳴っているのは1つの音符、1つの和音だけのはずなのに。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ」

マイスター・ホラの腕に抱かれて時間の殿堂でモモが見た「時間」とはまた、あらゆるもののざわめきとして世界の奥深いところから響いてくる音楽であり、二度と同じ色形、同じ相のない生命の花であった。音楽とは過ぎ去ってゆく流れに身をまかせて聴くものであり、音符の集積をバラバラにかき集めるものではない。ただ一度、二度とない一期一会の「今」とは、けっして切り取って「貯蓄」できるようなものではない。それを貯蓄できるかのような幻想を抱き、「今・ここ」の価値をおとしめることで、“ため込んだ”時間を失うことを恐れ、不当に死を恐れ、ますますため込んだものを守ることだけにやっきになり…そうしてわれわれの手元には、味わうことをゆるされない、無価値な、死んだ「今」の連続だけが残る。

「もし人間が死とは何かを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ」

「どこにもない家」での長い眠りから覚めたモモがいよいよ灰色の時間どろぼうたちと戦う、哲学的な象徴にみちたスリリングな冒険は読んでのお楽しみ、ということにしたい。だがきっと読み終わった後に希望を持てることだろう。もし私たち人間が、もともと存在しなかった灰色の男たちをつくり出すような条件を許しているのなら、ほんのささいな視野の転換と勇気によって――死を恐れないこと、流れに身を任せ、過ぎ去ってゆくものを手放すことを厭わないこと、そしてただ一度、二度とない「今・ここ」の輝きに目を向けることによって――この時間節約嗜癖からの脱出は可能なのだ、と。そう、カメのカシオペイアが言ったように――「ミチハ ワタシノナカニアル」。

(2003/03/02 蔦吉)

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