「してもらったこと」「して返したこと」「傷つけたこと・迷惑をかけたこと」を通して 人間関係から自分の人生をチェックする方法です。 「棚卸(たなおろ)し」とは何か?
AA(アルコホーリクス・アノニマス)をはじめとする12ステッププログラムで用いられている、「12のステップ」の中の「ステップ4」には、 「探し求め、恐れることなく、自分の生き方の棚卸(たなおろ)し表を作った(Made a searching and fearless moral inventory of ourselves.)」 とあります。 その後に「神に対し、自分自身に対し、いま一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた(ステップ5)」「これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた(ステップ6)」…と続くので、パッと見ただけでは、「棚卸し」とは「自分のアレがいけないと思います、コレを治すためにもっとがんばろうと思います」的な道徳上のアラさがし(=新たな自己嫌悪への道)のように思われてしまいがちですが、決してそうではありません。 商店やスーパーマーケットには棚卸しの日、というものがあります。棚や倉庫に今現在ストックしているすべての商品をチェックして、その結果、傷んでいたり腐っていたりするものがあれば取りのぞいて捨てなければなりません。リンゴ箱の中の腐ったリンゴを放っておくと周囲のリンゴも全部腐ってしまうように、傷んだり腐ったりした品物は、店の商品や、それを知らずに買ってしまうお客さんにも害を及ぼします。 生き方の棚卸しもちょうどこれと同じことです。店の棚に腐ったリンゴが何個か見つかったからといって、その店自体が腐っていて悪いというわけではありません。自分の中の腐敗した感情や無益なエネルギーの流れは取り除かれなければなりませんが、だからといってただちにそれが私たち自身が悪い、劣った存在であるという意味ではないのです。 むしろ、棚卸しではすべての商品を、傷んだものも良いものもチェックして正確な店の資産を数えるように、生き方の棚卸しもまた、自分の欠点と同時に長所・恵みも数え上げて今現在の正確な自分自身の姿を把握するものです。 棚卸し作業はある程度自尊心や自己肯定感を回復してから、心が落ち着いている時に行なうのがいいと思います。あまり一気にやろうとせず、あれこれと自分の欠点が見えてきて、前と同じ自己非難・自己処罰の声にとらわれそうになったら、無理をしないで一時ストップしてみることも大切です。 リアリティを持って、「ひとりの人間」として親を見よう 内観法とは、奈良県大和郡山の実業家であった吉本伊信(1916-1988)が、浄土真宗の一派に伝わる修行法である「身調べ」を体験し、この修行法から宗教色を取り去って誰にでも実行しやすいものとして形作った自己分析法で、現在では日本の各地に内観道場がある他、刑務所などの更正施設でもさかんに行なわれています。 内観の特色は、「母親」「父親」といった身近な人々から始まる、今までの人生の中で自分がかかわってきた相手に対して「1) してもらったこと」「2) して返したこと」「3) 迷惑をかけたこと」という3点について、記憶をたどってできるだけ具体的に調べてゆくことで、一般に内観を体験した人は、今まで気づかなかった人生の中の多くの人々からの厚意や恩恵に気づき、感謝の気持ちとともにポジティブな視点を持って新しい生活に漕ぎ出してゆける、といいます。 こう書くとまるで「生かされて、お世話していただいて生きている」「海より深い母の愛」…的な家族イデオロギーへの“再洗脳”でもって、傷を抱えた人間にアメをしゃぶらせて安全に閉じ込めておこう、というような方法論に聞こえないこともないのですが、決してそういうことはなく、内観では原則として内観者(内観をする人)自身の自発性や判断・行動が尊重されています。道場などの内観指導者には徹底的に内観者の話を聞く姿勢(絶対受容の精神)が求められ、内観者が「恨み」の感情に圧倒されたときにはそれに十分耳を傾ける、といったことが行なわれます。 一人の人間が「100パーセント善」であるとか「100パーセント悪」しかない、というのは、幼児の世界観でもあります。どんな人でも親のイメージを「良い親」と「悪い親」に分離させたり、他人を「敵か見方か」に分けたり、という心の防衛法を多少は使って自分の世界像を安定させているものですが、これが極端になると、物事には100パーセントかゼロしかないという「白黒思考」となり、現実を歪めて受け取る「認知の歪み」となります。 私たちACの多くは人生の早いうちから親や周囲の物理的・心理的虐待、「条件つきの愛情」、侵入による「やさしい暴力」…といったことに晒されつづけてきたため、とりわけこのような白黒思考による防衛法に頼らざるを得なかった人々であると思います。親は絶対的な「良い」存在であって「自分が悪い、まちがった子供だから」ということにしないと、あるいは今は悪意を持った絶対的に「悪い」存在である親によって虐待されているけれど、本当はどこかに「良い」親がいて今までの不運を全部償ってくれるはず…ということにしないと、自分の心への理不尽な暴力にとても耐えられなかったからです。 「親は良い親で、自分が悪い」の防衛法を採用すれば、親に傷つけられた怒りは抑うつや疲労感、自傷癖、ストレス症状などですべて自分自身に向かったり、あるいは「親父の鉄拳は愛だった!」と親の価値観に同調して、かつての虐げられた自分を思い出させる弱者を見るとイライラしていじめに走ったりします。「すべて親が悪い。本当はどこかに良い親がいるはず」の防衛法を採用すれば、漠然とした恨みと「自分の人生に対する責任」ということへの混乱を抱えたまま、人生を「被害者」の目で見て生き、無意識のうちに「自分は被害者なんだ」という感覚を確かめるために孤立したり他人を攻撃したり、自分から不幸な環境を招き寄せたりして過ごすことになります。たいてい私たちは、この両極を揺れ動くことで、生きづらさの問題を抱えて生きてきたと思います。 ですから、「全部親が悪い」という白黒思考から「親の恩こそ絶対なり、全部私が悪うございました」という家族イデオロギー(=もうひとつの白黒思考)へジャンプしてしまうのではなく、親や他人の良い点も悪い点も、ひとりの人間の中で共存しているものとして公正に見ることが大切だと思います。「遠足の日に母親が自分のためにお弁当を作ってくれて、泣きそうなほど嬉しかった」ことも、同じ母親が「自分の机や日記を覗き見しつづけ、引出しの中の描いていたマンガをぶちまけて自分を辱めた」ことも、それは「矛盾」しているのではなく、それが、愚劣なこともあれば崇高なこともある「ひとりの人間」というものの両面なのだ、と。 「してもらったこと」、楽しかった、いい思い出があったからといって、それが親が自分に対して加えてきた虐待や暴力の罪を正当化することにはなりません。「それはそれ、これはこれ」としてキチンと見ていかなければならない問題であると思います。大切なのは、恨みと賠償取立てとしてのおねだりに固執するのではなく、また無理矢理親の罪をチャラにして「あたたかい家族」の嘘へと自分を“再洗脳”するのでもなく、現実的な視点で一人の人間として親を対象化することだと思います。だから、涙が出るほど嬉しかった、温かい思い出が3割くらいあっても、残りの7割思い出すのが虐待的な思い出ばかりで、いま現在も親に暴力をふるわれたりしていて「どう考えても自分の人生にとって帳尻が合わない!」と思うなら、良い思い出も認めた上で親を捨て去る、というオプションもアリだと思うのです。 ACにとっての内観のポイントは、「100パーセントの憎悪・恨み」などというものもまた「相手が変わってくれたらという期待」であり「裏返しの愛着」にすぎない、ということに気づくことだと思います。 人生のリソースに気づく また、親に関してまったくいい思い出など思い出せない、という人も、親以外のたとえば近所のおばさんや、学校の先生や友人など、「あの人の親切があったから、あの一言があったから、私は生きてこれた」というようなポジティブな思い出に目を向けてゆくのは、自分の人生にとってたいへん利益になります。 「虐待的な親のもとで育てられて、生きづらさの問題を抱えて生きるようになった」というのは、人生に対するひとつの認知のしかたです。むろん、それは根拠のあることなのですが、それが昂じて他のことに目がいかなくなると、それは「過度の一般化」「心のサングラス」「マイナス思考」といった「認知の歪み」になります。ひとつのイヤな出来事にこだわることで、まるで一滴のインクがコップの水を染め上げるように心にフィルターがかかり、「人生とはすべてがイヤな出来事ばかり」というふうに自分の人生を認知してしまいます。このような考え方によって、抑うつ状態が引き起こされたり、また抑うつ状態がさらに悪化してゆくことになり、楽しかった出来事やいい思い出が心のフィルターからはじき飛ばされて浮かんでこなくなります。このようにして、ますますこの「信念」が強化されるという悪循環に陥るのです。 むろん、親からの虐待という恥ずべき所業に対して「それは素直じゃないお前が悪い、お前に感謝の心がないのが悪い、そんなことにグジャグジャこだわって、楽しかったことを覚えてないのか」と虐待者の側の言い訳に使われるとすれば、「感謝の心」などまったく偽善というほかありません。「感謝の心がないから恵みに気づかないだけなのだ、許しさえあればこの世は天国だ」とだけ言って明らかな不正や社会的不平等を放置しているとすれば、それは「与えられたものに文句をいわず満足しておれ」という卑劣な言い草か、そうでなければ単に「おめでたい」だけだと思います。 しかし確かに人間は、ある特定の外側の条件について「幸せ」と感じる脳なり思考法なりが自分の側にあってはじめて、「幸せ」を得られる動物でもあります。絵についての鑑賞眼のない人にはどんな素晴らしい名画も「ただの絵」であるのと同じことです。げんに、ありあまる富や名声に囲まれながらも心はホームレスと変わらない人、というのはいます。どれだけお金のかかる最先端の整形手術をくり返しても、本当は「自分は醜い」というその心に居座ってしまった信念だけが原因で、決して自分を受け入れられず不幸でありつづける人もいます。 シャンソン歌手の美輪明宏氏は『ああ正負の法則』で、「手軽に確実に幸せになる方法は、何にでも感謝することよ」と言っています。明らかな不正に対してまで感謝感謝と砂に頭を突っ込んでいる「おめでたい人」になる必要もありませんが、しかし「幸福」を認知して未来に生かす自分の側の条件をととのえておかないかぎり、どんな社会改革も転がり込んできた富も、けっして人間を幸福にすることはないように思います。逆に、人生のリソースや恵みに気づくことによって、「人生にはいいことが待っている」という信念を作ってしまえば、同じような「幸運」を招き寄せやすくなります。 日常内観・How to この「プチ内観」は村瀬孝雄編『内観法入門』(誠信書房)を参考に作成しています。 内観法には内観道場などに1週間くらい寝泊まりしたりして集中的に行なう「集中内観」と、日々の生活の中で習慣的に行なう「日常内観」があります。「集中内観」がおもに「黙想」→「面接者(内観指導者)との対話による報告」という形で進められるのに対し、「日常内観」はもっともシンプルなものでは黙想のみであったり、またノートやレポート用紙、日記などに黙想したことを記録しておいたりして進めます。この文章に記録しておく形式の内観は「記録内観」ともよばれます。 集中内観でも記録内観でも、黙想することの内容は基本的に変わりはなく、それは次のようなものです。
【関わった相手】は、「誰について調べるのか」という、その日の内観のテーマです。多くの内観道場や本では一番最初に「母親」、次に「父親」…というふうに両親についての内観から始めるよう勧められていますが、親に対して強い拒否の感情を持っているといった場合には、自分が比較的抵抗感を持っていない人に対する内観から始め、ある程度内観が進んで心の落ちつきを得たと思ったら、自分が抵抗を持っている人に対する内観に進む、というふうにしてもかまいません。またはじめのうちは、あまり多くの人をターゲットにして内観をすると、内観そのものが散漫になるおそれもあるので、ある程度一人の人に集中して内観を進めるのがいいでしょう。 【人生の時期】は、その相手と関わった過去から現在まで、あるいは相手が亡くなるまでの特定の時期になるわけですが、たとえば20歳前後の人なら、最初は「小学校入学以前」「小学校低学年」「小学校高学年」「中学」「高校」「高校卒業後現在まで」…というように区切って、それぞれの時期について調べるといいと思います。それ以上の年齢の人なら、20歳以降を5年ずつくらいに区切るのがいいと言われています。 そして、その時期の相手について、【1) してもらったこと】【2) して返したこと】【3) 傷つけたこと・迷惑をかけたこと】の3点を調べていきます。内容は、できるだけ具体的であることが求められます。たとえば、「幼稚園時代、母は毎日お弁当を作ってくれた」ではまだ十分具体的とはいえず、「遠足の前の日、うれしくてなかなか寝つかれなかった。ふと見ると、枕元で母が何かを縫っていた。次の日、目を覚ますと枕元に洋服がそろえてあり、母は台所でお弁当をつくってくれていた。そのお弁当をみんなと一緒に山の上で食べた。おいしかった」というような具体的事実を思い出していくことが求められます。 また、「私の母は非常に親切で皆から好かれていた」とか「母は短気な人だった」というのは具体的な事実でないばかりか、母という他人のことをあれこれ述べているにすぎず、「内観」とはいえません。「内観」はあくまで自己を調べるのであり、他人のことといっても「自分の人生との具体的な関わり」を調べているのだということを、覚えておく必要があると思います。 このようにして調べた記録は、たとえば以下のようなものになるでしょう。
【して返したこと】【傷つけたこと・迷惑をかけたこと】など、自分の側の行動が思い浮かばない場合はとりあえず「思い出せない」「多分、ないと思う」などと書いておいてもかまいません。 このようにして母親、あるいは一番最初の相手についての内観が終わったら、父親、配偶者、子供、兄弟、友人…というふうに他の人々についての内観に移り、ふたたび最初の相手に戻って、今度は【人生の時期】を1年ごと、数ヶ月ごとに区切ってさらに細かい出来事を思い出していく、というふうに内観を進めていくのが一般的です。が、前にも挙げたように、親に対して強い恨みの感情などを持っているときは、親以外の、自分が否定的な感情を持っていない相手から始めてもかまいません。 なお、『内観法入門』によれば、記録内観を毎日つづけたとしても、失われた記憶がよみがえり自分自身を別の角度から見ることができるようになって本当に内観らしくなるのは、1ヶ月〜1ヶ月半後くらいであることが多いそうです。したがって、内観は気長に継続することが大切です。「毎日続ける」とか「1日何分以上」と困難な要求やノルマを自分に課したりせず、気楽に自然に継続する方がいいと言われます。 そしてまた、日常内観を習慣化して、昨日や今日の自分のことも積極的に内観し、「その日の心の垢は、その日のうちに取る」生活を続けていくことが大切である、と本では述べられています。 それでは、一人で内観ノートを用意して作業をしてもいいし、このサイトの棚卸し表が安全で役に立ちそうだと思ったら、どうぞ気軽に使ってみてください。 |