1.感じるままを感じてもいい。感情には正しいとか間違いということはない。感情はただあるだけである。誰も人がどう感じるべきかを教えることはできない。感情について話すことは、良いことであり必要なことだ。 2.欲しいものを欲しがってもいい。欲さなければならないことや、望んではならないことなどない。自分の活力に触れたならば、大きく成長したくなる。 3.見え、聞こえることを見聞きしていい。見聞きしたものはなんでも、自分が実際に見聞きしたとおりのものなのだ。 4.いっぱい楽しんだり、遊ぶのはいいことだし、また、そうする必要がある。 5.真実を語ることは重要なことである。歪められた考え(“すべてか無か”思考、破滅化、過度の一般化、読心術、etc.)をしりぞけて現実をあるがままに見ることは、人生の苦痛をやわらげる。 6.ときには限界を知って、満足を先のばしにすることは大切である。これもまた人生の苦痛をやわらげる。 7.バランスのとれた責任感を発達させることは重要である。それは自分の行動の結果を受けとめることと、他人の行為の結果を引き受けないことを意味する。 8.失敗してもいい。失敗は教師である。失敗は学ぶことを手助けしてくれる。 9.自分自身と同じように、他者の感情、要求、望みもまた、尊敬され尊重されるべきである。 10.問題があってもいい。それは解決される必要がある。葛藤があってもいい。それは解決を必要としている。
ジョン・ブラッドショー 『インナーチャイルド』(NHK出版)第10章をもとに作成
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■3297 / )  過去との関係
□投稿者/ るあん -(2005/04/24(Sun) 11:27:58)
    過去を克服し現在を生きるためにせねばならない、インナーペアレントを断ち切りインナーチャイルドを抱きしめるという二つの作業。前者が過去を否定することならば、後者は過去を肯定すること。私には、時として、この二つの作業がどうしようもなく相互排他的に思えてなりません。二つを同時進行しようとする度に、自己内矛盾に耐えられなくなり、過去の完全肯定か完全否定かの二者択一を自らに迫ってしまいます。そして、いずれかを選択することなど不可能であること、また、どちらに傾いたところで、同じような結論――自分を消してしまいたいという願望――に至ることを悟り、絶望的になってしまうのです。

    私という人間は、元を辿れば、物理的にも精神的にも親が作ったものに過ぎないのであり、ありのままの自分などいないように思います。子供の頃に親によって否定された私という存在、それを肯定してあげようと、自分の歴史を遡ってみますが、何を肯定すべきなのかが分からなくなります。親によって歪められた私を自由にしてあげようと、本当の自分を探し回ってみても、親の作為から完全に独立した自分など見当たらないのです。つまるところ、私という存在の根源にあるのは無でしかないのだから。

    始めに私ありきではなく、始めに無ありきならば、何を拠り所に自分の過去を、そして自分という人間を肯定していけばよいのでしょう?私の過去の何をとっても、毒親に汚染されているものにしか見えない。彼等のしたことを肯定することなどできない。彼等が作り上げた私も肯定できない。だから、私は全てを否定する方向へと傾いてゆくのです。私を消してしまいたいと願った親を否定し、そんな親の思いを内在化してしまった自分を否定する。そうすれば、私は無になれる。

    その完全否定の可能性は、時に私に希望を与えます。自分の過去の一切を否定して、原初状態であるところの無を取り戻し、新たに自分を作り上げていくことができたら、自己肯定の感が沸いてくるかもしれない。例えば、親と絶縁し、私が生まれたときには既に私と共にあった私の名前、性別、国籍等を変えるという行為をすれば、そういう行為をとった自分を愛してゆけるのではないか。そもそも、今の私には、それら生得条件の全てがいまいましくて仕方がない。だから、できる限り破壊したい…。

    けれども、その破壊願望はとどまるところを知らないでしょう。毒親を自分から断ち切る努力をしているうちに、自分自身をも切り刻むようになり、結局は自己破壊に至るように思います。そもそも、私は、自分を変えるために過去を破壊し、将来のために生きるということをずっとやってきましたが、そんな生き方はもう破綻してしまいました。それは、ひとつの自己否定であり、ある程度までは前進のための機動力たりえますが、自分という存在を根本的なレベルで肯定することにはつながりませんでした。何をしたって、自分の存在が許せないのであれば、何もする気になれないのです。かといって、私の過去は、肯定するにはあまりに毒親の影が強く、過去の肯定はすなわち自己の否定となりかねません。

    私という存在は過去によって作られ、その過去とは私という存在の否定である場合、過去を否定しても肯定しても、自分の人生を生きるという道が開かれないような気がしてなりません。過去を忘却して、前のみを向いて生けたらいいのに。昔はそんなこともできたかもしれませんが、今の私には過去が重くのしかかります。生きていることへの罪悪感を克服しない限り、もうこれ以上生きてはいけない。そのために、過去とどう関わっていったらいいのか、肯定も否定も必要ならばその二つをどうやって共存させるのか、それとも肯定でも否定でもない第三の道があるのか、そんな答えの出ない疑問を頭の中で堂々巡りさせている昨今の私です。

    どなたかご意見がありましたら、聞かせてください。

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