自分の中に堆積した「恨み」の感情に気づき、手放すためのメソッドです。 「棚卸(たなおろ)し」とは何か?
AA(アルコホーリクス・アノニマス)をはじめとする12ステッププログラムで用いられている、「12のステップ」の中の「ステップ4」には、 「探し求め、恐れることなく、自分の生き方の棚卸(たなおろ)し表を作った(Made a searching and fearless moral inventory of ourselves.)」 とあります。 その後に「神に対し、自分自身に対し、いま一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた(ステップ5)」「これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた(ステップ6)」…と続くので、パッと見ただけでは、「棚卸し」とは「自分のアレがいけないと思います、コレを治すためにもっとがんばろうと思います」的な道徳上のアラさがし(=新たな自己嫌悪への道)のように思われてしまいがちですが、決してそうではありません。 商店やスーパーマーケットには棚卸しの日、というものがあります。棚や倉庫に今現在ストックしているすべての商品をチェックして、その結果、傷んでいたり腐っていたりするものがあれば取りのぞいて捨てなければなりません。リンゴ箱の中の腐ったリンゴを放っておくと周囲のリンゴも全部腐ってしまうように、傷んだり腐ったりした品物は、店の商品や、それを知らずに買ってしまうお客さんにも害を及ぼします。 生き方の棚卸しもちょうどこれと同じことです。店の棚に腐ったリンゴが何個か見つかったからといって、その店自体が腐っていて悪いというわけではありません。自分の中の腐敗した感情や無益なエネルギーの流れは取り除かれなければなりませんが、だからといってただちにそれが私たち自身が悪い、劣った存在であるという意味ではないのです。 むしろ、棚卸しではすべての商品を、傷んだものも良いものもチェックして正確な店の資産を数えるように、生き方の棚卸しもまた、自分の欠点と同時に長所・恵みも数え上げて今現在の正確な自分自身の姿を把握するものです。 棚卸し作業はある程度自尊心や自己肯定感を回復してから、心が落ち着いている時に行なうのがいいと思います。あまり一気にやろうとせず、あれこれと自分の欠点が見えてきて、前と同じ自己非難・自己処罰の声にとらわれそうになったら、無理をしないで一時ストップしてみることも大切です。 「恨み」は「怒り」が堆積して腐敗したもの 精神科医の斎藤学氏は著書『「自分のために生きていける」ということ』の中で、「恨み」を定義づけて「「恨み」は「怒り」が表現されずにためこまれ、腐敗したものである。怒りは一時的なもので、発散されれば終わるが、恨みは持続する。怒りは相手の愛を求めるが、恨みは相手の破壊を求める」と述べています。ちなみに「恨む」という英語の動詞「resent(リセント)」は、ラテン語の接頭語「re-(再び、くり返し)」と「sentir(感じる)」が合成されたものです。「発散することなく持続する」というところに「恨み」の本質があると思います。 さらに『広辞苑 第五版』によれば、「恨む」とは「他からの仕打ちを不当と思いながら、その気持ちをはかりかね、また仕返しもできず、忘れずに心にかけている意」と定義されています。つまり、「恨み」とは基本的に「強者から不当な仕打ちを受けた(と感じている)のに仕返しできない弱者の持つ鬱屈」であり、「なんらかの復讐を志向している感情」であると言っていいと思います。そしてそう考えると、「子供時代に親や周囲から受けた心の傷」が「恨み」となって心に堆積することは容易に推論できます。 しかし恨みの厄介なところは、恨みを持ち、復讐することが人生のゴールとなってしまった時点で、自分の復讐心を正当化するためにさらに同じような「自分は虐げられている」というシチュエーションを探し求めるようになるところです。米国の精神科医M. スコット・ペックは『愛と心理療法』の中で、いつも夫に虐げられているかのように見える共依存女性の中にあるのはこの種の復讐心であると述べています。夫に自分を虐待することを許しておき、暴力の放出の後で卑屈になってひたすら自分に許しを乞う夫を見ることで、「自分こそは正しい」「自分こそは道徳的に優位に立っているのだ」という感覚を再確認し、一種の復讐を果たしているのです。そしてこの種の女性の多くが、親や周囲に辱められた子供時代を送っている、と述べています。 つまり「復讐心を正当化するために無意識に自分が虐待されるような状況を求める」ことが何を意味するかと言うと、「恨みを抱く」→「復讐心」→「復讐心の正当化のために虐待的な環境を求める」→「虐待に対して恨みを抱く」のサイクルには終わりがない、ということです。「見なさい!あんたにトラウマを受けたせいで、私がどんなに苦しんでいるか」という、相手の悪を証明してみせるために自分自身を不幸の中に置く終わりのないドラマは、しばしば恨みを抱く当の相手が死んでお墓に入っても続くことになります。このようにして、恨みは相手の破壊と同時に自己破壊をも求め、私たちの人生を内側から毒していきます。 恨みを抱くということそのものについて、誰もそれを愚かだったと言える者はいないのではないか。管理人はそう思います。親や周囲の仕打ちに対し反撃する力もない子供であった私たちは、「恨む」より他に自分を持ちこたえさせる手立てがありませんでした。そういう意味で、「恨み」とはまた「子供の哀しさ」である、とも言えるように思います。その恨みの中核にある「怒り」は支持されるべきだと思います。今現在の自分が過去の出来事に対して親にどんな賠償取立てができるか、ということではなくて、心を傷つけられたことに対して怒りを感じていいのだと、認められるべきだということです。 大切なのは、心を傷つけられて怒りを抱いた出来事と、それを核として雪ダルマのようにくっついて堆積してしまった「恨み」を分けて、「恨み」の部分を手放すことです。前置きが長くなりましたが、AA(アルコホーリクス・アノニマス)で主に使われている、「恨み」を検証し手放す棚卸しのテクニックについて、ここで解説したいと思います。 (余談ですが、管理人自身は、あまり「許す」という言葉を安易に使うのは好きではありません。「許す」といういかにも高徳な感じの言葉に酔うことで、加害者に対し「何もかも許してあげる寛大な聖者」のポジションに自分を置き、自分の道徳的な勝利を押しつけるという、聖者の仮面をかぶった陰険な復讐に走る危険性も大きいと思うのです。「許す」よりは「手放す(let go of)」の方がそういったパワーゲームの匂いがなくていいように思います。) 「恨み」の棚卸し・How to この「「恨み」の棚卸し表」は、お金に対する嗜癖的な関係について書かれた本であるJerrold Mundis『Earn What You Deserve』という本の中で、著者が参加していたAAグループで使われていた方法として紹介されているものを元に作成しています。 まず、棚卸し表には以下のようなカテゴリがあります。
【恨みを抱いている相手】には、自分が恨みを抱いている相手である個人や団体や機関などの名前が入ります。 【恨みを抱くきっかけとなった出来事など】に、自分がその相手に対し恨みを抱くきっかけとなったエピソードを、ひとつ選び出して入れてください。例えば、「私の銀のライターを盗んだ」「私と離婚した」「私を叩いた」「私に雑用ばかりを押しつけた」「私に挨拶もしない」etc.…といったようなことです。最近のことであっても、昔のことであってもかまいません。「あのクソ野郎は…」「ズルいやり方で…」といった自分の側の感情的な言葉を一切入れず、ただ起こった事実だけを簡潔に述べます。 【そのことで自分がダメージを受けた部分】は、その出来事、その相手の仕打ちによって自分の中で傷つき損なわれたと思う部分です。たいがい自尊心や人間関係、物理的・情緒的・経済的な安全…といったような物になると思います。 たとえば、「A男に対して離婚されたことで恨みを抱いている」B子さんという人の、この出来事に対する棚卸し表はこの時点で以下のようになります。
この次に、【自分の側の行動・態度・責任】の欄を記入します。【自分の側の行動・態度・責任】は、その出来事に対し、その時自分がどういう行動や態度を取ったか、という事実だけを述べます。たとえば泥酔して留置所に入ることになった出来事について、「妻が自分をドアの外に閉め出したから、ドアを蹴り飛ばした」などという理由づけは一切書かずに、ただ「ドアを蹴り飛ばした」という、自分の側の事実だけを淡々と書きます。たとえ9割方相手の側に非があっても、9割方相手の非であることは認めた上で、残り1割の自分の側の行動や態度だけに集中します。これは決して自己批判や自己卑下のためではなく、この作業があくまで自分自身の棚卸しであるからです。だから、決して自己非難や、その反動の自己正当化に陥る必要はありません。 そして、【他にどんな選択肢がありえたか?】の欄を記入します。その出来事の時点で可能だったと思う選択肢について、思いつくかぎり書いてみます。これは何も、「ああすればよかった、こうもすればよかった…」と後悔し自己非難するためではありません。また、「私はこうすべきだった」「本当はこうしたかった」という義務や願望でもありません。ここで大切なことは、「選択肢がありえたのだ」ということに気づくことです。 この時点で、前出のB子さんの棚卸し表は、たとえば以下のようなものになります。
大人になってからの恨みは実際に自分に選択肢がありえることが多いので比較的手放すのが簡単ですが、子供時代の虐待や侮辱のような出来事は、選択肢も逃げ場もない仕打ちであったがために余計に恨みを手放すことが難しくなると思います。しかしその場合でも、恨みの感情に気づくことは恨みを手放す第一歩となります。たとえば、小さい頃に母親に虐待されていたC男さんという人の棚卸し表は、以下のようなものになるでしょう。
過去の選択肢が思い浮かばなければ、「今できること」について思いつくかぎり書いてみることで、自分に自分の心の状況をコントロールする力と選択肢があるのだと気づくことができます。ポイントは、選択肢があるのだと気づくことで、「「あんたのせいで不幸になっている私」を見せつけるという、無力で自己破壊的な道徳的復讐」から離れることです。 人を恨んでいて夜も眠れないというのは恨む方で、恨まれている本人はグッスリと寝ているのです。 くり返しになりますが、この作業は決して自己批判や自己非難のためではない、ということを、どうぞ覚えておいてください。ですから、恨みを抱いている相手に対して「道徳的な“負け”を認める」ことでは決してないし、またその出来事や行動について、誰も選択肢に気づかなかった私たちを愚かだと責めたり、お説教の追い討ちをかけたりする権利はない、ということでもあります。大切なことは、自分の事実だけを公正に吟味することです。 それでは、一人で棚卸し表を用意して作業をしてもいいし、このサイトの棚卸し表が安全で役に立ちそうだと思ったら、どうぞ気軽に使ってみてください。 |