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こころの暴力 夫婦という密室で―支配されないための11章

著者:イザベル・ナザル・アガ
訳者:田口雪子
出版社:紀伊国屋書店
ISBN:4314009055
定価:1,500円

分かりにくい虐待にあっている人へ

マニピュレーター<裏で操る人>とは常に人を心理的に支配しようとする人のことであって・・・精神医学の観点からすれば病的であるとも考えられる、自己愛の強い人格なのである.(本文より抜粋)

これは夫婦について書かれた本なのですが、こういう虐待をする人もいるのだという意味で、「うちは典型的なDV家庭というよりも普通の家庭だったのに自分はなぜかAC」、という方には参考になるかも知れません.マニピュレーターは暴力を振るう事はめったにありませんが、遠回しの批判や侮辱をし続けて精神的に(身体的にも)破滅的な被害を与える人達です.作者によるとマニピュレーターの人口に占める割合は3%くらいでは?との事ですが、こういう分かりにくいいやがらせって、よくあったような・・・それとも両親がこの3%に入っていたのか.

家族というより、夫婦間でなにか変だと思っておられる方にはお勧めです.

(2003/07/17 tazaさん)

Women Who Love Too Much

著者:Robin Norwood
出版社:Pocket Books
ISBN:0671733419
定価:$7.99
(邦訳)
愛しすぎる女たち

著者:ロビン・ノーウッド
訳者:落合恵子
出版社:読売新聞社
ISBN:464393056X
定価:1,553円

文庫版
出版社:中公文庫
ISBN:4122036291
定価:933円

「共依存・人間関係嗜癖」のパイオニア――『美女と野獣』のおとぎ話に寄せて

1985年に米国でこの本が出版された直後、「codependency(コ・ディペンデンシー:共依存)」という言葉は一種の"in" word(流行語)となった、なんて話をよく聞く。この言葉と概念がここまで人口に膾炙し、そのケース別の実態も知られるようになった現在この本を読み返すと、なんだかあれもこれも「愛しすぎる女」のひとことで大雑把に一緒くたじゃないか?なんて気がしないでもない。一見娼婦のように隙だらけの“破滅型”風で、暴力的な男からの間違った「毒になる」注目と欲望、危険がもたらすスリルにすり寄ってしまう「恋愛嗜癖」者と、ひっつめ髪に化粧気もなく、「私が助けてあげなければいけない」男との殉教者的な生活に黙々と耐えているかのように見えて、その世話焼きの底には根づよい復讐心が横たわっている「共依存」者とでは、バックグラウンドも回復へのアプローチも違うだろう。

しかしそうは言っても、「尽くす女」という美徳、愛したら「あなたなしでは生きていけなくなる」ものだという神話の陰に隠れた有害性や、人間は人間関係にも嗜癖するという事実に光を当てた本書の功績というのは本当に大きいと思う。筆者が引用した嗜癖学者のスタントン・ピールの言葉によると、人間はある種の恋愛に対しても、手足の震えやパニック状態といった「禁断症状」を示すことがあるのだという。つまり、ある種の恋愛だって、アル中やヤク中と同じことなのだ、と。

「恋愛や人間関係も「ヤク」になりうる!」ってのが、当時はすごくショッキングな「新事実」だったのかもしれない。と同時に、そう見たときに、アルコール依存の治療現場で見られた「尽くす女」「男運の悪い女」たちについてすべてがぴったりと符合したからこそ、この概念はまたたく間に広まった。しかし私自身は――はじめてこの本を読んだのはずいぶん昔になるが――さいわいと言うか、共依存・恋愛依存症の方の当事者であったことはないけれど、「愛情」というものへの考え方について、「やっぱりそうだったんじゃん!」と、すごく勇気づけられたように思う。

すなわち、「愛情を押し売りする人生は、かならず裏切られる」、と。よく、「男は仕事に生き、女は愛に生きる」なんて言うけれど、他人に「愛情を与える」ことだけが女の生きがい・自尊心の源泉だったら、じっさいにはどうなるだろう? 他人に与えて与えつづけ、あからさまに、あるいは隠微に、彼女は“自分が与えた分”に見合う感謝を勝手に見積もり、それが得られないことに恨みを抱くだろう。そして恨みを抱きながら「無償の愛」の仮面のもとに恨みを否認しているぶん、彼女の“愛情”と世話焼きは支配の様相を帯び、「私だけが正しいのにこんなに我慢している」という、自分の道徳的優位を主張するための“記者会見”となってゆくだろう。わたしがこんなに尽くしているのに、恋人は、夫はかまってくれない、子供たちは私の期待どおりに育ってくれない、誰も報いて、かえりみてはくれない、etc.…おなじみの愚痴と、それでも相変わらずな「女の“愛の力”で男は変わる」「あんたが妻として、もっと我慢しないからよ」という社会通念からのお説教の、無限ループに閉じ込められた人生。いま現在アル中の暴力男に殴られていなくたって、根底にある問題は同じではないだろうか。

米国人に、そして私たちにもなじみの『美女と野獣』のおとぎ話はこの、女の“愛の力”神話を強化するかのように私たちの社会に流布している、と著者は言う。そこにはいまだ“愛の力”以外の領域から事実上しめ出され、「愛の力で夫を(恋人を、子供を…)立ち直らせた女」という自己イメージを求めて愛情を押し売りする自尊心乞食とならざるを得ない女性たちの問題がある。だけどもし本当に人を癒すような愛情があるとするならば――たぶん、美女にとっては野獣が王子さまに変身しようと、恐ろしい野獣の姿のままであろうと、本当はどちらでもよかったのじゃないか。彼女は「愛の力で野獣を王子さまに変えた女」という自己イメージにしがみつく必要がないくらいに自分で自分を愛していて、そうして彼女の自由な選択として野獣を愛したとき、ハッピーエンドが訪れた、と。このおとぎ話が本当に伝えようとするメッセージを、著者はそのように解釈する。本当の「愛の力」があるとするならば、きっとそういう、さわやかで風通しがいいものだったんじゃないだろうか。そんなことを考えさせてくれる1冊。

(2003/05/20 蔦吉)

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